第11話 山の子
第11話 山の子
翌朝。湯上がりの余韻が残る旅館の部屋で、俺はロビーから持ってきた観光用のパンフレットを畳の上に広げていた。
「いよいよ、熊野本宮大社だな。俺たちはバイクだったけど、昔の人はここまで何日も歩いて参拝に来ていたんだな」
窓際で壁に背をもたれさせながら巴美が、こちらを振り返る。
「随分ゆっくりだったわね、湯の峰から本宮までなら、昔の人だって二日もかからなかったんじゃない?」
「まあ、色々あったからな……」
「何もなかったでしょ? 山中で行き倒れになったり、川に引きずり込まれたりしてないでしょ?」
「確かに、何事もなかったけど……」
俺が苦笑いすると、巴美は悪戯っぽく口元に笑みを浮かべる。
「今日は、ここから歩いて向かうわよ」
「えっ? 本宮大社までか? バイクも停められるし、バスだって出てるぞ」
「歩いても二時間ほどよ。山道歩くから、余計な荷物は置いて軽装でね」
「一時間か……まあ、せっかくの熊野古道だし、ゆっくり景色を眺めながら歩くのも悪くないか」
「そうと決まれば、わたしが着替えるから部屋から出ていて」
そう言われ、俺は部屋から追い出される格好になった。
俺は素直に廊下で壁に背をもたれさせながら、待つことにした。
毎回思うのだが、カバン一つ持っていない彼女が、一体どこから服を調達してくるのだろうか。
確かめてみたい気もしたが、覗こうものなら変態扱いは免れないので、その気持ちを抑えた。
数分後、静かに引き戸が開く音。
出てきた彼女は黒いトレッキングパンツに白いシャツ、その上に紺色のマウンテンパーカーを羽織った姿だった。
「……お前、本当にどこから服を持ってきているんだ?」
俺の素朴な疑問に、巴美はフッと笑うと、首を少し傾げて言った。
「脱いだだけよ」
買ったわけでも、借りたわけでもなく『脱いだ』と。
噛み合わない返事を残し、彼女は軽い足取りで階段の方へと歩き出した。
チェックアウトを先に済ませ、バイクと荷物を宿に預ける。
古い小さな橋を渡った先から、『大日越』と呼ばれる熊野古道がはじまっていた。
橋のすぐ脇に佇む昨晩の『つぼ湯』の小屋が佇んでいた。
俺は、思わず昨夜の乳白色の湯と、二人の距離感を思い出してしまった。
「和樹、湯垢離で穢れを落としたんじゃないの?」
そんな俺の動揺をすかさず察知したのか、隣を歩く巴美が意地悪そうに目を細めて煽ってくる。
「そうだよ、俺の煩悩は一度や二度じゃ落としきれないんだよ!」
開き直って言い返したつもりだった。
「あら、そうなの? 要するに……また、わたしと混浴がしたいのね?」
結局、邪念だらけの状態で大日越のスタートを切ることになってしまった。
湯の峰側からの大日越は、登り始めから足場の悪い急峻な石段と山道が続いていた。
息を切らして進んでいく。
十五分ほど登り続けると、ようやく勾配が落ち着き、緩やかな登り道へと変わった。
「熊野古道ってテレビで見る石畳の広い道ばかりだと思っていたよ、普通に厳しい山道だな」
「そういう道もあるけれど、この大日越は本宮参拝の前に立ちはだかる『最後の難所』って言われているのよ」
巴美は涼し気な顔で、木漏れ日を浴びている。
もうすぐ登りも終わろうかという時に、周囲の草木がざわざわと大きく揺れた。
風もないのに、草木は俺たちの歩みに合わせて並走するように揺れ続けた。
「獣か?」
俺は周囲を見渡し警戒する。
不意に俺の目の前、腰ほどの高さから、幼い女の子の声がした。
「けものか?」
驚いて視線を落とすと、五歳ほどのかわいらしい女の子が立っていた。
俺の警戒した口調をそのまま真似して、首を傾げている。
山中には不釣り合いな子供の姿に、俺は戸惑いながらかがみ込んだ。
「きみは、こんな山の中で一人なのか?」
「きみは……ひとりか?」
「真似しなくていいよ。……もしかして、向こうの集落に住んでるのか?」
「むこうのしゅうらく」
「そうか、ここで遊んでいるのか」
女の子は俺の顔をじっと見つめると、安心したように表情を緩めた。
「おにいさんは優しそう、おねえさんは……怖い」
俺は思わず巴美を見た。
女の子は小さな声でそう呟くと、俺の影に隠れた。




