第13話 逆流
提案は、いつものように静かに行われた。
レガリオンの占領統治機関・監督府の会議室。長い樫の卓を挟んで、執政官アルマンと宰相オルデンが向かい合っている。カイルは記録係としてオルデンの一歩後ろに座っている。
あの血の夜から、もう一年近くになる。事件以来、街の空気は変わった。落書きは減り、騒擾は収まり——しかしその下に、別の不安が溜まっていた。職を失ったままの元魔法兵が三万人。配給制限で生活が圧迫される民。「次の血の夜」がいつ来るか、誰にも分からない。
オルデンが穏やかな声で口を開いた。
「執政官閣下。一つ、ご提案があります」
「なんだ、宰相殿」
「処刑リストに含まれていない元軍人——軍籍を剥奪されたまま職を失っている者たちについてです。彼らに、社会復帰の道を許可していただきたい」
アルマンの眉が動いた。
「元軍人の社会復帰、か。——危険ではないか。あれは魔法兵だった連中だ」
「危険だからこそ、行き場を与えるべきです」
オルデンは茶碗には手を伸ばさなかった。会議の場では飲まない。
「血の夜の犯人を覚えておられますか。あの若者は、軍籍を剥奪されてから日雇いの荷運びで暮らしていました。職がなく、誇りを奪われ、酒に逃げ——刃を抜いた。彼一人ではありません。同じ境遇の元軍人が、今、街に三万人います」
アルマンの目が細くなった。
「三万、か」
「三万人の追い詰められた者を、街に放置している。これが現状です。私が懸念しているのは——次の事件が、巡回兵一人の殺害で終わらない可能性です」
オルデンは数字を出した。「三万人」「次の事件」。アルマンの軍人としての本能を刺激する数字。
「彼らに職を与え、社会に戻せば——閣下の統治の安定が増します。鍛冶場、農場、運輸——労働力が必要な場所はいくらでもある。元軍人は規律を知っている。労働者として有用です」
アルマンは机を一度叩いた。決断の癖。
「それが最善だ。——リストを作れ。誰を、どの順で復帰させるか。監督府で審査する」
「承りました」
オルデンは深く頭を下げた。低姿勢の仮面。しかしカイルは——その仮面の下で、オルデンの顎が微かに上がるのを見た。満足のサイン。
宰相府に戻り、執務室に入った。
オルデンは机の引き出しを開けた。鍵のかかる引き出し。あの引き出しだ。処刑リストと、技術者名簿と、密輸の数字が入っている場所。
オルデンが取り出したのは——技術者名簿だった。
占領が始まった年に、カイルが宰相府の同僚トーヴァと二人で作った名簿。精製技術者87名、採掘施設の管理職12名、地脈軍事局の研究者23名。合計122名。あの時、カイルは意図を問わずに作った。オルデンは「ご苦労」と言って引き出しにしまった。
三年前のことだった。
「これを基に、復帰のリストを作る」
オルデンが言った。カイルは羊皮紙を見た。三年前の自分の筆跡が並んでいる。インクが少し褪せている。
「三年前——閣下は、これを見越しておられたのですか」
「見越していた、というほどのものではない。——いつか必要になる時が来ると、考えていた」
「いつか、とは」
「占領が長引けば、レガリオンが『治安維持』のために元軍人を社会に戻したいと言い出す時が来る。その時に、誰を優先的に復帰させるかを我々が決められる立場でなければならない。——立場を確保するためには、最初から名簿を握っておく必要があった」
カイルの内側で、何かが軋んだ。
三年前。あの時——カイルは何も知らずに名簿を作っていた。トーヴァが「なんで今これを?」と聞いたのを覚えている。カイルは「宰相の指示だ」としか答えられなかった。今は分かる。あれは——オルデンの長期計画の一手だった。
三年間、この名簿は引き出しの中で眠っていた。眠りながら、待っていた。今日、目を覚ますために。
「カイル」
「……はい」
「お前が三年前に作った名簿が、今日、この国の精製技術を救う」
オルデンの金色の目がカイルを見た。
「お前の手が、過去に書いた数字が、今日の人間を生かす」
カイルは答えなかった。答えられなかった。——記録が、人を救うこともある。記録者の能力は、そういう形で——使われることもある。
復帰の手続きが始まった。
