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第12話 地脈の秘密

違和感は、最初は小さかった。


 精製所の稼働報告書——占領者レガリオンが管理する精製所が、毎月、宰相府に提出する報告書だ。採掘された粗魔素の量、精製された魔素の量、残存量、配給量。数字の羅列。カイルはいつも目を通していた。


 その日、カイルは報告書の山を改めて広げていた。


「殿下、またこれ整理するんですか」


 同僚のトーヴァが呆れた声を出した。赤みがかった茶髪を実用的に束ね、丸い顔にそばかすが浮いている。百十歳近い事務官。


「数字ばっかりで眠くなりますよ、この報告書。毎月同じ形式で、読んでもほとんど変化ないし」


「……一度、全部を通して見たい」


「全部? 二年半分ですよ」


「頼む」


 トーヴァは肩をすくめて、書庫から過去の報告書を運んできた。羊皮紙の束が机の上に積まれる。





 カイルは最初の一枚を開いた。占領が始まって数ヶ月後、最初に監督府が発行した報告書。そこから順番に、月ごとに——二年半分。


 ペンとインクを用意し、別の羊皮紙に数字を写し始めた。採掘量、精製量、残存量。三つの数字を月ごとに並べていく。


 作業は単調だった。数字を読み、数字を書く。それだけ。しかしカイルには——数字を並べて見ることに慣れていた。域外民政局の時代に、徴用の数字を並べていた経験が——そこで思考が止まった。あの場所のことは思い出さない。ただ、「並べる」技術だけが、身体に残っている。


 一時間、二時間と過ぎた。トーヴァが途中で煮出し湯を持ってきてくれた。温かい椀の底に魔素灯の石が仕込まれている——しかしその灯りは、以前より少し弱い気がした。配給制限の影響かもしれない。


 そして——三時間目に、数字が合わないことに気づいた。





 採掘量——これはレガリオンが管理する採掘施設の報告に基づく。


 精製量——精製所で加工された魔素の量。


 残存量——採掘量から精製量を引いた値。つまり「まだ精製されていない粗魔素」の在庫。


 単純な計算だ。


 採掘量から精製量を引けば、残存量になる。毎月、その差は累積していく。


 しかし——カイルが並べた数字を見ると、残存量の推移がおかしい。


 採掘量と精製量の差を累積していくと、残存量は増え続けているはずだ。少なくとも、大戦前の採掘能力から考えれば、残存量は相当な量になっているはずだった。しかし報告書の残存量は——ほぼゼロに近い数字で推移している。「ほぼ全量を精製に回している」と読める。


 それでもまだ——辻褄は合う。「精製効率が高い」と解釈すれば。


 しかしカイルは、もう一つの数字に気づいた。配給量だ。


 配給量は、精製された魔素が民生用・産業用・その他の用途に割り当てられる量。これも報告書に記載されている。全ての用途を合計すれば、精製量とほぼ一致するはずだった。——ほぼ一致、しかし、ずれがある。


 配給量の合計は、精製量の約七割だった。


 残りの三割は——どこに行った?


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


 もう一度、計算し直した。配給量の分類を全て足した。民生用、産業用、監督府自用、その他——全部合わせて、精製量の七割。三割が、どの分類にも入っていない。


 二年半分全ての月で、同じパターンが繰り返されていた。毎月、精製量の約三割が——行方不明だ。





 カイルは羊皮紙を握った。


 誰かが魔素を持ち出している。


 「誰か」は——考えるまでもない。精製所を管理しているのはレガリオンだ。配給量を決めるのもレガリオンだ。報告書を作るのもレガリオンだ。


 レガリオンが——占領地の魔素を、本国に送っている。


 カイルは目を上げて、窓の外を見た。光の谷が午後の光の中でかすかに輝いている。大地の底から滲み出る青白い光。それが——三割も、持ち出されていた。二年半の間。誰にも気づかれずに。


 いや、「誰にも」ではない。


 オルデンは——知っているのだろうか。





 その足で、カイルは宰相オルデンの執務室に向かった。


 扉を叩き、入室を許された。百七十歳を少し過ぎた老竜人は、いつものように窓際の机に座っている。薬草の匂い。茶碗。書類。


「宰相閣下。——ご報告があります」


「何だ」


 カイルは羊皮紙を机に置いた。並べた数字。二年半分の推移。


「精製所の稼働報告書を、過去のものから順番に見ました。——数字が合いません。採掘量と精製量と配給量の間に、毎月、三割の差があります。精製された魔素の三割が——どの配給分類にも入っていない」


