第11話 二つの影
あの夜の後、街が変わった。
「角を隠すな」の落書きは減った。完全には消えていない——しかし、新しいものが増えなくなった。代わりに、別の囁きが広がっていた。「宰相が同胞を差し出した」。宰相オルデンの名は、街の竜人にとって二つの意味を持つようになった。占領下で国を動かしている男。そして——同胞を占領者に売った男。
占領が始まって、もう二年半が過ぎていた。
ある朝、オルデンがカイルを執務室に呼んだ。
机の上に、見慣れない書類の束が置かれていた。いつもの監督府からの翻訳依頼ではない。薄い紙に細かい字で書かれた報告書。——紙の質が違う。アストラードの羊皮紙でも、レガリオンの公文書用紙でもない。
「読め」
カイルは手に取った。大陸東部の妖霊族の国エテルネア——中立国として各国と交流を持つ学術国家——の学術院が発行した報告書だった。題名は「大陸北部の軍事動向に関する学術的分析」。
内容を読み進めた。鉱人族の大国コヴァルドに関する分析だった。
コヴァルドは大戦中、レガリオン連合に参加したものの実質的な戦闘はほとんど行わなかった。「消極的参戦」と呼ばれた。——しかし大戦後、状況が変わっている。
報告書の数字を追った。コヴァルドの地下都市群からの鍛造品の輸出が、大戦前の三倍に増えている。軍事用の精製炉——魔素を加工して魔素製品を作る設備——の新設が確認されている。地下から地上への物資輸送路が拡張されている。
「何が見える」
オルデンの声。いつもの問い。
カイルは報告書を置いた。
「……コヴァルドが軍備を増強しています。大戦中は動かなかった国が——戦後になって、動き始めている」
「なぜだと思う」
「……レガリオンがアストラードの占領に注力している間に、力をつけている。レガリオンの目がこちらに向いている隙に」
「そうだ」
オルデンが茶碗を持ち上げた。薬草茶。いつもの苦い匂い。
「これが来るのを——待っていた」
カイルの手が止まった。
「待っていた?」
「コヴァルドが台頭すれば、レガリオンにとって北の国境が脅威になる。そうなれば——アストラードの位置が変わる」
アストラードは大陸の中央、レガリオンとコヴァルドの間に位置する高原の小国だ。地理的に——両大国の間にある。
「占領を続けるコストと、味方につけるコストを——レガリオンは比べ始めるだろう」
カイルは理解した。コヴァルドの脅威が大きくなるほど、アストラードの「防波堤としての価値」が上がる。あの血の夜の後、オルデンがアルマンに蒔いた「将来の展望」の種——その種が芽吹く土壌を、コヴァルドが作っている。
「しかし——この報告書は、エテルネアの学術院が——」
「そうだ。学術院の報告書だ。中立的な第三者の分析。——しかし」
オルデンの顎が微かに上がった。満足のサイン。
「この報告書に使われている情報の一部は——我々が提供した」
カイルの思考が止まった。
「……我々が?」
「宰相府が独自に収集したコヴァルドの軍事情報を、エテルネアの学術院に渡している。学術院はそれを自国の分析と混ぜ、『中立国の学術的見解』として各国に配布する。レガリオンの本国にも届く」
「それは——」
「スパイ行為か、と聞きたいのか」
カイルは黙った。そうだ。占領下の国が、占領者に知られずに第三国を経由して情報を操作している。発覚すれば——占領の強化どころでは済まない。
「外交と呼べ」
オルデンの声は穏やかだった。
「敗戦国に武器はない。魔法も使えない。軍もない。——情報だけが、我々に残された武器だ。コヴァルドの脅威を、レガリオンに正確に——いや、正確より少し大きく見せる。それが今の我々にできる唯一の戦い方だ」
「正確より少し大きく——」
「コヴァルドの軍事力は本物だ。嘘は書いていない。しかし——情報の選び方で、印象は変わる。脅威だけを見せ、弱点は隠す」
