第6話:草船の夜(前編)
第6話:草船の夜(前編)
「諸葛亮、貴殿に難題を課す」
軍議の席で、周瑜は冷ややかな笑みを浮かべた。その目は、孔明の才を認めつつも、どこかで挫折させたいという嫉妬と警戒の色を帯びていた。
「十日以内に、矢を十万本用意せよ。戦には不可欠なものだ」
諸葛亮は、少しも動じることなく、涼しげな顔で即答した。
「十日もかかりません。三日で十分です」
周瑜の目が見開かれた。当時の軍需工場で、これほどの矢を短期間で揃えることは物理的に不可能である。それを三日と言い切る。周瑜は即座に「軍令状」を差し出した。守れなければ処刑するという、逃げ場のない誓約書である。
「承知いたしました」
諸葛亮はためらうことなく署名した。退出する孔明の背中を見送りながら、周瑜は側近の魯粛に命じた。
「いいか、素材の調達を妨害し、船の進水も遅らせろ。三日で十万本など、夢物語であることを思い知らせてやる」
しかし、魯粛からその報告を受けた孔明は、ただ扇をあおいで笑うばかりだった。
「周瑜殿は、私を陥れようとしておられる。だが、心配は無用です。三日後、矢は必ず届きます」
三日間、諸葛亮が動く気配はなかった。彼はただ、呉の軍営から二十隻の小舟と、船の両脇に藁人形をびっしりと並べた木枠を調達するよう、魯粛に頼み込んだだけだった。
「魯粛殿、明日の未明、霧が出るでしょう。その際、私とともに船に乗っていただきたい」
魯粛は困惑した。矢の材料を揃えるわけでもなく、ただの藁人形を積んだ小舟で何をするというのか。しかし、孔明の瞳には、一切の迷いがなかった。
そして、運命の第三夜。
長江は、昼間の喧騒が嘘のように、深い霧に包まれていた。視界は数歩先すらも遮られるほどの白銀の闇。諸葛亮は静かに魯粛を船へ誘うと、船団を曹操の陣営へと向かわせた。
「諸葛亮、これは……曹操の陣に近づきすぎではないか! 霧の中で位置を見失えば、全滅だ!」
魯粛が震える声で叫ぶ。しかし、孔明は船の速度を緩めようとはしない。
「ご安心を。曹操殿は慎重な方だ。この深い霧の中で、不意の襲撃を恐れ、不用意に船を出して攻撃してくることはない。……その代わり、奴は必ず『矢』を射かけてくる」
霧の向こう、曹操軍の陣営から、不穏なざわめきが聞こえ始めた。十万の兵が眠る陣営に、不気味な船団が近づいている。
曹操は帳から飛び出し、霧の中へ怒号を飛ばした。
「何者だ! 敵の夜襲か? 弓隊、全軍構え! 霧の中に矢を放て! 一匹も生かして帰すな!」
次々と、数千、数万の矢が、空を裂いて放たれる。
ヒュウウウという風切り音とともに、無数の矢が霧を突き抜け、諸葛亮の船団へと降り注ぐ。だが、それは孔明が狙い澄ました「恵みの雨」だった。