 オルデンは羊皮紙を見なかった。カイルを見なかった。机の上の茶碗を見ていた。


 そして——目を閉じた。


 集中のサインではなかった。カイルは知っていた。この仕草が「集中」の時と、「考える」の時と、「思い出す」の時で微妙に違うことを。


 今は——どれでもない。


 オルデンは、カイルが言うだろうことを、既に知っていた。


「……知っている」


 低い声。


 カイルの手から、血が引いた。


「知って——おられるのですか」


「ああ」


「いつから」


「占領開始の直後から、その可能性を疑っていた。数字を確認し始めたのは——半年ほど前だ」


 半年前。つまりオルデンは半年前から、この矛盾に気づいていた。そしてカイルには言わなかった。誰にも言わなかった。


「なぜ——黙っておられるのですか」


 オルデンは目を開けた。金色の鋭い目がカイルを見た。


「これは、我々の切り札だ」


 カイルは理解した。理解した瞬間、理解したくなかった。


 切り札。つまり——いつか使うものだ。独立交渉か、あるいは別の場面で。レガリオンが占領地の魔素を密かに本国に送っているという事実は、発覚すれば外交問題になる。特に、レガリオンが「解放者」「文明化者」を自認している以上、「占領者が資源を盗んでいた」という事実は致命的だ。


 オルデンはこれを握っている。握ったまま、今は使わない。


「しかし——閣下」


「分かっているだろう。今は使えない」


「……はい」


「今使えば、どうなるか」


「……レガリオンとの関係が決裂します。交渉の余地が全て失われる。独立どころか、占領が強化される」


「そうだ。今使えば、この切り札は爆弾になる」


 オルデンの声は平坦だった。しかしカイルは——オルデンの顔に、薄い疲労が浮かんでいるのを見た。あの宴の夜——セルヴァンの宴を知った夜と同じ疲労。





 カイルは羊皮紙を持ち直した。そして——別のことに気づいた。


「宰相閣下。——もう一つ、申し上げたいことがあります」


「言え」


「以前、閣下は私に教えてくださいました。大陸東部の妖霊族の国エテルネアの学術院を通じて、鉱人族の大国コヴァルドの軍事情報を——レガリオン本国に流していると」


「ああ」


「もし——レガリオンが密輸を続けていることが、私たちの側から暴露されたら」


 カイルは言葉を選んだ。


「レガリオンは、他の情報源も疑い始めるでしょう。『アストラードの宰相府は、独自の情報網を持っているのではないか』と。エテルネア経由の情報戦も——バレる可能性がある」


 オルデンが目を細めた。初めて、カイルに「驚き」に近い表情を向けた。


「……そこまで考えたか」


「……はい」


「その通りだ。密輸の証拠を公にすれば、情報戦がバレる。——私は今、二つの爆弾を抱えている。片方を使えば、もう片方も連鎖的に露呈する。だから両方とも——今は使えない。抱えたまま、綱渡りを続ける」


 オルデンは机の引き出しを開けた。鍵のかかる引き出し。——あの引き出しだ。処刑リストと技術者名簿が入っている場所。


 オルデンは羊皮紙を受け取り、そこにしまった。


「お前が持ってきた数字は、誰にも渡すな。口外するな。今日ここで話したことは——存在しない」


「……はい」


「お前が気づいたのは、立派だ。しかし同時に——これからお前は、一人で重いものを抱えることになる」





 宰相府を出て、王宮に戻る坂道を上った。


 夕暮れの高原。空が赤い。監督府の灰色の煉瓦の塔が、夕日を受けて鈍く光っている。——あの塔の中に、執政官アルマンがいる。


 アルマンは知っているのだろうか。


 監督府の長として、レガリオン本国が占領地から魔素を密輸している事実を。——カイルは、アルマンを思い出した。あの目尻の皺。息子のフィリップの話をする時の声。善意の中に差別が溶けていた男。しかし嘘をつける人間ではなかった。


 アルマンは——たぶん、知らない。


 本国が勝手にやっている。現場の執政官に知らせずに。アルマンは「善意の執政官」として、占領地の秩序と文明化のために働いている。しかしその背後で、本国はアルマンが知らないうちに——資源を奪っている。


 「有能な男だ」。オルデンが初めてアルマンと会った日に、平坦な声で呟いた言葉。——あれは、もしかすると、「有能な愚か者」という意味だったのかもしれない。





 王宮の回廊に入る直前に、カイルの足が止まった。


 中庭の向こう、東の庭園に——明かりが見えた。


 魔素灯の光ではない。蝋燭の光だった。複数。十本以上。卓を囲むように並んでいる。小さな宴の形だ。占領下で、王宮の中で、配給制限の中で——蝋燭を贅沢に灯した卓。


 カイルは迂回するつもりだった。しかし声が飛んできた。


「——末弟か」


 カイルは振り返った。


 庭園の卓の端に、長兄のセルヴァンが立っていた。月の光と蝋燭の光で、白銀の髪が淡く輝いている。角は布で隠していない。王宮の敷地内だから、と誰かに問われれば答えるだろう——しかし実際には、セルヴァンは街に出る時も角を隠さない日がある。監督府が何も言わないのを、セルヴァンは知っている。


