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第8話 新しい国の形

新国制の草案が、レガリオンの占領統治機関・監督府から届いた。


 竜人の国アストラードの国の基本法を、占領者が起草する。その不条理を——カイルは既に受け入れていた。降伏条件を飲み、国王の宣言を見届け、長兄の宴を目の当たりにした後では、もう驚く余力がない。


 草案はレガリオン語で書かれていた。翻訳はカイルの仕事だ。


 宰相府の執務室で羊皮紙を広げ、ペンを取り、一語ずつ竜人語に置き換えていく。レガリオン語の法律用語は独特だ。直訳すると意味が変わる言葉がある。「制限」と「禁止」。「管理」と「接収」。——降伏条件の交渉で、宰相オルデンが一語にこだわった理由が、今は分かる。


 翻訳の途中で、監督府から確認の使いが来た。


 マルセルという名の人間族の若い男だった。地脈調査官。レガリオンの技術将校で、几帳面で真面目な印象だ。翻訳の確認——つまりカイルの訳文がレガリオン語の原文と一致しているかを検証する役割だった。


 しかしマルセルの目は、翻訳だけを見ていなかった。


 草案の中に地脈に関する条項があった。魔素の民生利用の範囲、精製所の運営規則、配給量の算定方法。マルセルはその数字を——異様に細かく確認した。配給量の算定式に使われている地脈残存量の数値を、自分の手帳の数字と照合している。手帳には精密な測定データが並んでいた。


「この数値は——どこから?」


 カイルが聞くと、マルセルは微かに目を上げた。


「安全管理のための調査です。地脈の状態を正確に把握しておく必要がありますので」


 丁寧な答え。嘘は言っていない——しかし、何かが引っかかった。安全管理のために、ここまで精密な測定が必要なのか。カイルはその違和感を記憶に留めた。





 翻訳の確認が終わった後、執政官アルマンがカイルに声をかけた。


「若い王子。少し時間はあるか」


 監督府の廊下。四角い窓から午後の光が差している。アルマンは歩きながら話す人間だった。座って話すのは公式の場だけで、日常の会話は歩きながらだ。軍人の習慣なのかもしれない。カイルはアルマンの半歩後ろを歩いた。体格差がある——アルマンは人間族としては大柄だが、カイルの方がさらに背が高い。しかし半歩後ろを歩くのは、カイルの選択だった。


「翻訳の仕事は順調か」


「……はい。いくつか、法律用語で確認が必要な箇所がありますが」


「ふむ。——君はレガリオン語がよくできるな。どこで学んだ」


「宰相府の見習い時代に、外交補佐の末席にいた時期がありました」


「見習いか。若い頃から働いているのだな」


 アルマンの声の調子が変わった。硬さが抜けて、少し柔らかくなる。——この人は、部下と話す時にこの調子になるのだろう。カイルは王族だが、アルマンにとっては「若い王子」——導くべき年少者だ。


「私にも息子がいる。レガリオンの本国に。お前と——いや、人間の年で言えば同じくらいだ」


「……そうですか」


「妻から手紙が来るたびに、息子が大きくなっているのが分かる。会えない間に育っていく。——軍人の宿命だがな」


 アルマンは窓の外を見た。高原の空。アストラードの空は、レガリオンの平野の空とは色が違うのだろうか。


「君と話していると、息子のことを思い出す。年の近い若者が異国の地で働いているのを見ると——親心のようなものが出るのかもしれない」


 善意だった。本物の善意。


 しかしカイルは——その善意の構造を、もう感じ取れるようになっていた。「竜人の王子」を「自分の息子のように」見ること。それは——竜人を対等な存在として見ていないということだ。息子は守るもの、導くもの、育てるもの。対等な交渉相手ではない。


 しかし同時に——アルマンの目尻の皺を見ると、この感情が演技ではないことも分かる。この男は本当に、遠い故郷の息子を思い出している。異国の若者に、家族の話をしている。


