第10話 血の夜
報せは夜明け前に来た。
王宮の自室で記録を書いていたカイルの元に、宰相府の使いが走り込んできた。息を切らしている。
「殿下——下市街で。監督府の人間族の兵士が——殺されました。通訳が要ります。現場に」
カイルはペンを置いた。通訳——つまり、監督府の兵士と、集まった竜人たちの間に立つ者が要る、ということだ。カイルはレガリオン語と竜人語の両方を話せる数少ない宰相府の職員だった。
外套を引っ掴み、回廊に出た。空気が冷たい。まだ星が残っている。使いは先を走り、カイルはその後を追った。
現場は下市街の路地だった。
下市街の東の外れ、「銅の角亭」という古い酒場の裏手に伸びる路地だった。酒場の勝手口が路地に面している。昔は炉の職人たちが仕事帰りに立ち寄る店で、占領後は元魔法兵の溜まり場になっていた、とカイルは聞いたことがあった。
路地の入り口から、松明の光が漏れていた。一つ、二つ、三つ——監督府の兵士たちが並んで封鎖している。灰色の制服。長い棍棒。その後ろで、数十人の竜人が遠巻きに見ている。声はない。視線だけがある。
酒場の勝手口の扉は、半開きのままだった。中からは人の気配がしない。店主は既に奥に引っ込んだか、裏口から逃げたか。松明の光が、扉の隙間から覗く店内の床板を一瞬だけ照らした。倒れた椅子と、こぼれた酒壺の影が見えた。
カイルが近づくと、封鎖している兵士の一人が振り返った。若い兵士だった。顔が強張っている。
「——宰相府の方ですか。通訳を」
カイルは頷いた。兵士はカイルを路地の中に通した。
石畳。松明の光が揺れている。——最初に気づいたのは、匂いだった。
鉄の匂い。血の匂いは、鉄の匂いがする、と聞いたことがあった。しかし実際に嗅ぐのは初めてだった。思っていたより——濃かった。空気そのものが、鉄の粒で重くなっているようだった。
壁際に、人が倒れていた。
うつ伏せだった。レガリオンの灰色の制服。胸の下に、黒い水たまりが広がっている。松明の光を吸って、黒より黒い色になっていた。片手が伸びていて、指が石畳を掴もうとしていた。——掴めなかった指だ。
カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。一度。二度。止めようとして、止まらなかった。
息を吐いた。吐いた息が、鉄の匂いに混じった。吸い直すと——また鉄だった。喉に入ってきた。カイルは咳をした。
——記録できるだろうか、と考えた。この匂いを。
考えた瞬間に、吐き気がした。考えた自分に吐き気がした。目の前に人が倒れている。指が石畳を掴もうとした跡が残っている。その人のことよりも先に、「記録」の心配をした自分に。かつて域外民政局で、数字だけを見ていた頃の自分が、今もここにいた。紙の上の名前と、目の前の血は、本当は繋がっているのに——繋がりを見ないで済む訓練が、身体に残っている。
監督府の下士官が近づいてきた。カイルに早口のレガリオン語で話しかける。
「通訳。そこの連中に言ってくれ。立ち去れと。見世物ではない」
カイルは振り返った。路地の外の竜人たち。十人、二十人——少しずつ増えている。松明の光が顔を照らしている。老人。女。子供を抱えた母親。——そして若者たち。若者の目が、違った。他の者は恐れていた。若者たちは、違うものを見ていた。何かを、ある種の目で——見ていた。
カイルは竜人語で告げた。
「皆さん。——家に戻ってください。ここは——今夜は、引き上げてください」
声が少し掠れた。直そうとして、直せなかった。群衆の数人が背を向けた。しかし大半は動かなかった。若者たちの列が、むしろ前に出た。
「——どいて下さい」
カイルはもう一度言った。今度は、低く。群衆がゆっくり後ろに下がった。下がりながら、視線だけはカイルの後ろに——倒れている人影に——据えられていた。
監督府の下士官がカイルの腕を掴んだ。早口のレガリオン語だった。
「犯人だ。来い。尋問の補助を頼む」
路地の奥で、若い竜人が地面に押さえつけられていた。
顔を石畳に押し付けられている。手を後ろで縛られている。角は——細い。しかし布は巻かれていなかった。黒い角が、松明の光で鈍く光っていた。
