第7話 王宮の影
国王の宣言は、事後報告だった。
その朝、宰相府に出仕したカイルは、オルデンの執務室で異様な空気を感じた。宰相オルデンが茶を淹れていない。急須と薬草の束が机の上に出されたまま、手をつけていない。
「宰相閣下。何か——」
「長兄殿下が、レガリオンの占領統治機関・監督府に直接出向いた」
カイルの足が止まった。
「昨夜のことだ。降伏条件の受諾を知った長兄殿下が——私を通さず、直接執政官アルマンに面会を申し入れた。王太子の身分で」
「何を——」
「国王の公式宣言を提案した。『王家は政治への関与を停止し、全権を宰相に委ねる』。降伏条件の受諾と同時に発表することで、レガリオンに対して交渉窓口が宰相に一本化されたことを明確にする——と」
オルデンの声は平坦だった。しかし顎が引かれている。不快のサイン。——いや、不快だけではない。
「執政官は——受け入れたのですか」
「受け入れた。合理的な提案だからだ。降伏条件を受諾した直後に、誰が実行の責任を負うかを明確にする。——タイミングとしては完璧だ。私も同じ提案をするつもりだった。あの男が——一晩早かった」
一晩早かった。その一晩で、セルヴァンはオルデンを飛び越え、レガリオンと直接話した。王太子の身分で。宰相府を通さず。
オルデンの全権委任は事実だが、国民に向けた公式発表はまだだった。セルヴァンはそこを突いた。「まだ公式発表されていないなら、王家が先に動いても問題ない」。形式上は正しい。しかし——宰相の頭越しに占領者と直接交渉したという事実が残る。
「宣言の文面は、既に長兄殿下が起草している。私に見せる必要はないと——そう伝えられた」
オルデンが茶碗を手に取った。空だった。冷めた茶すら入っていない。
「今日の昼に、王宮の大広間で宣言が行われる。我々は——出席する」
昼。王宮の大広間。
竜人の国アストラードの王宮は、首都ヴェルデンの尾根の最高点にある。灰褐色の高原石で積まれたアーチ天井。玉座には国王ヴェルディンが座っている。210歳。角は大きいが色が褪せ、灰色に近い。声は老いて震えていた。
「王家ヴァルドラークは、本日をもって政治への一切の関与を停止する。国の統治は宰相に委ねる。王家は国の象徴として存続し、民の安寧を祈るのみとする」
セルヴァンが起草した文面だ。「関与を停止する」であって「権利を放棄する」ではない。
カイルはオルデンの一歩後ろに立っていた。宰相の顎は引かれたままだった。この宣言は——セルヴァンが主導し、レガリオンが承認し、オルデンには事後報告されたものだ。全権を持つ宰相が、自分の全権に関する宣言を他人に先取りされた。
セルヴァンは玉座の横に立っていた。150歳の王太子。銀灰の長髪を結い上げ、美しい角が光を受けて輝いている。表情は穏やかだった。王家が政治の実権を手放した日なのに——影がない。
異変に気づいたのは、その日の夕方だった。
宰相府から王宮に戻ったカイルは、回廊でいつもと違う空気を感じた。使用人たちが足早に動いている。厨房から料理の匂いがする。——肉の焼ける香り、香辛料の匂い、果実酒の甘い気配。日常の食事ではない。
「リーネ」
回廊で末妹のリーネを見つけて声をかけた。
「何が起きている」
「兄上が宴を開くんだって。今夜。使用人さんたちが朝からずっと準備してた。——すごい人数が来るみたい」
「朝から?」
「うん。もっと前から準備してたって聞いた。招待の書状は数日前に出してたらしいよ」
数日前。——降伏条件が通告されるよりも前に、書状を出していた。つまりセルヴァンは、降伏条件の受諾と国王の宣言を見越して——先に宴の準備を始めていた。
夜が来た。
王宮の西棟——普段は使われていない客間が、灯りで満ちていた。
カイルは西棟に足を向けた。オルデンから「報告しろ」とは言われていないが——見なければならないと感じた。
客間の扉は開け放たれていた。中から音楽が聞こえる。竜人の弦楽器が低い旋律を奏でている。
部屋に入った瞬間、カイルの足が止まった。
客間だけではなかった。隣の間も、その奥の回廊も使われている。三つの部屋が繋がれて、一つの宴の場になっていた。