 嫌いになれない。嫌いになれないことが——最も困る。


「……お子さんのお名前は」


 聞くべきではなかったかもしれない。しかし——聞いてしまった。


「フィリップだ。今年で二十三になる。軍に入った。——私と同じ道を選んだ」


 アルマンの声に、誇りと寂しさが混じっていた。





 午後。新国制の条文をめぐるオルデンとアルマンの交渉。カイルは記録係として同席した。


 焦点は軍事魔法の放棄条項だった。アルマンが条文を読み上げる。


「アストラードは、軍事目的による魔素の利用を永久に放棄する」


 永久に。


 カイルはオルデンを見た。目を閉じている。集中のサイン。


 アルマンが条文の背景を語り始めた。


「この条項がなぜ必要か。——私は大戦で竜人の魔法兵と戦った。角が光り、大地が裂けた。百人の兵士が一人の竜人に殺された」


 声に——恐怖の記憶があった。55歳の軍人が、今も覚えている恐怖。


「あの力が二度と使われないために、この条文がある」


 カイルは記録しながら奥歯を噛みそうになった。角が光り、大地が裂く。それをしたのは——戦死した次兄レイグやバルトのような竜人だ。あの優しい手が。あの大きな声が。戦場では——


 そして域外民政局では——。


 止まった。ペンは動かし続けた。手が書いている内容と、頭が触れかけた記憶が、違う場所にあった。書き続けている限り、記憶の方には行かなくていい。カイルは自分に言い聞かせた——私は記録者だ。今は書く手だけがあればいい。それ以外は要らない。


 言い聞かせながら、カイルは気づいていた。この「言い聞かせ」こそが、記録者という肩書きに逃げ込む癖だということに。しかし気づいても、逃げるのをやめられなかった。ペンは動き続けた。文字は均等に並んだ。カイルの筆跡は、いつも通り整っていた。


 オルデンが口を開いた。


「放棄の意志に異存はありません。ただし——文言について一点」


「何だ」


「『永久に放棄する』を、『現在の情勢において放棄する』に変更いただけないか」


 アルマンの眉が動いた。


「違いがあるのか」


「実態は変わりません。我々に軍事魔法を使う意志も能力もない。ただ、『永久に』という文言は——将来の全ての世代を縛る。今の世代が決められるのは、今の世代のことだけだと考えます」


 アルマンは戦場の記憶を語った直後だった。感情が動いている。——そしてオルデンの言葉は、感情に寄り添っているように聞こえた。「今の我々には意志も能力もない」。しかし論理は違う方向を向いている。「永久に」を「現在の情勢において」に変えれば——情勢が変わった時に、条項が外れうる。


「……合理的だ。修正する」


 アルマンが机を叩いた。決断の音。


 カイルは記録した。オルデンの顎が微かに上がった。満足のサイン。——一語。たった一語が変わった。しかしこの一語が——将来を変えうる。降伏条件の「接収」を「管理」に変えた時と同じだ。この老人は、言葉の中に種を蒔いている。





 宰相府に戻った。


 夕方の執務室で、同僚のトーヴァが書類を整理していた。カイルが机に着くと、トーヴァが煮出し湯を持ってきた。


「殿下、お疲れですか。顔色悪いですよ」


「……いつものことだ」


「いつものことだから心配するんですよ」


 トーヴァは向かいの椅子に座った。書類を手元に置いたまま、手が止まっている。——珍しいことだった。トーヴァの手が止まることは滅多にない。


「殿下」


「何だ」


「最近、街を歩きましたか」


「……監督府への往復は毎日だが」


「それは上市街と下市街の間ですよね。もっと外——街外れとか、工房街の方」


「行っていない」


「ですよね」


 トーヴァが煮出し湯を一口飲んだ。


「私、友人が鍛冶屋の娘なんです。工房街の。——戦前は、親父さんの炉がいつも動いてて、魔素灯が明るくて、通りに鍛冶の音が響いてたんですけど」


「今は」


「炉が動かない。配給制限で、鍛冶に使える精製魔素が足りないから。親父さんは炉の前に座って——何もしないで座ってるんですって。手は動くのに、炉が動かない。手の方が先に錆びちゃうって言ってたそうです」


 カイルは黙って聞いていた。


「あと、角の布。最初はみんな嫌がってたんですけど——最近は、巻かない方が不安だって言う人が出てきたんですよね。巻いてないとレガリオン兵に止められるし、何か言われるかもしれないし。巻いてる方が安全だから——巻くことに慣れちゃった」


「……慣れた、か」


「はい。——でも、一番変わったのは」


 トーヴァが窓の外を見た。夕暮れの上市街。回廊のアーチが影になっている。


「みんな、下を向いて歩くようになったことですかね」


 沈黙が落ちた。


「戦前は——角を上げて歩いてたんです。竜人だから。誇りがあるから。でも今は、布を巻いた角を低くして、目を伏せて、足早に通り過ぎる。レガリオン兵の前を通る時だけじゃなくて——誰もいない路地でも。癖になっちゃったみたいで」