 セルヴァンの横に、見知らぬ人物がいた。


 人間族。年配。五十代半ばほど。仕立ての良いレガリオンの上着。しかし軍服ではない。襟の刺繍は、カイルが知っている監督府の紋章ではなかった。——別の組織の紋章。見たことがない紋章だが、レガリオン本国の文書でちらりと目にした記憶がある。元老院の下部組織の一つだったか。


 セルヴァンがレガリオン語でその人物に何か告げた。流暢だった。カイルは一瞬、聞き取れなかった。次にセルヴァンがカイルに笑いかけた。


「末弟。ちょうどいい。こちらは——本国から来られた賓客だ。短い滞在でな」


 カイルは頭を下げた。名前を聞くべきか、聞かざるべきか迷った。迷っている間に、セルヴァンは相手に対してカイルを紹介した。「宰相府で働いている弟です」と。「翻訳をやっています」と。軽い、通りすがりの紹介だった。


 人間族の賓客はカイルに微笑んだ。「お忙しい中、失礼します」とレガリオン語で告げ、卓に戻った。


 セルヴァンがカイルに近づいた。小声で。


「驚いたか」


「……どなたですか」


「さあな。——名前は聞かないことにしている。聞いてしまうと、責任が生じる。責任が生じれば——付き合いが深くなる」


 セルヴァンの声に笑いが混じっていた。


「末弟、オルデン殿は今日も忙しかっただろう。あの老人は忙しい。いろいろと。——私は暇だ。暇だから、こういう人たちの相手をしている。誰も傷つけない。ただ、話を聞き、酒を勧め、帰りの土産に少し気の利いたものを持たせる。それだけだ」


 カイルは黙っていた。


 「それだけ」ではない。セルヴァンが本国の元老院系の人物と、月下で、蝋燭の卓で、王宮の中で、監督府を通さずに会っている。これは——宰相府が把握していない筋だ。オルデンが知らない筋だ。あるいは、オルデンは知っているが、止められない筋だ。


 カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。


「それでは、失礼いたします」


「うん。——おやすみ、末弟」


 セルヴァンは卓に戻っていった。月の光の中で、白銀の髪が揺れた。蝋燭の炎は、風もないのに少し揺れていた。





 回廊を歩きながら、カイルは息を整えた。


 今日は——二つ目の「知ってしまったもの」だった。


 午後の書庫で、レガリオン本国の密輸に気づいた。本国が占領地の魔素を秘密裏に持ち出している事実を、オルデンは知っていて黙っている。「切り札だ」と言った。


 そして今、セルヴァンが本国の元老院系の人物を、宰相府を通さずに相手にしている事実に気づいた。セルヴァンは国のことを考えていない。自分の楽しみのためにやっている。あるいは——自分の将来の楽しみのためにやっている。占領が終わった後、もし独立が来た時に、誰が王座に座るか。セルヴァンは、その時の自分の席を、今から——本国の誰かに約束させようとしているのかもしれない。


 オルデンは今、何本もの綱を同時に歩いている。カイルが知っているだけでも温度管理、情報戦、そして今日知った密輸の証拠——三本、いや、それ以上あるだろう。オルデンがそれらの綱を綱として歩いている時、セルヴァンはその隣で、別の綱を気軽に歩いている。セルヴァンには計画がない。あるいは——計画がないことこそが、セルヴァンの危険さだった。計算する者は、計算できる者に読まれる。オルデンはセルヴァンを読めない。カイルも読めない。


 王宮の回廊に戻ると、末妹のリーネが待っていた。


「カイル兄、遅かったね」


「……少し、仕事が長引いた」


「顔が——」


「大丈夫だ」


 リーネはカイルの顔をじっと見た。何かを感じ取っている。しかし聞かなかった。カイルが言えないことを、リーネは聞かないでいてくれる。この沈黙が——今夜はありがたかった。


 自室で記録を書こうとした。ペンを取り、インクに浸し、羊皮紙を広げた。


 手が止まった。


 書けない。今日発見したことは、記録に書けない。オルデンに「存在しない」と言われた。書けば、記録に残る。記録に残れば、誰かの目に触れる可能性がある。


 カイルは初めて——自分の記録に書けないものを抱えた。


 ペンを置いた。白い羊皮紙が机の上にあった。何も書かれていない。そこに、書けないものが——確かに、あった。


 窓の外で、光の谷が光っていた。その三割が、毎月——本国に送られていた。青白い光を見つめながら、カイルは拳を握った。

【豆知識:魔素の性質】


魔法のエネルギー源となる魔素は、目にも見えず、匂いもありません。古い伝承では「星の光が地に沈殿したもの」と信じられ、神官階級はその神秘性を長く独占してきました。

物質とエネルギーの連続体の中間状態——これが現代の定義です。親和性の高い者は肌で濃淡を感じ取り、頭の中で形を描くことで物理的現象を起こせます。竜人族はこの親和性が先天的に高く、地脈から直接魔素を引く能力で軍事的優位を長く保ってきました。

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