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風は境界を越えて ―川の姫―  作者: 空白朔名


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第20話 声にならない想い

 第20話 声にならない想い



「待て! ……行かないでくれ!!」


 俺の痛切な叫びも、激しく流れる川の音にかき消され、彼女へと届くはずもなかった。

 空からは大粒の雨が降り出し、俺の頬を濡らしていく。


「行くな……行かないでくれ!」


 腰まで冷たい川に浸かった彼女が、こちらへと振り返る。


「……和……樹」


「……和……」


「和樹!」


「和樹、起きて!」


「えっ!?」


「泡の止め方がわからないのよ!」


 激しい水の跳ねる音と、ジェットバスの稼働音が部屋中に重低音となって響き渡っていた。

 目を覚ました俺の顔の上に、濡れた髪から雫を垂らした巴美の顔が迫っていた。

 俺の顔を濡らしていたのは、彼女の髪から落ちた雫だった。


「巴美? ……風呂に入ってたのか?」


 ぼんやりとした頭で身体を起こそうとした俺は、次の瞬間、一気に目が覚めた。

 湯気の立つ部屋の中で、目の前に立つ巴美の格好。

 それは、豊かな胸元に白いバスタオルを一枚巻きつけただけの、あまりにも艶やかな姿だった。


「なんて格好してるんだよ!」


 反射的に彼女と反対の方向へと目を背けた。


「だって、お風呂の泡の止め方がわからなくて、何度も呼んでたのに……」


 慌ててバスルームへと駆け込み、壁のパネルにあるスイッチを押してジェットバスを切った。

 鳴り響いていた泡の音が消え、密室に急な静寂が戻ってくる。

 

「ありがとう。和樹、詳しいのね」


「く……詳しくなんかないよ」


「和樹がそんなに詳しいなら、一緒に入ればよかったわ」


 バスルームの入口に寄りかかった巴美が、悪戯っぽく口元を綻ばせた。


「何言ってるんだ……風呂から上がったら、夕食買いにいくぞ!」


「だって、ここ……そういう恋人同士が泊まる場所でしょ?」

 

 上目遣いにクスクスと笑う彼女を見て、俺はその場に膝から崩れ落ちそうになる。

 

「お前……知っていたのか……」


 騙しているようで気が引けていた俺の葛藤も、巴美にはすべてお見通しだった。

 結局俺は最初から最後まで、また巴美の手のひらの上で転がされているだけだった。


 

 夜。近くの弁当屋で買ってきた夕食を済ませ、そろそろ寝る時間になった。

 だが、やはりベッド一つで一緒に寝るわけにもいかないと思った俺は、ソファーの上に横になろうとする。

 

「和樹、まだ寝ないの?」


 ベッドの上から巴美が、不思議そうにこちらを見ていた。


「ああ、俺はここで寝るから、巴美はベッドを使えよ」


「こんなに大きいのよ? 布団二組分あるわ?」


「でも、分かれてないから一組だ」


「昨日は、休憩小屋でくっついて寝たでしょ? それにいつも旅館ではお布団は並べてるじゃない?」


「そうだけど……」


「もしかして……美少女と寝るのが、急に恥ずかしくなった? それとも、こういう場所だから夜はなにか期待……」


「分かったよ、半分こだからな! あと、自分で美少女って言うな……」


 あまりの巴美のしつこさに折れた俺は、諦めて広いベッドの端へと潜り込んだ。

 彼女は俺が入ってきたのを確認すると、安心したように背中を押し付けてきた。


「広いんだから、もう少し離れ……」


 俺の言いかけた言葉を遮るように、巴美がぽつりと呟いた。

 

「和樹は……この後、どうしたい?」


「えっ!? ……それは……」


 心臓が跳ね上がった。


「どうしたいの……?」


 薄暗い部屋の中で、急に息が苦しくなる。


「俺は……巴美のことを……」


「白浜まで戻るの?」


「ああ……そっちか……巴美は、白浜の方に住んでいるんだろ?」


「……白浜に着いたら……お別れ?」


 背を向けていた巴美が、ベッドの中で静かに俺の方へと寝返りを打った。

 そして、その白く細い腕を俺に伸ばしてきた。


「巴美、俺は……」


 再び言葉を続けようとした俺の首に、巴美の伸ばした腕が、そっと回った。

 そして、首に巻かれていたあの滑らかな白いスカーフの結び目を解いた。

 声の振動が消え、言葉を失った俺の顔を、彼女は至近距離で見つめていた。

 巴美は声を出さず、ただ唇の動きだけで、静かに優しく告げた。


 ——『お・や・す・み』


 俺は本当は何を言おうとしていたのか、自分でも分からなかった。

 そして、俺はさっき見た夢の最後の光景を思い出していた。


 ——行かないでくれ……。


 声にならない叫びだけが、深夜の静かな部屋の中に切なく響き続けていた。

 

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