第8話:連環の罠
第8話:連環の罠
赤壁の風は、まだ静かだ。しかし、水面下では、曹操の全軍を飲み込むための巨大な檻が編み上げられようとしていた。
呉の陣営に潜り込んでいた龐統は、一通の密書を懐に、単身で北岸の曹操陣営へと乗り込んだ。彼は諸葛亮の旧友であり、その知謀は孔明にも比肩すると言われる天才策士である。
曹操は、呉からの亡命者という龐統の言葉を慎重に吟味した。
「丞相、兵たちが船酔いに苦しんでいることは承知の通り。北の兵は水に慣れぬ。これを解決しなければ、いかなる兵力も長江の上では無力に等しい」
龐統は、曹操の地図の上に、船の図面を広げた。
「船首と船尾を鉄の鎖で繋ぎ合わせ、横一列に固定するのです。そうすれば、長江はさながら大地と化す。兵たちは船の上を自由に駆け回ることができ、酔いも消え、馬での移動のように戦えます」
曹操は疑い深かった。しかし、龐統が提示した「連環」の理屈は、あまりに合理的だった。当時の軍船は平底で揺れやすく、大軍の移動には致命的な欠陥があったからだ。
「船を繋ぐか……。ならば、火攻めはどうする?
敵に火を放たれれば、逃げ場を失うぞ」
龐統は、曹操の目を真っ直ぐに見つめ、冷笑を浮かべた。
「丞相、今の時期は冬。風は北からしか吹きません。呉の軍は南にあります。火を放てば、炎は呉自身の陣営へ燃え移るでしょう。自ら火の海に飛び込むような真似を、あの諸葛亮がするはずがありません」
その言葉に、曹操は溜飲を下した。龐統の言う通りだ。地理と気象を考慮すれば、火計は呉にとっての自殺行為である。
「なるほど……。我が軍の弱点を突き、かつ勝利への道を切り開く策か。龐統、貴殿の才、見事なり」
曹操は即座に命を下した。全軍の船を鉄鎖で繋ぎ、巨大な連結艦隊を作り上げよ、と。
同じ頃、対岸の呉の陣営では、周瑜がその報せを聞き、諸葛亮に向かって深く頷いた。
「諸葛亮……貴殿の読み通りだ。曹操は、自ら自らの逃げ道を塞いだ」
「ええ。これで、曹操軍は長江の上を埋め尽くす『巨大な薪』と化しました。あとは火を灯すだけです」
諸葛亮は、揺らぐことのない瞳で北岸を見つめていた。
それは、何万という兵の命を一つの「鎖」で縛り上げる、冷酷な策。曹操が勝利を確信すればするほど、彼らは自ら死の檻の中へと足を踏み入れていく。
長江の波間には、いまや鉄と木で結ばれた巨大な戦列が浮かんでいる。曹操軍の兵たちは、揺れの止まった船上で勝利を確信し、連夜の酒宴に酔いしれていた。
だが、その鉄の鎖の重みは、彼らの墓標の重さでもあった。




