第19話 川霧の女
第19話 川霧の女
那智の滝を後にし、バイクの停めてある駐車場まで戻ってきたが、俺は今日の宿がまったく取れない事態に焦りを隠せずにいた。
いつもなら、当日のキャンセル空きや『一部屋くらいなら』と滑り込めることが多かったのだが、今日に限っては周辺の宿がどこも満室で全滅だったのだ。
「どうしたの? さっきから不細工な顔して」
「それを言うなら、『難しい』だろ? いや……今夜の宿がどこも取れないんだ」
「二日連続で野宿するつもりなの?」
「昨日は野宿じゃない、地蔵茶屋跡の近くの休憩小屋だよ」
「取り敢えず、勝浦の街まで行けば、なにかあるんじゃない?」
「そうしよう。きっと、なんとかなるよ」
それから数時間。
俺たちは宿を見つけられないまま、勝浦の港街をあてもなく彷徨うことになった。
とりあえず『勝浦漁港にぎわい市場』で、昼食として新鮮な生マグロや海鮮丼を堪能したが、肝心の寝床が決まらない。
「ここも、ダメだ……」
施設に隣接する足湯で温まりながら、俺は諦め気味にスマートフォンをベンチへ投げ出した。
「野宿決定なの? じゃあ、お風呂ぐらいは入らせてよ」
「そうだな、『日帰り湯』なら……って、巴美、また野宿するつもりか?」
「昨日は野宿じゃなくて、休憩小屋なんでしょ?」
「そ、そうだけど……そうだ、串本方面まで行けばなんとか空きがあるかもしれない!」
「……期待しておくわ」
俺はもう一度スマホを拾い上げ、串本周辺の宿泊施設を検索し始めた。
地図を南へスワイプしたその時、ふとある検索結果が目に飛び込んできた。
——いや、ここは……さすがに、まずいだろ……。
そこはカップルが利用する休憩施設——いわゆるラブホテルだった。
慌てて画面を消そうとした瞬間、巴美が横から覗き込んできた。
「ここ、『空き室あり』になってるわよ?」
「それは……昼間だから空いているんだよ」
「そ、そうなんだけどさ……アレだ……いわゆる……その、アレなんだよ」
「どうしたの? 『牛鬼』みたいな話し方になってるわよ?」
「ベッドが一つの部屋なんだよ、二人で泊まるんだけど」
「いいんじゃない? 美味しい海鮮も食べたし、野宿よりいいでしょ?」
「と……巴美がよければ、俺は別にいいよ」
「じゃあ、決定ね」
串本方面への途中、街外れの国道から少し入った場所にそのホテルはひっそりと佇んでいた。
バイクを駐車スペースに停め、自動ドアをくぐって建物の中に入る。
「変わった造りね。それに、宿泊費もずいぶん安めじゃない?」
「大体、数時間で出ていく人が多いからな……ショートステイっていうんだよ」
「宿帳は書かなくていいの?」
「そういう手続は……無いんだよ」
フロントのパネルで部屋を選び、鍵を受け取りエレベーターで指定された部屋に入った。
何も事情を知らない巴美を騙して、連れ込んでいるような気がして、俺の胸は罪悪感で張り裂けそうだった。
「本当に大きなベッドが一つなんだ。テレビも大きいわよ」
「そうだな……」
部屋の中を珍しそうに見て回る巴美を直視できず、俺は必死でスマホの画面に視線を集中させた。
今夜の夕食用に近くのテイクアウト専門の弁当屋を見つけ、近隣の温泉施設も確認する。
密室の独特な雰囲気にどうにも気まずさを感じ、巴美を外へ誘い出そうとした。
ソファーの柔らかさと、静寂に包まれた空間の居心地の良さに、過酷な一夜を越えて限界を迎えていた俺の体は、抵抗する間もなくそのまま深い眠りへと落ちてしまった。
……まるで、誰かに静かに意識を引き寄せられるように。
朦朧とした意識の中で目を開けると、そこは砂利が広がる川原だった。
濃い川霧の向こうから、静かに一人の女性の姿が立ち現れる。
艶やかな着物を纏い、長い黒髪をなびかせた彼女は、裸足のまま冷たい砂利を踏みしめて歩いていた。
その横顔は、深く寂しげだった。
「君は誰なんだ……?」
俺の問いかけに、ふっとこちらに視線を向ける。
「……わたしは……き……め……よ」
激しく流れる川音に掻き消され、そのか細い声は最後まで聞き取れなかった。
「すまない、聞こえなかった。もう一度……」
俺の言葉に、今度は聞こえないふりをするように、彼女は再び前を向いて歩き出した。
そして、着物の裾が濡れるのも気にせずに、そのまま冷たい水の中へと静かに入っていく。
「待ってくれ……君は誰なんだ……」
川の流れる音が次第に鼓膜を刺すほど激しく大きくなり、泡立つ水面が弾けていく。
それはまるで、あの那智の滝の激しい轟音のように……。




