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第74話 レガリオンの使者

朝、離れの扉をレオが叩いていた。


 「ラウル。三日目だ」


 中から返事はなかった。レオが扉を開けると、ラウルが机に突っ伏して眠っていた。帳面の上に左頬を乗せていた。紙にインクが薄く移っていた。鉛筆が指の間に挟まったままだった。


 レオはラウルの首の後ろに手を当てた。脈を探る手だった。獣人の指先が、皮膚の下の血の流れを読んだ。脈を確かめてから、「生きてる」と小さく呟いた。


 粥を枕元に置いて、毛布を肩にかけて、扉を閉めた。廊下に出てから、リーネとすれ違った。


 「ラウル、また——」


 「寝てる。粥は置いた。——起きたら食わせてくれ」


 リーネが頷いた。慣れた頷きだった。先日、下市街の組合支部で親和性テストに合格していた。今朝は実地慣熟の初日で、邸を出る支度の足音が廊下を遠ざかった。





 秋の朝、ケルヴェンが宰相府の執務室に入ってきた時、眼鏡の奥の目がいつもと違っていた。


 「閣下。レガリオン本国から正式な交渉使節が派遣されます。議題は、不完全独立の条件の再交渉です」


 カイルの手が、机の上の報告書の端で止まった。


 「いつ」


 「半月後です。元老院の議決を経ています。使節の名は、ヴァイス。アルマン殿と同じような軍官ではありません。元老院直属の外交局の者です。——つまり、これは占領期の事務処理の延長ではなく、本国の政治判断です」


 カイルは報告書を脇に押しやった。


 向こうから来た。——その四文字が、朝の執務室の空気を一度だけ変えた。





 半月後。秋の深まった朝に、宰相府の正門の前に馬車が二台止まった。


 先頭の馬車から降りたのは、四十代半ばの男だった。人間族。背が高く、顔が細く、目が硬かった。灰色の正装が、アストラードの石造りの壁と同じ色をしていた。——アルマンとは違う世代の男だった。アルマンは占領者の自信と疲労を同時に纏っていたが、この男の顔には、どちらもなかった。代わりに、計算が乗っていた。


 「アストラード宰相府を訪問できる光栄に感謝いたします。元老院外交局のヴァイスです」


 声は低く、丁寧で、一語ごとに間が置かれていた。外交官の声だった。


 カイルは正門の前に立って迎えた。ケルヴェンが半歩後ろに控えていた。


 「ようこそ。——宰相のカイルです」


 手を差し出した。ヴァイスの手は冷たかった。馬車の中で冷えたのか、それとも手がもともと冷たい男なのか、握手の一瞬では判断できなかった。





 応接室に通した。


 テーブルを挟んで、カイルとケルヴェンが片側に、ヴァイスと随行の書記官二人がもう片側に座った。茶が運ばれた。ヴァイスは茶碗を両手で包んだ。その仕草が一瞬、ヴァレンの茶碗実演を思い出させたが、ヴァイスの手には魔素はなかった。人間族の手だった。


 「議題を確認させてください」


 ヴァイスが薄い冊子を開いた。冊子の表紙にはレガリオン元老院の紋章が押されていた。


 「一つ。地脈の共同安全管理委員会の扱い」


 「二つ。残留軍事基地の問題」


 「三つ。軍事同盟の再定義」


 三つの議題を、ヴァイスは事務的に読み上げた。事務的であることが、この会談の性質を示していた。——感情の交渉ではない。条件の交渉。


 カイルは頷いた。三つの議題は、全て、カイルがケルヴェンと二年かけて準備してきた項目だった。——向こうが持ってきた議題が、こちらの要求と一致している。それは偶然ではない。


 「三つとも、当方の立場は明確です。——管理委員会の解消。基地の完全撤収。同盟の解消」


 ヴァイスの筆が、冊子の余白に何かを書いた。書いた内容はカイルには見えなかった。


 「宰相殿。元老院としては、三つの全てを即座に受け入れる用意があるとは申し上げられません。しかし——」


 ヴァイスの目が、一度だけ、カイルの顔を正面から見た。計算の目だった。


 「——交渉する用意がある、ということは、お伝えできます」





 会談は一の刻で終わった。ヴァイスは馬車に戻り、宰相府の門を出た。門の外で、使節団の護衛兵がアストラードの石畳の上で待っていた。人間族の兵士が、竜人族の国の石畳の上に立っている。十年前なら、その構図は占領を意味していた。今日は、来訪を意味していた。