名簿に基づいて、宰相府の文官たちが元軍人たちと連絡を取り始めた。多くは消息が途絶えていたが、技術者は自分の専門を活かせる場所——鍛冶場、精製の補助、地脈の保守——に振り分けられた。
数週間で、街に変化が現れた。
工房街で、停止していた炉のいくつかが動き始めた。元魔法兵だった鍛冶師が、配給された限られた魔素で——以前より小規模ながら、鍛冶を再開した。職を得た元軍人たちは、生活の糧を取り戻した。
しかし——同時に、別の声も聞こえ始めた。
ある日、カイルは宰相府で報告書を読んでいた。下市街の鍛冶場での事件。復帰した元魔法兵の鍛冶師が、人間族の監督官——配給魔素の使用量を確認に来たレガリオンの役人——に対して、口論になった。
目撃証言によれば、元魔法兵はこう言ったらしい。
「短命種の小僧に指図される筋合いはない」
カイルは羊皮紙を置いた。
短命種。竜人が人間族を指して使う蔑称。占領下で禁じられているわけではないが、口にすれば確実に問題になる言葉。それを——復帰したばかりの元軍人が、監督官の目の前で言った。
暴力沙汰にはならなかった。鍛冶師は警告で済んだ。しかし——カイルの中に、記憶が浮かんだ。
占領が始まったばかりの頃、カイルは検問所で同じ言葉を聞いた。商人がレガリオン兵に頭を下げた直後に「短命種の小僧が」と吐き捨てた声。あの時、カイルは「占領されてもなお、竜人の根にあるものは消えていない」と思った。
四年経った。表面は従順になった。角を布で隠すことに慣れ、占領者に頭を下げることに慣れた。——しかし中身は、変わっていない。
元軍人を社会に戻せば、復帰した彼らがレガリオン兵に頭を下げて働くことになる。それは一時的な治安安定をもたらすが——同時に、屈辱を抱えた者たちの数を増やす。彼らは職を得る。同時に、毎日「短命種の小僧」に指図される。その屈辱が——いずれ、また噴き出す。
オルデンは「治安が安定する」と言った。しかしカイルには——別の絵が見えた。安定の裏で、温度が上がり続ける。バルトの周囲には、復帰した元軍人たちが新たに集まっているはずだ。職を得たことで、生活の余裕ができ、抗戦派の活動に時間を割ける者が増える。
二律背反だ。治安を安定させるための復帰が、抗戦派の温床を膨らませる。
カイルはこの矛盾を、どう理解すればいいか分からなかった。オルデンは——分かっていてやっている。賭けているのだ。「血の夜」の再発と、抗戦派の膨張を、同時に管理しようとしている。
綱渡りだ。
その週に、もう一つ、別のことがあった。
月一度の魔素取引の場——監督府が主催し、各国の商人が魔素関連の物品を取引する小さな市——に、初めて見る商人が現れた。
南西部の魔人族の国ザフィールから来た商人だった。ナシームと名乗った。
魔人族を間近で見るのは、カイルは初めてだった。乾いた肌。小さな角——竜人とは違う、額の中央に一本だけの細い角。穏やかな目。話し方が静かで、声に独特の響きがあった。
ナシームは粗魔素の取引を申し出ていた。レガリオンの監督官が値段の交渉をしていた。ナシームは無理な要求はせず、丁寧に取引を進めた。
取引が終わりかけた時——ナシームが、ふと口を開いた。
「最近、この土地の地脈は——少し疲れているようだ」
通訳がレガリオン語に訳した時、言葉の意味が変わっていた。「この土地の魔素生産量は減少傾向にある」と。事務的な言い換え。ナシームは何も言わなかった。
しかしカイルには——ナシームが別のことを言ったように聞こえた。「疲れている」という言葉。「生産量の減少」とは違う響き。まるで——地脈に、感情があるかのような言い方。
カイルは記録に書きとめた。「ザフィールの商人ナシーム。地脈について『疲れている』と発言。通訳は取り繕った」。なぜ書き留めたのかは、自分でも分からなかった。ただ、何かが引っかかった。
その夜、王宮に戻る坂道を上りながら、カイルは数えていた。
オルデンが今、同時に動かしているもの。
一、温度管理。抗戦派を潰さず、暴発させず、ちょうどよい不安定さを保つ。
二、情報戦。大陸東部の妖霊族の国エテルネアの学術院を通じて、コヴァルドの脅威情報をレガリオン本国に流す。
三、密輸の証拠の温存。鍵のかかる引き出しの中で、いつか使うために眠らせる。