兵士の一人が若者の頭を起こした。若者の顔が見えた。鼻から血が流れていた。しかし目は——怯えていなかった。
若者がカイルの顔を見た。それから——カイルの角を見た。布で巻かれた角を。
若者は笑った。小さく、一度だけ。
「——王族か。角を巻いた王族が、通訳か」
カイルは答えなかった。
答える言葉がなかった。
監督府の下士官が若者を立たせ、路地の外で待っていた宰相府の警備兵に引き渡した。警備兵が両脇を抱えて、宰相府の方へ連行していった。竜人の犯罪は宰相府で先に取り調べる——降伏条件に基づく自浄の手順だった。若者の足が石畳を擦った。背後から、群衆の間で小さなざわめきが走った。——「あの子は」「あそこの息子」「親父が前線で」。断片的な声。
カイルは壁際の死体を振り返った。
まだそこにあった。まだ倒れていた。指がまだ石畳を掴もうとしていた。——遺体を動かすのは監督府の仕事だ。カイルにできることは、もうなかった。
壁には、新しく書かれたばかりの落書きがあった。血ではない。木炭だった。「角を隠すな」。五文字。誰が書いたのか——犯人の若者か、それとも別の誰かか。カイルには分からなかった。
しかし壁に書かれた五文字が、抗戦派の代表バルトの周囲から広がった口伝えの囁きが——今夜、刃物になった事実は、変わらない。
魔法ではなく刃物。元魔法兵が魔法を使えない。使えないから鍛冶場の短刀で。職を失い、誇りを奪われ、酒に逃げ、布を巻けと言われた瞬間に——全てが噴き出した。
宰相府に着くと、宰相オルデンは既に執務室にいた。薬草茶の匂いがしない。茶を淹れる余裕がなかったか、淹れる気分ではなかったか。
同僚のトーヴァが廊下で待っていた。顔が青い。「殿下——監督府から通達が来ています。制裁を示唆する内容です」
オルデンの執務室に入った。机の上に通達の写しがある。読んだ。——下市街の夜間外出禁止、魔素配給量の即時削減、竜人官吏の監督府出入り制限。三番目が実行されれば、オルデンの交渉窓口が閉じる。
「宰相閣下。どうされますか」
「犯人を引き渡す」
即答だった。
——速い。速すぎる。
カイルの背筋に冷たいものが走った。オルデンは考えていない。今この瞬間に判断したのではない。先日、監督府の兵士が殴られた事件の報告を受けた時に——あるいはもっと前から——「次は殺人になる」と予測し、その時どうするかを用意していた。
「犯人に会う。連れてこい」
犯人は宰相府の地下の一室に拘束されていた。
カイルはオルデンに同行して階段を下りた。地下は冷たく、魔素灯の光が弱い。石壁の小部屋。扉が開かれた。
若い竜人がいた。
まだ若い。竜人としては五十代半ば——若年期に入ったばかりだ。体格は大人だが、顔に幼さが残っている。角は細く、布は巻いていない。手を後ろで縛られ、壁に背をもたれている。
目が——生きていた。怯えていない。後悔もしていない。何かを成し遂げた者の目だった。
オルデンが若者の前に立った。百七十歳を少し過ぎた老竜人と、五十代半ばの若者。角を布で隠した宰相と、角を晒した犯人。
若者が口を開いた。
「あんたが——角を隠した宰相か」
声が震えていなかった。
「そうだ」
オルデンの声は平坦だった。
「何があった。話せ」
「……巡回の兵に呼び止められた。角の布を巻いていないから。——巻けと言われた。巻かなかった。親父は魔法兵だった。親父の角は立派だった。俺の角は細いけど——隠さない。隠したら死んだ親父に顔向けできない」
「それで」
「あの兵士が——俺の角を掴んだ。布を巻かないなら力ずくで巻くと言って。角を——掴まれた」
カイルの手が止まった。角を掴む。竜人にとって角は身体の一部だ。感覚がある。掴まれれば痛みが走る。それだけではない。竜人の角を掴むのは——最大級の侮辱だ。
「気づいたら、短刀を抜いてた。覚えてない。気づいたら——あの兵士が倒れてた」
沈黙。
「後悔してるかと聞かれたら——してない。あいつは竜人の角を掴んだ。——あんたたちは毎日それに耐えてるのか。角を隠して、頭を下げて——それで竜人と言えるのか」