 午後、ロランが執務室に来た。


 「閣下。完全撤退が成立した場合の経済効果の試算を持ってきました」


 ロランの帳面には、三つの数字が並んでいた。管理委員会の維持費の削減額。基地の接収地の返還による農地面積の増加。同盟義務費の削減額。


 「三つ合わせると、年間の国家予算の約一割に相当します。——この一割が自由に使えるようになれば、学院の拡充、研究機関の増員、魔素配給権の実質化の全てが、五年ではなく三年で可能になります」


 カイルは三つの数字を見た。数字はまだ仮の数字だった。交渉が成立しなければ、紙の上の数字のままだった。——しかし、仮の数字が紙に書けるようになったということ自体が、四年前にはなかったことだった。





 夕方、ルッツが短い報告を一行だけ添えた。


 「ヴァレン殿に連絡しました。技術移転範囲の最終確認について、来週、研究機関で閣下とヴァレン殿とラウル殿の三者で協議する場を設けます。——同じ日に、感応式鍵の試作が始まります。先日ラウル殿がヴァレン殿に直接ご提案された構想を、ヴァレン殿が正式にお引き受けになりました。手稿の『物は持ち主の手の影を留む』の物理化です」


 カイルは頷いた。何を渡し、何を渡さないか。——その線引きが、次の話の全てだった。手稿の四行のうち一つが、今日から工房の中で形になり始める。


 ルッツがもう一行添えた。


 「地脈調査官と精製所連合の合議も、冬の間に月一回の定例で進んでいます。採掘量の上限を誰がどう決めるか、両者の印をどう合わせるか——まだ結論は出ていません」





 夜、ケルヴェンが書斎に来た。宰相府ではなく、アルブレヒト邸の書斎だった。ケルヴェンが邸に来るのは珍しかった。


 「日中は言えなかったことがあります」


 ケルヴェンは椅子に座らなかった。立ったまま、眼鏡を一度だけ外して拭き、かけ直した。


 「レガリオン本国では、親竜人派と強硬派の対立が深まっています。今回の使節は親竜人派の主導によるものです。——しかし、強硬派は別の方針を持っています」


 「別の方針とは」


 「今のところ、具体的な動きはありません。しかし、親竜人派が交渉に出てきた理由の一つは、『今のうちに妥結しなければ、強硬派に主導権を取られる』という焦りです」


 カイルは窓の外を一度だけ見た。千年の木の葉が、秋の夜の風で少しずつ落ちていた。


 「つまり、向こうも急いでいる」


 「はい。——向こうが焦っているのは、我々が十分に強くなりすぎたからです。強くなった相手と交渉できるうちに交渉しておきたい、というのが親竜人派の論理です。強硬派の論理は逆で、『強くなった相手は叩くべきだ』になります」


 ケルヴェンの声は低く短かった。三兄イルヴァンと同じ種類の静けさだった。


 「今が交渉の好機です、閣下。——窓は、いつまでも開いていません」





 ケルヴェンが帰った後、カイルは書斎で一人になった。


 机の上に、ヴァイスの三つの議題と、ロランの三つの数字と、ケルヴェンの「窓は開いていない」の一言が、三つの層として重なっていた。


 向こうから来た。——向こうが急いでいる。——窓は閉まる。


 四年前、オルデンが「三つの宿題」を渡した時、完全独立は最も遠い宿題に見えた。技術立国は手の中で動き始めていた。制度化は紙の上で動き始めていた。だが完全独立だけは、相手のいる話だった。


 今日、相手が来た。相手が急いでいる。——ならば、今だ。


 カイルは紙を一枚引き寄せて、三つの議題を自分の手で書き直した。「管理委員会——解消」「基地——完全撤収」「同盟——解消」。三つの横に、もう一列、自分の言葉を書き足した。「代わりに何を出すか」。


 その列はまだ空白だった。空白を埋めるのは、来週の三者の議論だった。


 窓の外の秋の風が、書斎の紙を一枚だけ揺らした。

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