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風は境界を越えて ―川の姫―  作者: 空白朔名


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第2話 呪いと契約

 第2話 呪いと契約

 


 彼女と別れて数分、俺は民宿に向かい歩いていた。


 ——変な子だ……契約とか呪いとか何の冗談なんだ。


 疑いを捨てきれず、俺は試しに声を出してみる。


「……」

「…………」

 

 声の出し方そのものを忘れてしまったかのように、喉の奥が引き攣り、言葉にならない。


 ——出ない、本当に、声が……出ない。


 冷や汗が頬を伝う。

 焦りと不安に駆られ、俺は慌てて巴美の姿を探したが、静まり返った川原に彼女の影はどこにもなかった。

 

 その直後、激しい脱力感が俺を襲った。

 胃のあたりが急に冷え込み、立っていることすらできなくなる。

 俺はその場に膝から崩れ落ちた。


 ——これが、呪いなのか!?


 地面に手をついて身体を支えようとするが、指先にすら力が入らない。

 視界が狭まり、瞼が重く落ちていく。

 

 薄れゆく意識の端に、真っ白なパンプスが映り込んだ。

 直後、首元に、あの滑らかな絹の感触が巻き直された。

 声が出せるようになった。


「手を出して」


 頭上から声が降りてきた。


「手……?」


「手も分からないの? 犬の方がよっぽど賢いわ」

 

 あまりの言い草に言い返したかったが、その気力すらなかった。

 言われるがまま、手を差し出すと、彼女は白く細い指で、俺の手のひらに何度も文字をなぞった。

 そして俺の手首を掴み、その手を俺の口元へと導く。


「……飲んで」


「飲む?」


「いちいち聞き返さないでよ! 馬鹿!」


 俺は言われた通り、手の平に書かれた目に見えない文字を飲み込んだ。

 すると不思議なことに、胃の奥からじわじわと熱が広がり、体に力が戻ってきた。

 荒い息をつきながら視線を上げると、巴美が上から覗き込んでいた。


「……これが、さっき言っていた呪いなのか」


「違うわ、これは『ヒダル神』の仕業……こっちでは『ダル』って呼ぶわね。手のひらに書いてあげたのは『米』の文字よ」


「ヒダル神? お前が追い払ってくれたのか?」


「いいえ、昔からそうするものでしょ?」


「知らねえよ……」


 手を引かれフラつきながら立ち上がる。

 彼女は俺を見上げ、少しだけ笑った。


「あなたが、河原に来た時からずっと狙っていたみたいよ」


「……お前は、そういうものが見えるのか?」


「さあね……」


 彼女は、一度視線を逸らし、そして呟く。


「……呪いのこと、信じる?」


 俺は今まで、こうした現実離れした体験など一度もしたことがない。

 世間に溢れる呪いや怪異の昔話にしても、どこかの誰かが作ったおとぎ話程度にしか思っていなかった。

 だが、今はこの目の前にいる彼女の言葉を、信じる以外になかった。


「ああ、声が出ないと不便だからな。どうやったら呪いが解けるんだ?」


「立夏までかな? 神様が衣替えする頃までね」


 巴美は腕を組み、宙を見上げ思案するように答えた。


「おい、まだ秋だぞ! 半年も先じゃないか!」


「言われなくても、知ってるわよ!」


「わかったよ、じゃあ立夏の時期まで、このスカーフをしておけばいいんだな」


「何のことよ? 呪いと契約は別の話よ」


「もしかして、後から高額な請求するんじゃないだろうな……」


「平日の昼間から河原をうろついてるあなたに、そんな請求はしないわよ」


 彼女こぼれた笑みを手で隠した。

 だが、その目は確かに俺をからかって笑っていた。


「一昨日まで、ちゃんと働いていたよ!」


「わたしを手伝ってくれたら、その呪いを解いてあげるわ」


「何を手伝うんだよ?」


「文句と質問が多すぎよ!」


「教えろよ!」


「そのうち、わかるわよ。馬鹿じゃなければね!」


「お前、失礼だぞ!」


「もう何回も『馬鹿』って言ってるわよ! 気づいてないの、馬鹿なの?」


「お前……本当に口が悪いな」


「わたしは、名乗ったわよ?」


 そう言われ、俺ははっと息を呑んだ。

 そういえば自分から名乗っていなかった。


「ああ……そうか。俺は守安和樹(もりやすかずき)だ」


「それじゃあ、よろしくね。和樹」


 俺の名を呼んだ彼女の微笑みは、先ほどまでの毒舌が嘘のように柔らかく、どこか優しげだった。


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