第10話:赤壁の火柱
第10話:赤壁の火柱
東南の風は、もはや轟音を伴う暴風と化していた。
この強風は、かつてない勢いで長江を南から北へと駆け抜けていく。それは、曹操軍の連環艦隊に向けられた、天からの招待状だった。
「黄蓋将軍、今だ」
周瑜の合図を受け、黄蓋の率いる数十隻の小舟が、霧を切り裂くようにして北岸を目指した。小舟の中身は兵士ではなく、乾燥させた薪、油、硫黄、そして硝石。まさに巨大な火薬庫である。
曹操は岸壁から、近づいてくる船団を見つめていた。
「呉の投降船か……。黄蓋の奴、ついに来るか」
曹操の傍らに控えていた将たちが、異変に気づく。
「丞相! あの船団、帆を上げすぎていませんか? 風を孕みすぎて、速度が速すぎる!」
曹操の脳裏に、龐統が言った言葉がよぎる。「風は北から吹くはずだ」。しかし、今、船団の背中を押しているのは、猛烈な南風だ。
「まさか……風向きが?」
その瞬間、黄蓋が叫んだ。
「今だ! 火を放て!」
二十隻の小舟から、一斉に炎が上がった。
それは紅蓮の柱となり、南風に煽られて、瞬く間に連結された曹操軍の船団へと飛び移った。鉄鎖で繋がれた船たちは、避けることも、切り離すこともできない。火は油を伝い、瞬く間に長江の全域を覆う巨大な火網へと成長した。
「あああ! 船が、船が燃えている!」
曹操の耳に届くのは、数十万の兵たちの悲鳴と、船が焼け落ちる凄まじい轟音だった。
連環された船団は、まるで巨大な焚き火のように燃え上がり、その光は夜空を昼間のように照らし出した。赤壁の岩肌が、炎の熱で真っ赤に染め上げられている。
曹操は茫然と立ち尽くした。
完璧な布陣。揺るぎない連環。それらすべてが、諸葛亮という一人の男の計算によって、彼自身の墓標と化していた。
「諸葛亮……貴殿の、勝ちか……」
曹操の傍らでは、混乱した兵たちが燃え盛る船から飛び込み、川に溺れていく。北方の兵たちは泳ぎを知らず、炎と水という二重の地獄の中で次々と消えていった。
川面は兵たちの死体と、燃え崩れた残骸で埋め尽くされ、流れる水の音さえも、炎の咆哮にかき消される。
諸葛亮は、対岸の山上で静かにその光景を見つめていた。
彼の目には、炎の熱さよりも、歴史が塗り替えられる「温度」が映っていた。
天下という名の巨大な氷塊が、今、赤壁の炎によって完全に溶かされた。
歴史の潮目が変わった音がした。




