表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/33

第9話 角を隠すな

高原の雪が溶け始めていた。


 石畳の隙間から草が顔を出している。空気が少しだけ柔らかくなった。冬の間は霧に沈んでいた首都ヴェルデンの街並みが、春の光の中で輪郭を取り戻していく。


 占領が始まって——もう二年半になる。


 カイルは王宮から宰相府への坂道を下りながら、この時期になるといつも思い出すことがあった。——幼い頃の春の朝のことだった。





 占領前のアストラードでは、春の最初の朝に「角磨きの朝」があった。


 春分の前後、一番早く光が高原に届いた朝——その光が上市街に差し込む瞬間を待って、竜人たちは家の扉を開けた。老人も、子供も、女も男も。扉の前に出て、東の空に向き、角に巻いてあるものを全て外す。冬の間に汚れた角に、その年最初の太陽の光を当てる。


 光を受けた角は、内側から淡く——ほんの淡く——応えた。若い者の角ほどよく光った。老人の角は鈍く光った。しかしどの角も、何かしらの光を返した。地脈の光ではない。地脈の光は大地から昇るものだ。角の光は、陽光と角の中の微かな魔素が呼び合って生まれる、もっと柔らかい光だった。


 その朝、カイルも次兄の腕に抱かれて扉の前に立っていた記憶がある。カイルの角はまだ小さく、豆のような突起に過ぎなかった。それでも次兄は「カイルの角も光る」と言って笑った。本当に光ったのか、光らなかったのか、今となっては分からない。しかし次兄が笑った顔は覚えている。


 角磨きの朝には、近所の家同士で椀の煮出し湯を交換する習慣もあった。自分の家で作った湯を隣の家に届け、隣の家の湯を受け取る。椀の底に小さな魔素灯が入れてあり、湯が冷めないように光っている。湯を交換することで、春の初めに「近所の竜人は生きている」と確かめ合う。そういう習慣だった。


 占領が始まった最初の春、角磨きの朝の習慣は——行われなかった。


 監督府の通達があった。「早朝の集団的な屋外行動は、占領軍の警戒を招く。当分の間、自粛されたい」。自粛、という言い回しだった。禁止ではない。しかし自粛を守らなければどうなるか、誰も試す気にはなれなかった。上市街の家々は、春の朝、扉を閉めたままだった。


 二度目の春、つまり昨年の春、同じだった。扉は閉じたままだった。誰かが自分の家の庭で一人で角の布を外しているかもしれない、とカイルは想像した。しかし通りには誰もいなかった。


 三度目の春が——今年だった。





 坂を下りながら、カイルは石畳の上の自分の影を見ていた。


 自分の角には布が巻かれている。二年半前から、毎朝、鏡を見ずに巻けるようになった。布は生成りの麻。洗い替えが二本ある。汚れれば洗う。擦り切れれば新しいものを買う。——「買う」。その言葉が、カイルには今も少し違和感があった。角を覆う布を買う時代は、占領前のアストラードには、なかった。


 坂の途中に、古い鍛冶屋があった。


 占領前は「ヘゼルの工房」と呼ばれていた。ヘゼルは鍛冶屋の主人の名前だった。曽祖父の代から石畳のこの場所で魔素製品を鍛えていた家で、入り口の脇に小さな石の碑が置いてあった。碑には、歴代のヘゼル家の当主が刻まれた名前が並んでいた。


 占領後、工房の扉は閉まっていた。ヘゼルは元魔法兵だった。正確には、魔法兵に魔素製品を供給する職人だった。軍の納品実績があるという理由で、工房の稼働が制限された。魔素の配給量は通常の家庭と同じ水準まで減らされた。それでは鍛冶はできない。


 今日、カイルが坂を下りかけた時——ヘゼルの工房の前に、一人の老婆が立っていた。


 背中が曲がっている。白髪。角の布は巻いている。しかし今、老婆は石の碑の前に屈み込んで、何かをしていた。カイルは足を緩めて近づいた。


 老婆は碑に、椀を供えていた。小さな椀。椀の中には、何も入っていなかった。空の椀だった。底にも魔素灯はなかった。ただの陶器の、空の椀。


 カイルは立ち止まった。


 老婆は椀を置き、両手を合わせ、小さく何かを呟いた。言葉は聞き取れなかった。しかし呟きの調子は——古い祈りだった。アストラードの古語の韻だった。


 やがて老婆は立ち上がり、カイルに気づいた。一瞬、目を見開いた。王族の末弟が布を巻いて立っている。——老婆は頭を下げようとして、しかし腰が曲がっていて深くは下げられなかった。