四、技術者名簿の活用。三年前に仕込んだ手札を、今、切る。
五、処刑解除を「治安安定」として提案し、元軍人の社会復帰を実現する。
——いや、五つではない。
カイルは坂の途中で足を止めた。最近、宰相府で見かけた書類のいくつかが、頭の中で繋がり始めていた。
六、占領コストの可視化。先月、宰相府の一室でカイルは見た。レガリオンが占領のために費やしている経費——監督府の維持費、駐留兵の俸給、治安維持の費用——を、宰相府の文官が密かに集計していた。なぜそれを集めているのか、その時は分からなかった。今は分かる。エテルネア学術院に渡すための数字だ。「アストラード占領は本国財政を圧迫している」——この情報をレガリオン本国の財政派に届ければ、独立を「経済的に合理的な選択」として議論する者が出てくる。情報戦の延長。しかし矛先が違う。一の情報戦は「コヴァルドの脅威」で軍部に。六の数字は「占領は損だ」で財政派に。二方向から、本国を動かそうとしている。
七、特需準備。技術者名簿の真の意味。オルデンは復帰した技術者をただ社会に戻しているのではない。鍛冶場、精製の補助、地脈の保守——それらの配置は、ある目的のために設計されている。いつか周辺国で紛争が起きた時に、魔素製品の需要が急増する。その時に、即座に大量生産できる体制を、今、作っている。三年前の名簿が、ただの「人材温存」ではなかった。あれは、紛争が起きた瞬間に発動する仕掛けだった。
七つ。
カイルは坂の途中で立ち尽くしていた。
オルデンが見ているのは、独立の「条件」が整う日だ。レガリオン本国の財政派が「占領は損」と判断する。軍部が「コヴァルドの脅威で防波堤が必要」と判断する。同時に、周辺国で紛争が起きて、アストラードが「特需を支える同盟国」として価値を示す。——三つの条件が揃った時、レガリオンの元老院は「独立させる方が得だ」と決断する可能性が出てくる。
三つの条件のうち、二つはオルデンが作ろうとしている。残り一つ——周辺国での紛争——は、いつ起きるか分からない。しかし起きた時に備えて、特需の準備は整えている。
オルデンが今、同時に動かしている七つの仕掛けは——全て、「いつか来る独立交渉の日」のための準備だった。
オルデンは、独立を望んでいる。
誰にも、それを告げていない。カイルにすら、はっきりとは言っていない。しかし——七つの仕掛けの全てが、同じ方向を向いている。
百七十歳を少し過ぎた老竜人の背中が、上市街の回廊の影に消える。あの背中は、毎日、坂道を下りて宰相府に向かい、坂道を上って王宮の方角に消える。同じ歩調で。同じ姿勢で。——疲労を見せずに。
しかしカイルは知っている。あの老人にも疲労はある。茶を淹れる手が、最近、わずかに遅くなる時がある。セルヴァンの宴を知った夜、血の夜の翌日、密輸を発見したカイルの報告を聞いた時——同じ、わずかな遅さがあった。
百七十歳を少し過ぎた身体で、七本の綱を同時に歩いている。独立の日のために。
しかしその夜、カイルが坂を上り切る前に——宰相府から使いが追ってきた。
「殿下。閣下がすぐに戻れと」
カイルは踵を返した。坂を下り、宰相府に戻った。
執務室にオルデンがいた。茶碗は置かれたまま。机の上に、封を切ったばかりの書状があった。細い黒い紐の結び目が、封蝋と一緒に机の端に転がっている。——レガリオン本国から直接届く書状の形だった。監督府経由ではない。
オルデンが目を上げた。「読め」
カイルは書状を取った。レガリオン語。細かい文字。丁重な決まり文句の後に、要点があった。
——レガリオン本国元老院の下部組織「戦後統治検分室」から、特別査察団がアストラードに派遣される。人員七名。目的は「占領統治の現状把握および本国への報告」。到着予定は二ヶ月後。宰相府は全面的な協力を求められる。
カイルの指から血が引いた。
「宰相閣下。——なぜ、今」
「今だから来る」
オルデンの声は低かった。怒りではない。疲労でもない。何か——別の温度の声。
「本国の元老院は、占領統治の『成功』を疑い始めている。アルマンの月次報告書は『安定している』と書く。しかし本国の別の筋から、別の情報が入っている。——『アストラードでは何かが動いている』と」
