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風は境界を越えて ―川の姫―  作者: 空白朔名


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第9話 湯垢離《ゆごり》

 第9話 湯垢離《ゆごり》



 国道311号を東へひたすらバイクを走らせせた。

 標高が上がるにつれて山深い気配が増し、正午前には熊野本宮大社を擁する本宮の町へと到着した。

 トンネルを抜けてすぐの三叉路の路肩にバイクを停め、ヘルメットを外しながら俺は後ろの巴美に声をかける。

 

「どうする? 本宮大社にこのまま行くか?」


「本宮大社への参拝は明日にしましょう」


「じゃあ……温泉でも浸かりに行くか? 今日泊まる予定の『湯の峰温泉』にもお風呂はあるけど、近くの川湯温泉にある『仙人風呂』なんて面白そうだしな」

 

「何が面白いの?」


 ヘルメットを脱ぎ、髪を揺らした巴美が、不思議そうに首を傾げた。


 実は俺は、今日の宿を検索した時に目に入った『混浴』の二文字を思い出していた。

 考えてみれば巴美はいつも、カバンも持っていないのにどこからともなく着替えを出してくる。

 今着ている黒のパンツも白のライダースもそうだ。

 ということは……水着だって出せるかもしれない。


 ——もしかしたら、巴美の水着姿が見られるんじゃないか?

 仮に水着を持っていなくても、現地の売店で湯あみ着を借りられるはずだ。


 そんな下心と期待を必死で押し殺しながら、俺は平然を装って彼女を誘った。


「川の横の露天風呂だよ、こ……混浴だけど、もちろん裸じゃないぞ? 水着や湯あみ着を着て入るんだ」


 巴美は少し目を細め、どこか疑わしそうな眼差しで俺をじっと見つめてきた。


「よく調べてるわね……いいわ、面白そうね。行きましょ」


 いつも上から目線の生意気な巴美が、水着姿で少し恥ずかしそうにする顔が見られるかもしれない。

 俺は淡い期待に胸を膨らませ、川湯温泉へとバイクを向かわせた。


 しかし……実際に川湯温泉の河原へ到着してみると、そこには残酷な看板が立っていた。

 『仙人風呂 開湯期間:12月1日〜2月末日』

 現在は秋、冬のシーズン限定の代物だったのだ。


「あら……残念ね、和樹」


「そ……そうだな、残念だ……」


「露天風呂なら今日泊まるお宿にもあるから、そんなに気を落とさないで」


 がっくりとうなだれる俺の顔を、全てを見透かしたかのような薄く笑みを浮かべ、巴美が下から覗き込んできた。


「今度来るときは、水着も用意しておかないとね」


「今度ってなんだよ……また来るつもりか?」


「契約が終わったらね、でも和樹には熊野詣が必要だから、また来ないとね」


「そもそも、熊野詣ってどういう意味があるんだよ?」


「そうね……古くから『現世の安穏と、来世の救い』って言われているわ。色々と穢(けが)れている和樹には、両方とも必要みたいね」


「俺には『現在の救済』が一番欲しいよ……」


 俺は深い溜め息をつき、今日泊まる「湯の峰温泉」へ向けて、バイクに跨り直した。

 


 奮発して予約した温泉旅館の夕食を心ゆくまで味わい、部屋に戻った俺は風呂にでも行こうかと浴衣の帯を締め直していた。

 すると、同じく浴衣姿の巴美が、どこか楽しそうに声をかけてきた。

 

「和樹、温泉卵作りに行きましょう。外に公衆浴場もあるみたいだし」

 

「温泉卵が好きなのか? ……そうだな、夜の温泉街を少し散歩してみるか」

 

 旅館の下駄を履いて外へ出ると、山あいの川沿いに立ち上る白い湯気と、鼻腔をくすぐる硫黄の匂いが、なんとも言えない温泉街の情緒を漂わせていた。

 湯の峰温泉の中心部、川原の中に設けられた熱湯の湧き出る『湯筒(ゆづつ)』に向かう。

 売店で買い求めた卵をネットに入れ、湯筒の熱湯へと沈めた。


 茹で上がるのを待つ間、公衆浴場の前で巴美が不意に足を止めた。


「和樹……つぼ湯だって」


「なんだそれ?」


「世界で唯一、世界遺産に登録されている温泉よ。熊野古道を歩く参詣者が身を清めた『湯垢離場(ゆごりば)』ね」


「世界遺産の温泉か! それはすごいな。せっかくだし入っていこうか」


 巴美はなぜか薄く、どこか不穏な笑みを浮かべて嬉しそうに頷いた。

 ……その笑みの理由を、俺はすぐに思い知ることになる。


 受付で番号札を受け取り、待ち時間に湯筒の卵を取りに行った。

 番号札の順が来て、川原にぽつんと佇む小さな木小屋へと向かう。

 そう……そこは川底から湯が湧き出る、大人二人が入ればいっぱいになってしまうほど小さな、天然岩風呂の『貸切混浴』だったのだ。


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