「——ヘゼル家の方ですか」


 カイルが尋ねた。


 老婆は小さく頷いた。「義理の母が、この家の三代前の当主の娘でした。——今日は、春分の朝から少し遅れてしまいましたが、湯椀を置きに来ました。空ですけれど」


 湯椀。——角磨きの朝の、湯を交換する習慣の、あの湯椀。


「湯は——」


「入れておりません。——今は、お湯を入れても、届ける先がありませんから。隣の家も、その隣の家も、今は別の人が住んでおります。占領で引っ越した家が多くて。——空の椀だけ、こうして」


 老婆は少し笑った。笑ってはいたが、目は笑っていなかった。


 カイルは黙って頭を下げた。老婆は坂の上の方へ、ゆっくりと歩いていった。背中が小さかった。


 ヘゼルの工房の石碑の前に、空の椀が残された。





 坂を下り切り、下市街の市場を抜けた。


 市場の北側には、かつて「星詠みの塔」と呼ばれる古い物見台があった。塔ではなく、石造りの四角い台座で、人が三人ほど登れる広さがあった。冬の間、月の出ない夜に、竜人たちがそこに登って星を見る習慣があった。


 星詠み、と呼ばれたのは、星の並びで「次の春の地脈の調子」を読むからだった。星と地脈が繋がっているという古い信仰だ。実際に繋がっているのかどうか、カイルは分からない。しかし父——先代の王——は、毎年冬の終わりに星詠みをしていた。


 占領後、星詠みの台座の周りは——配給物資の一時保管所になっていた。麻袋が積まれ、監督府の下士官が定期的に点検に来る場所になった。台座に登ることは、物資の上に登ることを意味した。誰も登らなくなった。


 台座の角、麻袋の陰に——今日、何かが見えた。


 小さな石の山だった。三つの小石が、石畳の上に丁寧に積まれている。星詠みの古い印だった。星の並びを見た後、次の年への願いを込めて三つの石を積む。占領前、冬の朝には台座の周りにこうした小石の山がいくつも並んでいた。


 今、麻袋の陰に、一つだけあった。


 誰かが夜に、麻袋の下の隙間に手を伸ばして——監督府の目を盗んで、三つの石を積んだ。カイルは麻袋の陰から石を覗き込んだ。石の表面に、薄く傷が入っていた。石を積んだ者が爪で付けた跡だろう。願いを書いたのではない。爪の傷は文字ではなかった。ただ、何かを石に刻もうとした痕跡だった。


 カイルは石に触れなかった。触れれば崩れるかもしれない。触れずに、その場を離れた。





 宰相府に着く少し前に、もう一つ——古い習慣の残骸を見た。


 宰相府の入り口の脇に、石の水盤があった。縁が苔むした、浅い盤。占領前、宰相府に入る者は手をこの水盤で洗った。水は地脈の泉から引かれており、魔素を微かに含んでいた。手を洗うと、手の中の穢れが流されると信じられていた。入る前に身を清める、という習慣だった。


 占領後、水盤の水は止められた。配給制限で魔素を含んだ水を使う余裕がなくなったからだ。水盤は乾いた。苔は枯れた。縁の石だけが残った。


 カイルは毎朝、この水盤の前を通る。毎朝、手を水盤に伸ばしかける自分に気づいて、途中で止める。——止める動作自体が、いつの間にか習慣になっていた。占領前の習慣の上に、占領後の「止める」習慣が重なっている。


 今日も止めた。手を引いて、扉を開けた。宰相府の廊下の匂いがした。古い紙と薬草茶。





 執務室に入ると、同僚のトーヴァが既に書類を抱えて待っていた。


「殿下、おはようございます」


「おはよう」


「——見ましたか、あれ」


「あれ、とは」


「壁の落書きです。今朝、すごく増えてて。上市街の回廊の柱にも。下市街の市場の北側にも」


 カイルは眉を寄せた。坂を下りる時は気づかなかった。——いや、気づく余裕がなかった。老婆の椀と、小石の山と、水盤を見ていた。


「何と書いてあった」


「同じ文字です。五文字。『角を隠すな』」


 カイルは黙った。


 角を隠すな。五文字。——占領下の竜人の角は、布で巻かれている。毎朝、鏡を見ずに巻く布。春の朝の光に晒される機会を失った角。——その布を外せ、と書いた者がいる。


「監督府が消してるんですけど、翌朝また新しいのが出てくるんです。先週は上市街にはなかったのに」


 カイルはオルデンに報告した。


 宰相は薬草茶を淹れていた。いつもの儀式。苦い匂いが執務室に広がる。オルデンは目を閉じて聞いていた。報告が終わってから、茶碗に茶を注いだ。注ぎながら、ゆっくり言った。