カイルは壁際に立って、若者の顔を見ていた。——この若者は、正しいことをしたと信じている。角を掴まれて、刃を向けた。それが「竜人の誇り」だと信じている。
戦死した次兄レイグもそうだった。誇りのために前線に立ち、誇りのために殿軍を志願し、誇りのために死んだ。
オルデンが口を開いた。低く、遅い声。
「お前の角は——確かに、隠すには惜しい」
若者の目が一瞬揺れた。
「しかし。お前が殺したのは——角を掴んだ兵士だ。夜間巡回の一兵卒だ。命令に従って歩いていた人間だ。家族がいる。故郷がある。お前の親父と同じように、上の命令で仕事をしていただけの男だ」
若者は答えなかった。
「お前の誇りが殺したのは、占領を決めた将軍でもなく、占領の元凶でもない。道を歩いていた一人の兵士だ」
若者の目が——揺れた。怒りではなく、何か別のものが浮かんだ。しかしすぐに消えた。
「……あんたに言われたくない。角を隠して、頭を下げて——あんたたちが耐えてる間に、俺は——」
「お前を、監督府に引き渡す」
若者の顔が凍った。
「お前を引き渡せば、この街の竜人は今夜も家で眠れる。配給は削られない。——お前一人と、この街の全員を天秤にかけている。それが私の仕事だ」
オルデンが踵を返した。カイルに「記録しろ」と言った。それだけだった。
引き渡しは午後に行われた。
監督府の前。執政官アルマンが門で待っていた。腕を組んでいる。部下を殺された軍人の顔だ。
オルデンが一歩前に出た。
「この者を、宰相府の権限において拘束し、監督府に引き渡します。竜人の犯した罪は、竜人が裁きます。我々には自浄の意志がある」
アルマンの目がオルデンの顔を測っている。
「……宰相殿。あなたの判断を尊重する」
制裁は撤回された。
引き渡しの後、オルデンがアルマンに短く言った。
「このような事件が起きるのは、占領が長引き民心が不安定だからです。安定のためには——いずれ、将来の展望が必要になります」
アルマンは眉を動かした。「展望、か」。——それだけだった。しかしこの一語は、アルマンが本国に送る報告書に載るだろう。種は蒔かれた。
宰相府への帰り道。夕暮れの回廊。
「宰相閣下」
「何だ」
「あの事件は——計算の内でしたか」
カイルの足が止まった。自分で問うておきながら、答えを聞く覚悟ができていなかった。
オルデンは数歩先で立ち止まった。振り返らずに言った。
「人の死を計算に入れる宰相を、お前はどう思う」
答えなかった。答えられなかった。
あの若者の目を思い出した。怯えていない目。「どっちが竜人だ」と問うた目。——そしてオルデンの「お前の誇りが殺したのは、道を歩いていた一人の兵士だ」。
どちらが正しいのか。角を隠して頭を下げ続けることが正しいのか。角を見せて刃を向けることが正しいのか。——答えが出ない。出ないまま、夜が来る。
宰相府に戻った。オルデンは茶を淹れ始めた。いつもの儀式。しかし手が——少しだけ遅かった。
「記録を読め」
カイルは今日の記録を読み上げた。事件。犯人との対面。引き渡し。アルマンとの対話。
読み終わると、オルデンは目を閉じたまま言った。
「街で噂が広がるだろう。宰相が同胞を占領者に差し出した、と」
「……はい」
「それは正しい。私は同胞を売った。——判断が正しかったかどうかは、書くな。判断は、歴史がする」
王宮に戻ると、リーネが起きて待っていた。
「カイル兄。——事件のこと、聞いた」
「……ああ」
「犯人の人——若い人だったって」
「……ああ」
「どうなるの」
「……監督府に引き渡された」
リーネの手が袖を握った。
「宰相閣下が?」
「……ああ」
リーネは何も言わなかった。しかし目が問うていた。それは正しいの、と。
カイルは答えられなかった。
【豆知識:竜牙衛】
かつてのアストラードの誇りだった精鋭魔法軍「竜牙衛」。魔法兵団約三万、地脈軍事局約五千、域外民政局約一万、合わせて約四万人の大組織でした。
個の極限の暴力で戦場を支配しましたが、大戦末期に魔素の過剰消費で組織的に崩壊します。占領下で完全解散、魔法兵は軍籍を剥奪されました。バルトらはその生き残りの一部で、今は軍服を着ない市井の者として暮らしつつ、独立運動の抗戦派の核を形成しています。




