第5話:偽りの投降
第5話:偽りの投降
曹操の陣営に、一通の密書が届けられた。
差出人は、呉の重鎮である黄蓋。そこには、周瑜の専横に憤慨し、軍法会議で杖刑という屈辱を受けたことへの深い怨恨が綴られていた。
「……周瑜、若造めが。老将をそこまで冷遇するとは、慢心も極まれりだな」
曹操は帳の中で、届いた書状を読み上げながら鼻で笑った。
傍らに控える軍師・蔣幹が、慎重な面持ちで口を開く。
「丞相、呉軍の分裂は確実かと。黄蓋は呉の古参、彼が叛けば兵士たちの士気は地に落ちるでしょう。……しかし、罠の可能性は?」
「罠か」曹操は地図を見つめ、不敵な笑みを深めた。「黄蓋の背中の傷は、密偵の目によって確認済みだ。あそこまで深く、執拗に打ち据える芝居など、周瑜とて打てるまい。呉軍は今、内側から腐りかけている。叩くなら今だ」
曹操は、あえて「降伏」を受け入れる旨を記した返書を送り出した。
もちろん、それが真実であると信じ切っているわけではない。曹操は、黄蓋が本当に投降してくるのであれば、それは呉の壊滅を意味する。もしそれが偽りであったとしても、大軍の力をもってすれば、突入してきた黄蓋の船を粉砕するだけで済む――そう踏んでいた。
一方、呉の陣営では、諸葛亮が周瑜の隣で静かに風を待っていた。
「曹操は釣れましたか」
「ああ。奴の使者が、黄蓋の降伏を認める書状を持ってきた。……だが、諸葛亮。奴が油断しているとはいえ、あの曹操だ。黄蓋の船が近づいた時、もし直前で正体を明かさず、火を放つ前に沈められたらどうする」
周瑜の問いに、諸葛亮は扇をパチリと閉じた。
「そのために、曹操の『目』を塞ぐ必要があるのです。曹操にとっての安心材料――船を繋ぎ合わせ、揺れを止めること――を、彼自ら望むように仕向ける。そうすれば、逃げ場はなくなります」
「船を繋がせる、か。それは、あの男(龐統)の役目だな」
周瑜は、密かに陣に潜り込ませた知謀の士、龐統の姿を思い浮かべた。曹操の懐に入り込み、もっともらしい理屈で船を連結させる「連環の計」を吹き込む。
呉軍の陣営は、静かな準備に満ちていた。外から見れば降伏への準備だが、その実態は、曹操の全軍を一つの巨大な「燃料」に変えるための、冷酷な工作に他ならない。
曹操の陣営では、南からの使者を待つ兵たちが、すでに勝利の美酒を酌み交わしている。彼らはまだ知らない。その酒の香りが、数日後には地獄の業火の匂いに変わることを。
運命の糸は、静かに、そして確実に曹操の首元へと絡みついていた。