「放っておけ」


 カイルは顔を上げた。


「……放っておくのですか。監督府が知れば——」


「知っている。監督府は消している。消しても出る。——出ることが重要だ」


 オルデンが目を開けた。金色の目。


「占領が長引けば、こうなる。竜人の不満が形になる。レガリオン本国がこれを見れば、こう考える。『占領を続ければ、不安定になる』。不安定さは——我々のカードだ」


 カイルの手が止まった。不安定さが——カード?


「ただし」


 オルデンの声が低くなった。


「暴発すれば終わりだ。落書きが暴動になれば、レガリオンは鎮圧する。『やはり竜人は危険だ』と判断する。我々が二年半、飲み続けた屈辱が——無駄になる」


「では——」


「温度を管理する。熱すぎず、冷めすぎず。不満はあるが暴発はしない。その状態を——維持する」


 温度管理。オルデンはそう呼んだ。


 落書きを放置する。不満が表面化することを許す。しかし暴発は許さない。——その綱渡りを、この老人はこれから何年も続けるつもりなのだ。


 カイルは一つ、問いを飲み込んだ。——あの老婆の椀も、麻袋の陰の三つの石も、乾いた水盤も、閣下には「温度」として見えているのだろうか。それとも、それは「温度」以前の、別の何かなのだろうか。





 落書きの出所について、宰相府では噂が流れていた。


 元魔法兵団長。竜人の軍・竜牙衛で世代随一の魔法兵だった男。処刑を免れたが軍籍を剥奪され、公的な職を失った。名前はバルト。平民出身の叩き上げ。——そして、戦死した次兄レイグの直属の部下だった。


 カイルはその名前を聞いて、左手の親指が薬指の付け根を擦るのを感じた。


 バルト。知っている。名前だけではない。顔も知っている。声も知っている。あの太い声。奥歯を噛む音。腕を組む姿勢。——域外民政局の時代に、何度も聞いた声だ。


 バルトは落書きを直接指示しているわけではないらしい。しかし——「角を隠すな」という言葉は、バルトが口にしたものだという。元軍人たちの集まりで、バルトがそう言った。それが口伝えで広がり、落書きになった。


 その日の夕刻、カイルは宰相府の窓から下市街を見下ろしていた。


 下市街の広場に——人の集まりがあった。二十人ほど。竜人の男たち。角の布を巻いている者と、巻いていない者が混在している。彼らの中心に、一人の男が立っていた。


 大柄。筋肉質。厚い胸板。黒髪を剃り上げに近い短さにしている。角は太く、前方にやや突き出す——戦闘型の角だ。片方の角に、大戦時のものだろう、刀傷が走っていた。腕を組んでいる。防御の姿勢。


 声が、風に乗って聞こえた。


「誇りを捨てるな」


 太い声だった。腹から出る声。前線で三万の魔法兵団を率いた声は、声量を落としても広場の隅まで響いた。


 元軍人たちがバルトの周りにいる。二十人。多くはないが——彼らの顔つきが違う。街で下を向いて歩く竜人たちとは違う、何かを手放していない目。


 カイルは窓から見ながら、今日の朝に見たものを思い出した。空の湯椀。麻袋の陰の三つの石。乾いた水盤。——あれらは、誇りを捨てていなかった者たちの、静かな印だった。しかしバルトの広場の二十人は、静かではなかった。声に出していた。「誇りを捨てるな」。——同じ誇りが、別の形で、別の温度で、街の中に共存していた。


 魔法が使えない魔法兵は、何者なのか。角を布で隠した竜人は、竜人なのか。——彼らにとってバルトは、まだ「魔法兵である自分」を、「竜人である自分」を信じさせてくれる存在だった。





