第16話 事理反転
第16話 事理反転
ただならぬ殺気が渦巻く暗闇の中、俺は覚悟を決めた。
巴美の細い背中を追い越し、彼女を庇うように一歩前へ出る。
「和樹!」
「巴美……君が何者か俺は知らない。でも自分だけ後ろで震えているなんて絶対に嫌なんだ!」
「……大丈夫よ。和樹」
「もしもの時には……俺を使ってくれ……」
——彼女の盾ぐらいには、なれるだろう……。
そう言葉を続けようとした、瞬間。
急激に全身から血の気が引き、手足の力が一気に抜け落ちて、俺はその場に膝から崩れ落ちた。
手足が痺れ、言葉を発することもできない。
あの怪異の息がかかった頬から首筋にかけて、激痛が走る。
膝立ちのまま倒れそうになった俺を、巴美は正面から抱きかかえるようにしてしっかりと受け止めた。
「あいつの姿を見ないで、わたしだけを見てなさい」
「……ああ」
声にならない返事をした。
雲が切れ、月光が闇を裂くように降り注ぐ。
下から見上げた巴美の顔が、青白い月明かりの中にくっきりと浮かび上がった。
俺を抱く彼女の表情には、この上なく穏やかで優しい笑みが浮かんでいた。
「……来るわ!」
怪異の荒々しい呼吸が、泥臭い生ぬるい風となって、あたりを包み込む
巴美の瞳が、月の光を映すように色を変えた気がした。
「石は流れる……木の葉は沈む……牛は嘶き(いななき)、馬は吼える……」
巴美はそう唱えながら、俺たちの脇に停めてあったバイクのハンドルを握った。
「和樹……あなたが嫌い……あなたと離れたい……」
彼女は視線を俺に向け、愛おしそうに、けれど切なく微笑んだ。
そしてすぐに、俺の視界が狭くなり、意識が深い闇へと落ちて行った。
目を覚ますと、木の天井が視界に入った。
重い頭を少し動かし、窓の外に目を向けると、自動販売機の青白い人工的な光が周囲を照らしていた。
ぼんやりとした頭でもう一度視線を戻すと、上から巴美がこちらを覗き込んでいた。
「ここは……」
「地蔵茶屋跡近くの休憩所よ」
「ここまで、巴美が俺を運んでくれたのか?」
「そうよ、和樹は『牛鬼』の毒気にやられたのよ」
「『牛鬼』!」
その名を聞いた瞬間、俺は跳ね起きた。
「あいつは……どうなったんだ!?」
「もういない……」
驚いて周囲を見回すと、巴美は壁沿いに造られた木製のベンチに腰掛けていた。
俺の頭は、ほんのさっきまで彼女の膝の上にあったようだった。
「痛っ……!」
急に起こした拍子に、頭に激痛が走った。
巴美はよろめく俺の肩を掴み、ゆっくりと頭を元の膝の上へ戻させた。
「どうやって……あいつを倒したんだ……?」
「事理反転の古いまじないと、あなたのバイクのミラーよ」
「ああ……あのとき唱えていた言葉か……」
「そうよ、昔から伝わる、『強い言霊』よ」
「そうか……本来は石が沈み、木の葉が流れる。逆のことを言うことで、世の理をひっくり返すってことだな」
「バイクのミラーって、どういうことだ?」
「牛鬼は、姿を見せず影を舐めて病を起こさせる怪異よ」
「それで、ライトを消して影を作らなかったのか……」
「その姿を見たり、目が合うだけで命を奪われるとも言われてる。鏡に映る自分の姿に呪いをかけてしまったのよ」
「やっぱり……凄いな、巴美は……」
「そんなことないわ、昔の人が編み出した退治法を、そのまま試しただけよ」
「それで……俺のことが嫌いとか離れたいって言ったのは? あれも事理反転……」
それまで冷静に話していた巴美が、急に慌てだした。
「そんなこと……絶対に、言ってない!! ……牛鬼の毒気で頭がおかしくなったんだわ!」
そう言って、俺の首に巻かれているスカーフを解いた。
休憩所の小屋の窓の外には、夜風の音だけが響いていた。




