第23話 依頼の終わり
第23話 依頼の終わり
滝の近くに、誰を祀っているのかわからない古く小さな祠が、ひっそりと佇んでいた。
そこからさらに滝に近づき、深い緑の滝つぼが見えた。
俺たちは岩場を伝って滝へと近づく。
目の前には、吸い込まれそうなほど深いエメラルドグリーンの滝つぼが広がっていた。
落差二十メートルほどの滝ではあったが、水量が多く、飛沫を上げていた。
澄み切った水底にゆらゆらと泳ぐ川魚の影が見えた。
「いくら和樹がお魚が好きでも、ここの魚は獲っちゃだめよ」
「獲らないよ、それに当分は魚料理は遠慮したい気分だよ」
そんな話をしていた時。
周囲の木々がざわつきだして、強い風が俺達の間を吹き抜けていく。
次の瞬間。
ざわついていた木々が静けさを取り戻したと同時に、滝の水音も風にさらわれたかのように音をなくす。
静寂の中、地の底から響くようなかすれた声が届いた。
「川の……姫か……」
その声は、大雲取越の闇の中で俺たちを襲ったあの牛鬼の声にどこか似ていたが、それよりもずっと静かで、しわがれていた。
「そうよ。あなたの懇望を叶えてきたわ……」
「そうか……手間を……取らせたな」
「もう、荒ぶって手の付けようがなかった……持ってきたから、あなたの元に置いてあげて」
巴美はライダースジャケットのポケットに手を入れて、手の中に収まるほどの黒い石を取り出した。
「わかった……預かろう……」
水面が静かに揺れ、古木の枝のように太く、巨岩のようにゴツゴツした腕が現れた。
その鋭い爪の先へ、巴美は黒い石と、買ってきた純米酒『黒牛』の小瓶をそっと置いた。
「気が……きくな……」
「わたしからじゃないわ……」
「そうか……人の子よ……すまないな」
「……じゃあね、さよなら」
「ああ……またな……川の姫」
腕は静かに酒瓶と石を受け取ると、水面へと深く沈んでいく。
その怪異の視線が、最後に俺へと向けられた気がした。
腕が完全に滝壺の深淵へと消え去ると同時に、激しい滝の水音と風のざわめきが一気に俺の耳へと戻ってきた。
急激に現実に引き戻され、荒い息を吐きながら、俺は滝壺をじっと見つめる巴美の横顔に視線を合わせる。
「巴美……あの牛鬼の『懇望』……お願いを叶えることが、君の目的だったのか?」
「ええ、そうよ……」
「あの黒い石は?」
「あの大雲取越の牛鬼が、バイクの鏡を覗いた時に……姿が変わってしまった成れの果てよ」
「牛鬼が……仲間の牛鬼の退治を、巴美に託したのか?」
「理を外れて、ただ人間を脅かし暴れるだけの存在になってしまっていたから……。でもね、あいつらはこの山に必要な存在なのよ」
「必要……?」
「恐ろしい牛鬼がいるから、人もこの美しい自然や神域に安易に手を出すことができないの。恐怖こそが、この山を守る境界線なのよ」
「そうか……ちゃんと意味や役割があるんだな」
俺はその言葉を、思わず自分の心に重ね合わせていた。
会社の理不尽な扱いや、人間関係に嫌気がさし、自暴自棄になって当てもなく逃げてきた和歌山だった。
しかし今の俺には、巴美と出会い、ここまで一緒に旅をしてきたすべての時間に、意味があったのだと思えた。
「さて……これで、わたしが頼まれていたことは終わったわ」
巴美はふっと肩の力を抜くと、寂しげな微笑みを俺に向けた。
「巴美……」
「和樹に手伝ってもらうのも、これで終わりね……」
「待てよ……俺は、まだ何もしてない。君の役になんて、何一つ立ってないじゃないか!」
「ここまで無事に連れてきてくれたわ。それに……」
「俺なんて、ただバイクに乗せて走っていただけだろ……!」
「それに……あなたがいなかったら、わたしはこの姿を……」
巴美のその言葉の意味を、俺の頭はまだ理解しきれていなかった。
俺は、彼女の言葉を遮るように叫んでいた。
「まだ、いいんだろ? 巴美。白浜まで……君と出会った最初の場所まで、一緒に行こう!」




