第8話 近露の夜
第8話 近露の夜
宿に戻り、俺は部屋の机の前で腕を組んでいた。
浴衣姿の巴美が上機嫌な様子で風呂から上がってきた。
湯上がりの肌から温かい湯気が立ち上り、濡れた髪の毛先が白く光を放つ。
俺は畳の上に腰を下ろし、先ほどの河原から持ち越した、いくつもの疑問を彼女に投げかけた。
「なあ、巴美。昔、ゴウラに出された絶対に不可能な条件って何なんだ?」
「ひとつは『松ノ木淵の松が天に届くまで』。もうひとつは『橋谷のしだれ松が地に届くまで』よ」
「天に届くとか枝が地に届くとかそりゃ無理だよな。……でも、その松は枯れちゃったんだろ?」
「そうね、数十年前に枯れたわ」
「それで、三つ目の狛犬ってのは?」
「『下宮の狛犬が腐るまで』よ。下宮は、近露王子のこと」
「下宮って、今はもうないのか? そこに狛犬だけが残ったのか?」
「近露王子は近野神社に合祀されたのよ。だから今はそこで保管されてるわ」
彼女は自分の浴衣の裾を整えながら、すらすらと答える。
「なあ、前から気になっていたんだが……なんで『神社』じゃなくて『王子』って言うんだ?」
「役目が違うのよ。王子は、熊野の神様の御子神を祀る社でね。参拝者が道中で旅の無事を祈ったり、禊をしたりする拠点でもあったのよ」
歴史の教科書でも読むような知識をあっさりと語る彼女を、俺は凝視した。
「……ところで、巴美は何者なんだ?」
雑談に紛れ込ませて本丸を突いたつもりだったが、巴美はくすりと可笑しそうに目を細めた。
「さっき、言ったわ。あなたに聞こえなかっただけ……この会話の流れで、もう一度言わせようとしたわね?」
「バレたか……」
「猿知恵ね、和樹」
「反論できない……」
俺が苦笑いしながら、話を元に戻す。
「でも石の狛犬が腐るまでとか、永久に人前に出て来るなってことだよな」
「木製だったって説もあるわ。昔は多かったの……風雨に晒される参道じゃなくて、本殿の中に置かれる『神殿狛犬』ね」
「よく知っているな……。で、君は一体誰なんだよ」
「あなたの嫁設定よ、何度も言ってるわ、おサルさん」
「…………」
俺の誘導尋問に乗らないどころか、今度は犬以下のおサルさん扱いにされてしまった。
満足そうに口元を綻ばせる彼女から視線を外し、俺は壁を向いて横になる。
目を閉じると、暗闇の河原で見せられたあの無音の唇の動きを、何度も、何度も思い返していた。
翌朝。
朝食を食べ終えた巴美は、湯呑みを両手で包み込みながら、静かに外の景色を眺めている。
俺は昨夜から気になっていた件を切り出した。
「なあ、昨日のはカウントされるんだろ?」
「何のことよ?」
「この首のスカーフの呪いを解くための『巴美のお手伝い』だよ」
「和樹、何かお手伝いしてくれた? ……ずっと震えて目をつむっていただけじゃなかった? っていうか、あの場にいた?」
「いたよ! 震えてないから!!」
「わたしの腕を掴んで、怖くて泣いていたわよね?」
「泣いてねーよ!」
「はい、ノーカウントね」
「わかったよ、それで今日は本宮町に向かうんだろ?」
「そうね、わかってきたわね」
「ちゃんと宿も確保したぞ、一部屋だけどな」
「飛び込みでよく取れたわね」
「中心部からはだいぶ離れているけどな」
「そう……でもね。本宮では期待しないでね」
先ほどまで俺をからかい満足そうだった巴美は、そう言って静かに目を伏せた。




