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風は境界を越えて ―川の姫―  作者: 空白朔名


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第10話 手のひらの上

 第10話 手のひらの上

 


 湯の谷川沿いの石畳の階段を降り、小さな木小屋の前に立つ。


「い……いいのか、混浴だぞ? 水着とか湯あみ着とかもないんだぞ?」


「いいんじゃない? でも脱衣所がないから、わたしが浸かるまで外で待っていてよね」


「ああ、もちろんだ」


「それにね、ここのお湯は時間によって色が変わるんだって。もし透明だったら、和樹は嬉しい?」


「そ……そんなこと期待してないよ」


 巴美は笑いながら、小屋の戸を閉めた。


 小屋の中から、浴衣の帯を解く布擦れの音が聞こえてくる。

 かかり湯の音が響いたあと、あたりは静まり返った。


「入ってきていいわよ」


 中から巴美の声が届く。

 戸を開けると、一畳もないほどの狭い岩の湯船の中で、彼女は肩まで湯に浸かっていた。

 その湯の色は、水面から数センチ下すら透けないほど真っ白だった。


「残念ね、和樹」


「だから、そんなの期待してないって! 俺も脱ぐからそっち向いてろ」


「あら、わたしの裸は見ようとしてたのに、自分のは嫌なの?」


「見ようとなんかしてないよ!」


「……ふーん」


 彼女は、笑みを浮かべながら背を向けた。

 服を脱ぎかけ、ふと自分の首元に手が触れる。


「なあ……スカーフは外していいのか?」


「つけておいてよ。外したら二人とも無言になっちゃうでしょ? 狭いところで無言なんて寂しいじゃない」


「そりゃ……そうだな」


 湯気の中で全裸にスカーフ一枚という妙な格好に苦笑しつつ、俺は一度解き、結び目をゆるめ、首に掛け直した。

 これで声は通る。


 脱いだ浴衣を、岩の上に綺麗に畳まれた彼女の浴衣の隣に置く。

 狭い湯船に浸かると、隣に座る巴美の肩に擦れそうになった。

 湯船の底からは、温泉が自噴する気泡がぽつぽつと肌を撫でていく。

 

「湯の峰温泉はね、千八百年ほど前からあるらしいわ」


 気まずさを誤魔化すように上を見上げていた俺に、巴美が静かに語りかけてきた。


「そんなに古くからあるんだ……」


「日本最古の温泉なんですって。『湯の峰』の名前の由来もね、湯の花でできた薬師如来の胸から温泉が湧いていたことから、もともと『湯の胸』って呼ばれていたらしいわ」


「胸から温泉……?」


 意識しないようにしていたのに、思わず視線を隣の巴美へと落としてしまった。


「あ……今、見たでしょ?」


「見てない! 見たくても、この湯の色じゃ見えないから……」


 思わずそう口走ってから、とんでもないことを言ったと後悔した。

 そんな俺の動揺をみて、湯船の中での巴美のからかいは容赦なくエスカレートしていった。



 湯上がり、ほかほかと温まった身体で温泉卵の網をぶら下げて旅館への道を戻る。

 夜の風が冷たくて心地いい。


「楽しかったわね、和樹も『混浴』ができたから楽しかったでしょ?」


 俺を思う存分からかって満足した巴美は、ご機嫌な笑顔を浮かべていた。

 小走りで隣に追いつくと、首を傾げて下から俺の顔を覗き込んでくる。


「巴美、嬉しそうだな……もしさっきの『つぼ湯』が真っ白じゃなくて、透明だったらどうするつもりだったんだ?」


 俺が少し意地悪く尋ねると、彼女はくすりと笑い目を細めた。


「だから……今朝、近露で言ったでしょ?」


「今朝? ……なんのことだ?」


「そうよ。『本宮では期待しないで』って言っておいたじゃない」


 ——そういう意味だったのか。

 

 川湯温泉の仙人風呂といい、つぼ湯の白濁といい、俺の下心は最初からすべて見抜かれた上で、彼女の手のひらの上で転がされていたのかもしれない。

 

 俺は苦笑いを浮かべ、頭をかきながら夜の温泉街の坂道を登っていった。

 その隣で、巴美は俺を見て、楽しそうに笑っていた。

 

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