中央の客間に主卓がしつらえてあった。王家の食器——銀の皿、竜の浮き彫りの杯、魔素灯を仕込んだ燭台。料理が並んでいる。高原鹿の焼き肉、薬草で煮込んだ根菜、干し果実の酒。占領下でこれだけの食事を——王宮の蓄えを使っているのか。街では配給制限の噂が回っている、その同じ日に。
主卓に十数人。その周囲の部屋に——随行者や護衛が三十人近くはいた。レガリオン兵の護衛が廊下に立ち、コヴァルドの従者が隅の卓で食事を取り、マルカの商人の助手たちが荷物を整理している。王宮の使用人が料理を運び、酒を注いで回っている。——小さな外交会議の規模だった。
主卓の顔ぶれを、カイルは一人ずつ確認した。
人間の大国レガリオンから四人。正装に着替えている。レガリオンの占領統治機関・監督府の副官、軍政部門の幹部が一人——そして、若い男が一人。二十代後半。軍人の姿勢だが、肩の紋章が将校のものではない。レガリオン元老院の紋章だ。元老院議員の近親者。——政治中枢に繋がる人間がいる。
鉱人族の大国コヴァルドから二人。小柄で頑健な体つき。一人は戦後処理の会議で見かけた使節。もう一人は——使節より身なりが良い。上位の人間だ。
大陸東部の妖霊族の国エテルネアから一人。長身で細面。妖霊族を間近で見るのは初めてだった。耳が長く、肌が白い。学術院の関係者だろうか。
南部の港湾都市国家群・マルカ諸国から二人。獣人族。犬型の亜種らしい。耳が大きく、鼻先が長い。
そして——その中心に、セルヴァンがいた。
長兄は卓の上座ではなく、中ほどに座っていた。上座はレガリオンの副官に譲っている。しかしそれが卑屈に見えない。「対等な友人の中で、たまたまここに座った」という自然さがあった。
セルヴァンはレガリオン語で話していた。流暢だった。——趣味で覚えた言語だ。
「——それで、貴国の南方ではそういう風習があるのか。面白いな」
レガリオンの若い男——元老院議員の近親者が故郷の話をしていた。セルヴァンが身を乗り出して聞いている。目を見て。名前を呼んで。杯が空くと、自ら酒を注いだ。王太子が、占領者の青年に酒を注いでいる。
コヴァルドの上位の使節にも話しかけていた。「地下都市の鍛造技術には関心がある。王宮の装飾に使えないかと思っていてね」。鉱人族に「技術を見たい」と言うのは最高の褒め言葉だ。使節の硬い表情が少し緩んだ。
エテルネアの学者にも。「貴国の学術院には、竜人の古い時代の文献があると聞いた。もし可能であれば——」。妖霊族の学者は微かに首を傾げたが、不快そうではなかった。
マルカの商人にも。「南方の織物は素晴らしいと聞く。紹介してもらえないか」。商人の耳がぴくりと動いた。
セルヴァンは——全員を掴んでいた。
一人一人の名前を覚え、故郷に興味を示し、文化を褒め、杯を注ぐ。肩に手を置く。腕を取る。戦死した次兄レイグの癖に似ている——しかしレイグは親しみでやった。セルヴァンは——何のためにやっている?
カイルは物陰から見ていた。
降伏条件が通告された直後の国で。三兄イルヴァンが処刑されてまだ一年も経っていないのに。国王が「政治に関与しない」と宣言した——その日の夜に。国民が配給制限に怯えている——その同じ夜に。王太子が占領者と、敵対大国と、各国の要人と——笑っている。
しかしその笑いが本物に見えるのが、最も恐ろしかった。セルヴァンは演技をしていない。本当に楽しんでいる。人を集め、人を魅了し、人の中心にいることが——この男にとっては呼吸と同じなのだ。
セルヴァンがカイルに気づいた。
「末弟。来ていたのか」
穏やかな声。微笑み。卓の客たちがカイルに目を向けた。
「紹介しよう。末弟のカイルだ。宰相殿の下で働いている。——座れ。一杯飲んでいけ」
「……いえ。私は失礼します」
「そうか。残念だな」
セルヴァンの声には——本当に残念そうな響きがあった。怒りはない。失望もない。ただ「弟が一緒に遊んでくれない」という軽い寂しさ。
その軽さが——イルヴァンの白い角よりも重かった。
宰相府に走った。夜の坂道。
オルデンの執務室の扉を叩いた。報告した。客の顔ぶれを——一人一人、正確に。
元老院の紋章。コヴァルドの上位使節。エテルネアの学者。マルカの商人。
