第1話 契約成立
第1話 契約成立
「……理不尽だ」
大学を卒業して十年勤めた会社に退職届を出した。
そして、俺はバイクであてもなく旅に出た。
バイクは通勤用に買ったものだったが、愛着はあった。
特に趣味もなく旅慣れてもいない俺は、ただ南へ走り、この和歌山までたどり着いた。
白浜で海を眺め、安さだけで選んだ富田川沿いの宿を取ったものの、やることもなく部屋を出て河原を歩いていた。
川風が吹き抜け、視界の隅を白い何かが通り過ぎた。
目をやると、草むらに白い布が引っかかり、風になびいている。
「ん……落とし物か?」
拾い上げてみると、絹のように滑らかな肌触りが指から伝わってきた。
辺りを見回すが、川音ばかりが響き、人の気配はない。
手にした布だけが、秋の冷たい川風のなかで不自然なほど温かく、生き物の肌のように柔らかかった。
「……スカーフか?」
柄もなく、ブランドのタグすら付いていない。
ふと不穏な気配を感じて視線を上げると、先ほどまで誰もいなかったはずの河原に、一人の女性が立っていた。
落とし主かと思い、俺は声をかける。
「これ、君のものか?」
スカーフを差し出すと、女性はこちらに視線を向け、ゆっくりと近づいてきた。
年齢は俺より少し若く見えた。
目を逸らせなくなるほど整った顔立ちをしている。
肩まで伸びた黒髪は、毛先に向かうにつれて色が薄れ、銀色に輝いて見えた。風に白いワンピースの裾が揺れる。
彼女は白い腕を伸ばし、無言でスカーフを受け取った。
直後、そのスカーフを滑らかな手つきで俺の首元に巻きつけてきた。
「えっ……!?」
意図が分からず困惑する俺に、彼女は薄く笑みを浮かべる。
「それは……お守りよ。長寿のね」
状況が飲み込めず言葉を失った俺に、彼女は冷ややかな声で言葉を重ねる。
「……持ち主以外は、寿命を奪うけど」
「いや……俺は、今ここで拾っただけだ。君のものだろ?」
「落ちてたら拾うの?」
「ああ……落とし物だからな」
「そう……?」
俺は首に巻かれたスカーフを外そうと手をかけた。
彼女は俺の手に自分の手を添えて制止した。
「取りあえず返すよ、君のだろ?」
「外さないで……呪いが、かかるわよ」
彼女の手を払いのけ、スカーフを外した。
「何の呪…………」
俺の口は確かに動いている。
しかし……声が出ていないことに気が付く。
「…………」
彼女の声も聞こえないが、川音は聞こえている。
彼女が俺の手からスカーフを取り上げ、再び俺の首へ巻き直した。
「だから、外すなって! 馬鹿なの?」
スカーフを巻き直された途端、声が戻った。
「今の……なんだ?」
「何度も言わせないでよ、呪いだって言ったでしょ」
「待て、待て待て待て……意味が分からない、俺はスカーフ拾っただけで……」
「まあ、その時点で契約成立してるから」
「俺は契約なんてしていない!」
「したわ!」
「いつ?」
「わたしの布を拾った時よ。手で触れたら、それだけで『一部を分け合う』契約が成立するの」
「そんなの契約じゃない! ……そうだ、契約書もないだろ?」
「人間は契約書がなければ約束できないの?」
射抜くような眼差しに気圧されながらも、俺は言い返した。
「当たり前だ!」
「……だから、あなたたちは約束をやぶるのね」
吐き捨てられた言葉の重みに一瞬怯むが、俺は必死に食い下がる。
「クーリングオフさせてくれ!」
「どこに、そんなことができるって書いてある?」
「どこにって……契約書もなしに契約させたのは君だ!」
「巴美よ。ソレ、長く外してると寿命が尽きるわよ?」
「ふざけるなよ……ちょっと、かわいいからって調子に乗るな」
「信じないなら、返してくれてもいいわよ? 声だけじゃなく光も音も命も失うわよ」
「そんなこと信じないよ、声のことも何か仕掛けがあ…………」
俺は再びスカーフを取り、彼女に叩きつけるように突き出した。
「…………」
『じゃあな』と手を上げ俺は歩き出した。
彼女は呆れた表情で俺を見ていた。




