第4話:泥中の苦肉
第4話:泥中の苦肉
軍議の席に、黄蓋の姿があった。彼は呉の古参であり、孫権の父・孫堅の代から仕える忠義の士である。周瑜と諸葛亮が練り上げた「火計」の要は、彼が曹操のもとへ偽の降伏を申し出ることにある。
しかし、曹操という男は稀代の疑り屋である。単なる書状だけで、数万の兵を動かす男が、やすやすと降伏を受け入れるはずがない。
「黄蓋将軍。貴殿の命を預けることになる。……この計、拒むことは可能だ」
周瑜は、普段の冷徹さをどこかへ置き忘れたかのような、低く震える声で告げた。黄蓋は不敵に笑い、自らの白髪混じりの髭をさすった。
「都督(周瑜)、何を弱気なことを。我ら老兵にとって、この国を守るためなら、命など惜しくはない。むしろ、この老いさらばえた身が、天下を揺るがす炎の種になれるのなら、これほど名誉なことはない」
翌日、軍営において、あえて「偽の揉め事」が演出された。周瑜は、兵糧の不足と作戦の遅延を口実に、黄蓋を激しく叱責した。
「兵を預かる身でありながら、敵の勢いにおじけづくか! 軍法に照らし、処罰は免れぬ!」
軍吏たちの前で、黄蓋は真っ向から周瑜に反論した。
「都督の作戦こそが、数に勝る敵に対して無策に等しい! このままでは呉は滅びる!」
怒号が飛び交い、周囲の将軍たちが騒然とする中、周瑜の目は氷のように冷え切っていた。彼は剣を抜き、黄蓋を激しく詰る。この芝居が完璧であればあるほど、裏切りを画策している密偵たちの目には、呉軍の内部崩壊が現実味を帯びて映るはずだ。
「杖刑百回! 今すぐこの場で執行せよ!」
周瑜の叫びとともに、黄蓋は拘束された。
バシッ、バシッ。
乾いた音が軍営に響く。それはただの音ではない。肉が裂け、骨が悲鳴を上げる音だった。黄蓋は呻き声を漏らすまいと唇を噛み締め、その口からは鮮血が滴り落ちた。
諸葛亮は、その光景を遠くの櫓から静かに見ていた。
彼の手は扇を持つために震えてはいなかった。しかし、その瞳には、戦略の犠牲となる老将への、せめてもの敬意が宿っていた。
「……痛みは、嘘をつきませんね」
諸葛亮の呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。
周瑜は、処刑が終わると、震える手で黄蓋の肩を抱きかかえ、誰にも聞こえない声で囁いた。
「……すまぬ。この痛みこそが、曹操を燃やす薪となる」
黄蓋は、意識が朦朧とする中で、ただ一言、かすかに笑った。
「これで……奴は、疑わないでしょう……」
その夜、黄蓋の傷だらけの肉体から発せられた「憤怒」の念は、闇に乗じて北岸の曹操陣営へと密かに届けられた。傷跡は、呉軍の分裂を証明する、最も残酷で、最も確かな証拠となって――。