オルデンは報告を聞きながら——茶碗を机に置いた。ゆっくりと。音を立てないように。
「……招待の書状は、数日前に出されていたと言ったな」
「はい。使用人によれば、準備は宣言より前から——」
「降伏条件の通告より前に、だ」
沈黙。
「……あの男は、降伏条件がいつ通告されるか、内容が何であるか——事前に知っていたか」
カイルは答えられなかった。しかし——書状を出した時期から逆算すれば、各国の主要人物がこの日に王宮に集まるには、数週間の準備が要る。コヴァルドの使節は遠方から来なければならない。エテルネアの学者も。偶然ではない。
「あの男は——敗戦の直後から動いていた」
オルデンの目が閉じた。長い沈黙。
「私は降伏条件の文言を交渉し、精製技術者の名簿を作り、実行権を握った。——その間にあの男は、各国に書状を送り、個人的な繋がりを築き、宴の準備をしていた。私が国の骨格を守ろうとしている間に——あの男は自分の宮廷を作っていた」
目を開けた。金色の目に——カイルが見たことのない光があった。
「コヴァルドの上位使節がいたと言ったな」
「はい」
「元老院の近親者もいた」
「はい」
「レガリオンの政治中枢に近い人間と、コヴァルドの要人が、同じ卓にいる」
オルデンの声が低くなった。
「我々は今、レガリオンに対して『竜人は変わった。従順だ。危険はない』と見せている最中だ。降伏条件を全て受け入れたのも、そのためだ。——しかし王家がレガリオンの敵であるコヴァルドとも繋がっているように見えれば、レガリオンは『竜人はまだ信用できない』と判断する。占領が強化される。我々が飲んだ全ての屈辱が——無駄になる」
カイルの背筋が冷えた。
「しかもあの男は、それを——楽しんでやっている」
オルデンが立ち上がった。左手を背に回す。旧貴族の立ち姿。しかしその姿勢には——疲労が見えた。初めて見る疲労だった。
「封じる手段は——ない。あれは政治ではない。文化交流だ。王族が客を招いて食事をする権利を、私は奪えない。宣言で政治関与を停止させたが、身分は停止できない。王族は王族だ。その格が——私にはない」
薬草茶を淹れ始めた。ようやく。湯を沸かし、薬草を選び、急須に入れる。いつもの儀式。しかし手が——少しだけ遅かった。
「あの男を監視しろ。宴が開かれるたびに、誰が来て、何を話したか——記録しろ」
「……はい」
「カイル」
名前で呼ばれた。オルデンが名前で呼ぶのは珍しい。
「あの男は——お前の兄だ。しかし宰相府の人間として動く以上、兄弟の情で判断するな。あれは——脅威だ」
王宮に戻った。西棟からはまだ音楽が聞こえている。笑い声が回廊に響いていた。
自室の前に、リーネがいた。壁にもたれて立っている。
「カイル兄」
「……まだ起きていたのか」
「うん。——あの宴の音が、ここまで聞こえるから」
リーネの声に、明るさがなかった。袖の端を握っている。
「カイル兄。あの人の前にいると——笑えない」
「……うん」
「イルヴァン兄上が死んでから——あの人が楽しそうにしていると、怖い。なんでかは分からないけど」
カイルは分かっていた。リーネも感じ取っているのだ。セルヴァンの「楽しさ」の下にある空洞を。三兄の処刑からまだ一年も経っていないのに、心の底から宴を楽しめる人間の——空洞を。
「……俺もだ」
「あの人は——何を考えてるの?」
「……分からない」
嘘ではなかった。本当に分からない。あの微笑みの裏に何があるのか。国のことを考えているのか、自分のことしか考えていないのか。——分からないことが、一番怖かった。
リーネは黙って、カイルの隣に座った。冷めた煮出し湯を分け合った。
西棟の音楽が、遠くで鳴っていた。
【豆知識:高原の王宮】
アストラードの王宮は、高原の尾根の最高点に築かれた城塞都市ヴェルデンの中心です。尾根を降るごとに宰相府・官庁街が並ぶ上市街、市場と工房が並ぶ下市街、そして地脈の露頭「光の谷」へと階層が下がっていきます。
大広間は天井がアーチ状に高く、玉座は高原石を削り出した簡素な椅子で、背もたれには竜の浮き彫りが一つ。王宮が最も高く、監督府が最も低い——物理的な高さと政治的権力が逆転している構造が、占領の本質を象徴しています。