その日の午後、戦後処理の定例会議があった。
監督府の会議室に、各国の使節が集まる。レガリオンの官僚。コヴァルドの使節。——そしてコヴァルドからもう一人、前回セルヴァンの宴で見た上位使節のボルグがいた。
ボルグは鉱人族だ。小柄で頑健な体つき。肩が広く、手が大きい。地下の鍛冶場で鍛えられた身体だろう。礼儀正しく、言葉遣いは丁寧だった。
しかしカイルは——会議の途中で、ボルグの異変に気づいた。
会議が二時間を超えた頃から、ボルグの顔色が変わり始めた。額に汗が浮いている。呼吸が浅い。椅子に座っているのに——立っているよりも辛そうに見える。
休憩の時間に、ボルグが窓際に行って外の空気を吸っていた。カイルが近づくと、ボルグは小さく頭を下げた。
「失礼。——地下の空気に慣れた者でして。地上に長くいると、少し」
「お体に障りますか」
「いえ、大事ありません。——ただ、光が強い。空が広い。地下都市では天井が近いものですから」
ボルグは苦笑した。体調の問題を、文化の違いとして説明しようとしている。しかしカイルの目には——それは文化ではなく、身体的な弱点に見えた。鉱人族は地下に適応した種族だ。地上では——何かが合わない。
会議室に戻りながら、カイルは先ほど読んだ報告書のことを思い出した。コヴァルドの軍事力は本物だ。地下都市群の鍛造能力は大陸随一。——しかし、地上に出れば体調を崩す種族が、地上で長期間の軍事行動を維持できるのか。
そしてオルデンが流している報告書は——この弱点を隠している。脅威だけを見せ、弱点は書かない。レガリオンにとってコヴァルドは「強大な脅威」に見える。——実際には、弱点がある。
情報の選び方で、世界は変わる。
夕刻、宰相府に戻った。
オルデンが執務室で待っていた。カイルがボルグの様子を報告すると、オルデンは小さく頷いた。それから——別の話を切り出した。
「抗戦派の代表バルトとの接触は、いずれ必要になる」
カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。
「……バルトと」
「温度管理を続けるには、抗戦派の内部情報が要る。あの男が何を考え、いつ動くかを——事前に知る手段がなければ、次の『血の夜』を防げない」
「しかし、接触すれば——監督府から目をつけられます」
「そうだ。宰相府の文官がバルトに接触すれば、疑われる。——しかしお前は違う」
オルデンの金色の目がカイルを見た。
「お前は戦死した次兄レイグの弟だ。レイグはバルトの直属だった。弟が兄の旧友に会いに行く——個人的な弔問だ。政治ではない」
レイグの名前が——道具にされている。
カイルは口を開きかけた。しかし言葉が出なかった。反論すべきか。「兄の名を使うな」と言うべきか。——しかしオルデンの論理は正しい。カイルにしか作れないパイプがある。レイグの弟だから。その事実は——変えられない。
「……いつ」
「まだだ。今はまだ早い。血の夜の後で、街が落ち着いていない。——しかし準備はしておけ。バルトがどんな人間か、知っておけ」
「知っている、とは——」
「お前が知っているのは、宰相府の窓から見た背中と、噂話だけだ。レイグの弟として知っていることは——もっとあるはずだ。思い出せ」
思い出せ、と言われて——カイルが思い出したのは、レイグの声ではなく、レイグの不在だった。
レイグは軍人だった。王宮にいる時間より、竜牙衛の駐屯地にいる時間の方が長かった。帰ってくるのは年に数回。帰ってくると、大きな声で使用人に挨拶し、厨房に飯を催促し、カイルを探した。——しかしその間に、レイグが何をしていたか。誰と何を話し、どんな決断をしていたか。カイルは知らない。
知っているのは「兄としてのレイグ」だけだ。「軍人としてのレイグ」は——知らない。