 数日後、バルトから宰相府に書状が届いた。


 トーヴァが持ってきた。「殿下、これ——変なのが来ました」


 羊皮紙。太い字。——バルトの字だろう。飾りがない。


「レイグ殿下の弟に会わせろ」


 カイルはオルデンに見せた。


 オルデンは書状を一読し、机に置いた。


「会うな。まだ早い」


「……まだ、ですか」


「まだだ」


 「まだ」。カイルはこの一語に引っかかった。「会うな」ではない。「まだ早い」。——いずれ会わせるつもりがある。自分をバルトとの「パイプ」に使う構想がある。レイグの弟だから——バルトとの接点を作れる唯一の人間だから。


 道具として。


 しかし——カイルの中にも、別の感情があった。バルトに会いたいという感情。レイグのことを知っている人間に会いたい。兄の記憶を共有している人間に——。


 それは道具としての合理性ではない。個人的な感情だ。その感情を、オルデンは利用するつもりなのだろうか。





 夜、自室で記録を書いた。


 今日の出来事を並べた。ヘゼル家の老婆の空の椀。星詠みの台座の麻袋の陰の三つの石。乾いた水盤。「角を隠すな」の落書き。下市街の広場のバルト。書状。


 書きながら、カイルは自分の筆が遅くなるのに気づいた。


 老婆の椀の話を書いている時、筆が滑らなかった。「ヘゼル家の老婆が、春分の祈りとして空の湯椀を石碑に供えていた」——この一行を書くのに、いつもの三倍の時間がかかった。なぜだろう。事実を書いているだけなのに。


 そして分かった。事実ではあるが、「温度」ではないからだ。オルデンの報告書には、あの湯椀は載らない。載らないまま、誰にも記録されないまま、消えていく。——カイルが書かなければ、あの朝の老婆の祈りは、誰の記録にも残らない。


 宰相府の記録は、交渉の記録であり、数字の記録だ。落書きの数は書ける。落書きの文言も書ける。しかし、麻袋の陰に夜の間に積まれた三つの石は——書けない。報告書の体裁に合わない。


 カイルは自分の記録帳の最後の頁に、別の欄を作った。「閣下に提出しない記録」と、欄の上に書いた。そこに、今日の老婆と、小石と、水盤のことを書いた。いつか誰かがこれを読むかもしれない。読まないかもしれない。しかし書かなければ——消える。


 書いてから、カイルは自分に問うた。これは誰に宛てて書いているのか。


 未来の誰かへの手紙だろうか。いつか竜人の歴史を調べる者が、温度管理の報告書とは別に、「あの朝、石碑に空の椀を供えた老婆がいた」と知るべきだと思ったのか。それとも——死んだ兄たちへの報告だろうか。次兄レイグなら、あの老婆を覚えていたはずだ。三兄イルヴァンなら、あの椀に意味があると分かっていたはずだ。あるいは——自分自身の良心への証拠だろうか。「温度」に還元されないものが、確かにあったのだという証拠。


 答えは出なかった。出ないまま、ペンを置いた。「閣下に提出しない記録」の欄は、これからも埋まっていくだろう。誰に宛てているのか、分からないまま。


「バルト」。カイルはその名前を次の頁に書いた。「かつての上官。レイグ兄上の——」


 筆が止まった。


 レイグ兄上の——何だ。戦友。直属の部下。殿軍を志願したレイグを止められなかった男。あるいは——止めるべきだったが、レイグの「誇り」を否定することができなかった男。


 そして域外民政局の時代に——。


 ペンが紙を離れた。書けない。バルトと自分の間にあるものを、文字にすることが——できない。あの場所の名前を書けば、あの時代の自分を認めることになる。あの頃の自分が何をしていたか。誰の命令書に印を押していたか。


 書けなかった。


 末妹のリーネが隣の部屋から入ってきて、隅に座った。本を開いた。何も言わない。


 窓の外で、光の谷がかすかに光っていた。春の夜は冬より暗い。雲が多いからだ。地脈の光も——少し弱くなったように見える。気のせいだろうか。


 三度目の春。扉は閉じたまま。角磨きの朝は行われないまま。しかし街のあちこちに、静かな椀が、小石が、乾いた水盤が、夜の間の誰かの仕業が——散らばっている。


 翌日、下市街で監督府の兵士が殴られる事件が起きた。まだ殺人ではない。——しかし、温度が上がり始めている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