 トーヴァの声は明るくなかった。しかし暗くもなかった。事実を述べている声だった。この同僚は、悲しみを「事実」として処理できる人間だ。それが——強さなのか、諦めなのか。


「殿下」


「何だ」


「これ——ずっとこのままなんですかね」


 カイルは答えを持っていなかった。


 降伏条件が通告され、国王が宣言を出し、新国制が制定される。占領の枠組みは完成しつつある。鎖は全て嵌まった。しかしオルデンは鎖の中に余地を仕込んだ。「現在の情勢において」。「管理下に置く」。「意見聴取」。——情勢が変われば、鎖は外れうる。


 しかしそれがいつなのか、どうすれば情勢が変わるのか——今のカイルには分からない。


「……分からない」


「ですよね」


 トーヴァは笑った。小さな、乾いた笑いだった。


「でも——殿下が分からないなら、誰にも分からないんでしょうね。宰相閣下は分かってるのかな」


「……あの人は——何か見えている気がする。ただ、何が見えているかは教えてくれない」


「宰相閣下らしい」


 トーヴァが立ち上がった。書類の束を抱える。いつもの姿勢。「じゃ、殿下。お先に失礼します。明日も書類、山ですよ」


 トーヴァが去った後、カイルは一人で机に向かった。


 煮出し湯が冷めていく。窓の外に、夕暮れの街並みが見える。回廊のアーチ。石造りの屋根。——その向こうに、監督府の灰色の塔。


 オルデンは何を見ているのか。


 降伏条件の「接収」を「管理」に変えた。新国制の「永久に」を「現在の情勢において」に変えた。配給量の決定に「意見聴取」を入れた。——全て、小さな変更だ。今は何の力も持たない。占領が続く限り、レガリオンが全てを決める。


 しかしオルデンは、「今」のために動いていない。


 「現在の情勢において」——情勢が変わる日を、あの老人は見ている。いつ変わるのか。何が変えるのか。それはまだ分からない。しかし変わった時に——鎖を外す余地を、今のうちに仕込んでいる。一語ずつ。一手続きずつ。


 オルデンは——この国が再び立ち上がる日を、想定しているのだ。


 今はまだ、全ての鎖を飲んでいる。頭を下げ、従順に見せ、屈辱を耐えている。しかしそれは永遠ではない。永遠にするつもりがない。だから「永久に」を拒んだ。


 カイルにはまだ、その日の姿は見えなかった。しかし——オルデンには見えている。見えているから、耐えられるのだ。





 夜。王宮に戻った。


 自室の窓から、光の谷がかすかに光っていた。地脈の光。この光はいつも同じだ。占領の前も後も。降伏条件が来ても、新国制が制定されても——大地の光は変わらない。


 リーネが入ってきて、隅に座った。今日は何も言わなかった。本を開いて、静かに読んでいる。


 カイルは記録を書いた。今日の交渉を書き、アルマンの言葉を書き、トーヴァの言葉を書いた。


 ——みんな、下を向いて歩くようになった。


 この一文を書いた時、ペンが止まった。自分も——下を向いて歩いている。角の布を巻き、坂を下り、監督府に入り、頭を下げ、記録を取り、坂を上って帰る。それが日常になった。


 慣れた。


 慣れたということが——少しだけ重かった。あの朝と同じ重さが、今もここにある。何も変わっていない。変わったのは、重さに慣れたことだけだ。


 ——しかし、とカイルは思った。


 いつか、この街の竜人たちが、また上を向いて歩く日が来るのだろうか。角の布を外し、背を伸ばし、自分の足で立つ日が。


 それはレイグが見せてくれた高原の夜のように——角を隠さず、誰にも頭を下げず、ただ星の光と地脈の光の間に立って、「きれいだな」と言える日のことだ。


 その日がいつ来るのか、カイルには分からない。来ないのかもしれない。しかし——光の谷は今夜も光っている。大地の底に、まだ光がある。


 ペンを置いた。

【豆知識:老宰相オルデン】


宰相オルデン・ドレーヴェンは、旧貴族ドレーヴェン家の本家当主で、戦前から宰相職を務めてきた老練の政治家です。現在170歳(竜人族の平均寿命200〜300年、人間換算で六十代前半)。

戦前からエテルネア学術院経由で非公式の外交チャンネルを準備しており、敗戦時に王家から押し付けられた「全権委任」という毒杯を引き受けました。以来貫いてきた方針は「全て受け入れる。ただし実行は我々の手で」——この一行が、第一章のアストラードが辛うじて保っている主権の全てです。

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