しかし、バルトは知っている。
バルトに直接会うことは、オルデンが許していない。しかし——間接的に情報を得る手段はあった。
宰相府には、元竜牙衛の兵士が数人、事務方として残っている。軍籍は剥奪されたが、文字が読める者は官吏として再雇用されていた。その中の一人——ガレンという中年の竜人が、レイグの部隊にいたことがある。
翌日、カイルは昼休みにガレンを回廊の隅に呼んだ。
「レイグ兄上のことを——聞きたい」
ガレンは目を見開いた。王族の末弟が、元一兵卒に兄のことを聞く。——しかし断る理由はない。
「殿下。何をお聞きになりたいのですか」
「バルトとレイグ兄上の関係を。——二人は、どんな間柄だったのか」
ガレンは少し考えてから、話し始めた。
「バルト殿は——平民出身で、叩き上げで魔法兵団長にまで上がった方です。貴族出身の士官からは嫌われていました。『平民上がり』と。しかし前線では——あの方の右に出る者はいなかった。魔法兵としての実力が、世代随一でしたから」
「レイグ兄上が軍に入った時、バルトはどう思っていた」
「最初は——歓迎していなかったと聞いています。『また王族の坊ちゃんが来た。邪魔だ』と。——しかし」
「しかし?」
「レイグ殿下が——一兵卒の寝床で寝たんです。初日から。士官用の個室を用意したのに、断って。『兵と同じ場所で寝る』と。バルト殿は——最初は嫌がらせだと思ったそうです。王族の気まぐれだと。しかし翌日も、その翌日も——殿下はそこにいた」
ガレンの声が少し柔らかくなった。
「バルト殿が、自分からレイグ殿下に話しかけたのは——三日目だったと聞いています。『あんた、本気でここにいるつもりか』。殿下は笑って——『ここが一番飯がうまい』と」
カイルは黙って聞いていた。——レイグらしい答えだ。嘘のない、飾りのない答え。
「それから——殿下は、バルト殿の名前を呼ぶようになりました。『バルト』と。敬称なしで。王族が平民の名前を——ただの名前として呼んだのは、殿下が初めてだったそうです」
カイルの胸に、何かが刺さった。
レイグは——カイルにもそうした。「カイル」と名前で呼んだ。序列ではなく。敬称でもなく。ただの名前として。——その同じことを、バルトにもしていた。
「バルト殿にとって、レイグ殿下は——」
「身分を超えた戦友。そう言っていたと聞いています。——殿下が殿軍を志願された時、バルト殿は反対した。『王族を死なせるわけにはいかない』と。しかし殿下は——『王族だからこそ、最後に立つのだ』と」
ガレンが言葉を切った。
「バルト殿は——殿下を止められなかった。止めるべきだったと——今でも思っているのではないかと。あの方が誇りを——竜人の誇りを、あそこまで強く言うのは——殿下の死が、あるからだと。私は、そう思っています」
沈黙が落ちた。
カイルは知っていた。レイグの死は——生き残った全員の行動を歪めている。
カイルにとってレイグは「星を見せてくれた優しい兄」だ。しかしバルトにとってレイグは「守れなかった戦友」だ。同じ人間なのに——見える顔が違う。
そして今、オルデンはその「二つのレイグ」を利用しようとしている。カイルがレイグの弟であること。バルトがレイグの戦友であること。この二つを繋げて——抗戦派へのパイプにする。
兄を——利用する。
レイグが生きていたら何と言うだろう。たぶん怒らない。たぶん笑う。「いいよ、使えよ」と言うだろう。あの人は——自分の名前に重さを感じない人だった。名前はただの名前だった。しかしカイルにとっては——レイグの名前は、もう「ただの名前」ではない。死んだ人間の名前は——重い。
夜、自室で記録を書いた。
ペンを走らせながら、カイルは自分が書いている言葉に気づいた。
「情報を選別して渡す。脅威だけを見せ、弱点は隠す。中立国の分析として——嘘ではないが、全てでもない」