「別の筋、とは——」
オルデンの金色の目がカイルを見た。
「お前は最近、王宮で長兄殿下と会ったか」
カイルの足が床に根を張った。——オルデンは知っていた。セルヴァンの庭園の宴のことを。蝋燭の卓のことを。名前を聞かなかった賓客のことを。
「……一度だけ。月下で。本国から来られたという賓客が一人」
「その賓客が——誰だったか、調べはついている。戦後統治検分室の副室長だ。あの庭園の卓で、セルヴァン殿下は副室長に、何を語ったと思う」
カイルは答えなかった。オルデンが続けた。
「セルヴァン殿下は——『私はいつでも即位する用意がある。アストラードは占領を終え、新しい王の下で再建されるべきだ。その時、本国に対して最も従順なのは、現宰相ではなく私だ』——その意味のことを語った。副室長は、セルヴァン殿下の話を持ち帰った。持ち帰った話が、元老院の一部に広がった。『アストラードには、現宰相が本国に見せている顔と別の顔がある。現宰相は何かを隠している』と。——それで、査察団だ」
カイルの中で、音が消えた。
あの庭園の蝋燭。セルヴァンの「暇だから」という笑い。「誰も傷つけない」という言葉。——セルヴァンは本当に、誰も傷つけるつもりがなかったのだろう。傷つけるつもりがないまま、七本の綱の全てを揺らす石を、本国に投げてしまった。
「閣下。——長兄殿下は、何のつもりで」
「つもりなどない」
オルデンの声が初めて——微かに、苛立ちを帯びた。
「セルヴァン殿下は、計画して動いたのではない。気まぐれだ。副室長と酒を酌み交わし、話が盛り上がり、自分を大きく見せたかった。それだけだ。——しかし気まぐれが、最も危険だ。計画する者の動きは読める。気まぐれは読めない」
オルデンが茶碗を持ち上げた。しかし茶は飲まなかった。持ち上げたまま、止まっていた。
「二ヶ月だ。二ヶ月で、査察団の前に差し出す『アストラードの顔』を作り上げなければならない。数字でも、報告書でも、街の様子でも——査察団が持ち帰るもの全てを、我々が整える。——お前にやってもらう仕事がある」
「……何を」
「四年分の安定報告書だ。犯罪率、経済指標、降伏条件の遵守状況——全てを一つの文書にまとめろ。査察団に渡すための文書だ。誰に見せるかは——今、お前には分かった」
カイルは頷いた。頷く以外にできなかった。
「もう一つ。セルヴァン殿下に会ってこい」
カイルの親指が、薬指の付け根を擦った。
「……私が、ですか」
「私が行けば、兄弟喧嘩ではなく政治になる。お前が行けば、兄弟の話になる。長兄殿下には——『次の気まぐれ』を止めてもらう必要がある。二ヶ月で十分だ。二ヶ月の間、長兄殿下には動いてもらわない」
末妹のリーネが王宮の回廊で待っていた。
「カイル兄、おかえり」
「……ただいま」
「今日も、難しい顔してる」
カイルは少しだけ口元を緩めた。リーネにはこの程度しか見せられない。今日見たもの。三年前の名簿。短命種の小僧。ナシームの「疲れている」。七本の綱を歩く老人の背中。本国から来る査察団。セルヴァンの気まぐれが引き寄せた嵐。——どれも、リーネには言えない。
「リーネ」
「うん?」
「俺たちは——いつまでこのままなんだろうな」
リーネは少し考えて、答えた。
「分からない。でも——カイル兄が、毎日仕事してるってことは、何かが進んでるってことなんでしょ?」
「……かもしれない」
「だったら、私はそれでいい」
リーネが先に部屋に入っていった。カイルは回廊にしばらく立っていた。
窓の外で、光の谷が光っていた。地脈の光。——ナシームの言葉が、また頭に浮かんだ。「疲れているようだ」。
地脈にも、疲労があるのだろうか。
【豆知識:夜に光る大地】
高原の地脈が地表近くに露出している場所では、夜になると魔素がごく稀に青白く発光します。占領以前の竜人たちは、春分の朝に角を光に晒し、家の水盤に地脈の水を注ぎ、「星詠み」と呼ばれる夜の観察をする習慣を持っていました。
今では宰相府の水盤も水を止められ、多くの風習が家の奥に沈んでいます。ザフィールの魔人族商人が残した「地脈は疲れている」という一言の意味を、この国はまだ正面からは受け取れていません。




