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風は境界を越えて ―川の姫―  作者: 空白朔名


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第17話 居てくれて良かった

 第17話 居てくれて良かった

 


 休憩小屋の窓の外は、いつの間にか闇から、静かな青い朝の景色へと変わっていた。

 窓越しに広がる朝霧の幻想的な世界を見つめていると、昨夜繰り広げられた恐ろしい出来事が、果たして本当に現実だったのかすら分からなくなってくる。


 温かく柔らかい巴美の膝の上から、ゆっくり頭を持ち上げる。

 昨日の痛みは嘘のように消え去っていた。

 彼女が一晩中座った姿勢のまま、俺に膝枕をし続けてくれていたのだと気づき、気恥ずかしさと申し訳なさが胸の奥からこみ上げてきた。


「おはよう、和樹」


 ゆっくりと目を開けた巴美が、隣に座り直した俺へと優しく視線を向けてきた。

 

「ああ、おはよう。一晩中膝を借りて悪かったな、もう平気だよ」


「そう、元気になって良かったわ。一生治らない人も、亡くなる人もいるのに……運がいいわね」


「巴美のおかげだよ。君は大丈夫なのか?」


「膝が生ぬるいぐらいよ、あなたのヨダレも垂れているかも……」


「垂らしてないよ!」


 俺は思わず口元を拭いながら、昨夜の恐怖を思い返して尋ねた。


「なあ、あの『牛鬼』っていったい何なんだったんだ?」


「山に捨てられたり、迷った牛の怨念が山の邪気や鬼の力と混ざったともいわれているけれど……」


「……けれど? 他に何かあるのか?」


「滝つぼや深い淵、山奥でのかかり病で命を落とす人々の『死への恐怖』そのものが、形を取った姿なのかもね」


「かかり病って?」


「昔は、行き倒れや急病になったら助けなんて来ないから。そのままそこで死ぬ人も多かったのよ」


「牛鬼は神社や祠に祀って、鎮めたりはできないのか?」


「最初から関わってはいけない脅威なのよ。人間の呪いや怨念なら祀って鎮められるけれど、あいつらは根本が違うの。近づかないことが一番ね」


 巴美は静かに目を伏せた。

 彼女が危険を冒してまで、一人でこの過酷な大雲取越という場所に来たかった理由。

 それは『亡者の列』の中に誰かの面影を探しに来たのか、それともこの地に巣食う『牛鬼』を退治しに来たのか……今の俺には分からないままだった。


「あなたのバイク取りに行かないとね。一晩中暗い山の中で、寂しがっているわ」


「そうだったな。あそこから、ここは近いのか?」


「五分ぐらいの所よ。昨日の功労者なんだから、早く迎えに行ってあげましょ」


「一番の功労者は巴美だろ? 次にバイクで……俺は三位か」


「和樹は圏外ね……」


 呆れたようにくすりと笑うと、巴美は立ち上がり掛けた足を止め、ふっと俺の顔を見つめた。

 

「でも、居てくれて……良かった」



 避難小屋を出て、朝もやの立ち込める山道を二人並んで歩き出す。

 隣を歩く巴美との距離は、昨日までよりも少しだけ近い気がした。

 五百メートルほど進んだ林道の路肩に、一夜を明かした愛車のバイクが佇んでいた。

 

「……なあ巴美。俺をこの距離、運んでくれたのか? 一体どうやって……」


 俺よりはるかに華奢で小柄な巴美。

 意識のない俺を背負うことも、ましてこの距離を運ぶこともできるはずがないと思った。


「背に乗せて運んだのよ、あの姿を人に見られたらどうしようかと思ったわ」


「えっ!?」


「『巴美……巴美……』ってうるさかったから、誰にも見られたくなかったの」


「言ってねーよ!」


 俺は照れた顔を隠すために、バイクのシートの上に置いてあったヘルメットを被った。

 バイクに跨り、キーを回してセルボタンを押す。

 力強いエンジン音が朝の静かな山々に響き渡った。

 後ろに跨った巴美の柔らかな重みが、俺の背中に預けられる。


「ありがとうな……」


「今の誰に言ったの? バイク? それともわたし?」


「巴美、邪魔するなよ……俺とバイクとの会話だ。それとも妬いてるのか?」


「じゃあ今度は、バイクの横に寝かせておいてあげるわ。一晩中暗い山の中でバイクとイチャイチャしてなさい」


「冗談だよ、巴美に言ったんだ!」


 大雲取越を後に、那智の滝に向けアクセルをひねった。

 朝の澄んだ冷たい風が、首元に巻いた白いスカーフをすり抜けていく。

 その冷気とは対照的に、背中に押し当てられた巴美の柔らかく温かい体温が、ジャケット越しにじんわりと俺の心まで伝わってきていた。

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