オルデンの思考を、自分の言葉で書き直している。
いつからこうなったのか。宰相府に来た頃は、ただ記録していた。見たものを書き、聞いたことを書き、自分の解釈は入れなかった。しかし今は——オルデンの行動の意味を分析し、自分の言葉で整理している。
成長——なのだろうか。
しかしこの成長は——嘘をつく技術の上達でもある。情報を操作するオルデンの手法を理解するということは、自分もまた情報を操作できるようになるということだ。記録者が——記録の中身を選び始めた時、何が「正確な記録」なのか。
筆を止めた。
今日、自分に落ちた影は一つではなかった。
一つは北からの影。コヴァルドという名の影。それを情報戦の種に変え、レガリオンに向けて投げる。カイルはその投擲術を、少しずつ身につけている。分析の道具として。
もう一つは——南からの影、というより、過去からの影。次兄レイグの影。レイグの弟であるという事実を、バルトに近づく梃子として使う。カイルの出自そのものが、道具になる。
分析する者としての道具化と、存在そのものの道具化。——今日、二つが同時に立ち上がった。
どちらもオルデンの手の中にある。オルデンは両方を使うつもりでいる。使われる側のカイルは——拒めない。拒む論理が、見つからない。「それは兄の名を汚すことです」と言っても、オルデンは「レイグ殿下なら何と言うと思う」と返すだろう。そしてカイルは——答えを知っている。レイグは「使えよ」と言う。だから拒めない。
ペンが紙に戻った。記録帳の最後の頁、「閣下に提出しない記録」の欄に、一行だけ書いた。
「今日、二つの影が落ちた」
末妹のリーネが部屋に入ってきた。いつものように、隅に座って本を開いた。カイルの帰宅は少し早かった。リーネは少し嬉しそうだった。
「カイル兄」
「……ん」
「レイグ兄上のこと——覚えてるか」
カイルの方から聞いた。——珍しいことだった。
リーネは少し考えた。
「……声が大きかった、ってことは覚えてる。あと——笑うと、回廊に響いた。でも——顔は、あんまり」
「そうか」
「カイル兄は、覚えてるの?」
「……覚えてる。——覚えてるつもりだ」
「つもり?」
カイルは答えなかった。記憶は正確だろうか。覚えていたいように書き換えてはいないか。——この問いは、もう何度も浮かんだ。答えは出ない。
「今日ね、レイグ兄上のことを——知ってる人に話を聞いた」
「どんな話?」
「兄上は——軍で一兵卒と同じ寝床で寝たらしい。王族なのに。初日から」
リーネが本を閉じた。
「……すごいね。——そんな人だったんだ」
「ああ」
「カイル兄に似てるかも」
「……俺は、そんなことしない」
「しないけど——雰囲気がね。なんとなく」
リーネはそう言って、笑った。小さな笑い。
カイルは笑えなかった。——レイグに似ている、と言われることが、今は重かった。レイグの弟であること。その名前を使って、バルトに近づくこと。オルデンの道具として。レイグの弟として。——その二つは、両立するのか。
リーネの笑いの音が、部屋の中に残っていた。カイルは気づいた——自分がただの名前で呼ぶ相手は、今この部屋に一人しかいない。「リーネ」。レイグが自分を「カイル」と呼んだように。兄たちはもう呼んでくれない。長兄は「末弟」、三兄は処刑された、次兄は戦死した、五兄は神官として王宮の奥に消えた。姉の声は遠い。名前で呼び合う関係が、家族の中に、リーネとの間にしか残っていない。
その事実を、リーネの前で数えた。数えた後も、カイルはそれを口に出さなかった。リーネには重すぎる。兄の役割は、軽い顔で「ああ」とだけ返すことだった。
窓の外で、光の谷が光っていた。地脈の光。——精製所の稼働報告書の数字が、頭の隅に引っかかっている。明日こそ、もう一度確認しよう。




