第9話:東南の風
第9話:東南の風
長江の冬は、常に北風が支配する。それは曹操にとっての「勝機」であり、連合軍にとっては「絶望」を意味していた。もしこのまま北風が吹き続ければ、周瑜が放つ火船はすべて、自分たちの陣営を焼き尽くすことになる。
「諸葛亮殿、風はいつ変わるのだ」
周瑜の軍府には、焦燥の色が濃く漂っていた。連環の計で曹操軍を固め、黄蓋の投降も受け入れさせた。舞台は整った。しかし、最後のピースである「風」だけが、どうしても手に入らない。
諸葛亮は、柴桑の南山に七星壇を築かせた。
壇上には八卦の旗が翻り、孔明は道士の衣装を纏って静かに瞑想を続けている。その姿は軍師というよりも、天と対話する祈祷師のようだった。
「風は、天の機嫌次第ではありません。この地の地形と、季節の変わり目に生じる『大気の揺らぎ』を計算すれば、必ずや東南の風が吹く」
「必ず吹くと言い切れるのか」
周瑜は鋭く問うた。諸葛亮は静かに目を閉じ、扇を天へ向ける。
「信じるのです。周瑜殿、貴殿が曹操を討つという覚悟を、天もまた無視はできぬはず」
三日目の深夜。軍府の旗が、わずかに揺れた。
北風が止んだのだ。空を覆っていた重苦しい雲が切れ、星々がその輝きを取り戻し始める。そして――。
「……来た」
諸葛亮の呟きと同時に、南から暖かい湿った空気が吹き込んできた。それは、冬の長江では考えられない「東南の風」だった。
周瑜は外へ駆け出し、頬に当たる風を確かめた。最初はわずかな微風だった。しかし、それは瞬く間に勢いを増し、北岸に向かって一直線に吹き荒れる突風へと変わった。
「吹いた……! 本当に風が変わった!」
周瑜の目には、歓喜と、それ以上の恐怖が混ざっていた。この男は、本当に天候を意のままに操ったのか。それとも、歴史の必然さえも計算し尽くしているのか。
諸葛亮の足元には、彼が刻んだであろう緻密な気象データと、地形図の断片が散らばっていた。それは魔術ではなく、極限まで突き詰められた「科学」であった。
「周瑜殿、時は満ちました。火を放つのは、貴殿です」
諸葛亮は壇から降り、周瑜の肩に手を置いた。その手は冷徹に、しかし確かな意志を込めていた。
北岸では、曹操がこの風に顔をしかめていた。
「南風だと……? この時期に、なぜ南風が吹く」
曹操の陣に漂う不吉な予感。だが、連結された巨大な船団は、もはや風を避けて動くことさえできない。
風は、勢いを増す。長江を渡り、北岸の曹操軍を飲み込む巨大な炎の道を作るために。
天下を焼くための舞台は、いま、準備完了となった。




