第73話 権利の形
初秋の朝、カイルはロランと一緒に下市街の南の一角を歩いていた。
半年前に開かれた共同工房の第一支部だった。形成術師組合が国の予算で建物を整備し、夏から試験運用を始めた場所だった。
石造りの二階建ての前に、待ち行列があった。
行列の中ほどに、子を連れた母親がいた。前に老人が数人、杖をついて立っていた。列の後ろに、壊れた鍋を抱えた女性と、布団の綻びた袋を持った男がいた。——朝の早い時間で、列はすでに二十人を超えていた。
工房の中では、形成術師が二人、順番に民衆を捌いていた。壁の補修の依頼、浄化石の再活性、鍋の再形成、布団の形成。どの作業も淡々と進んでいた。
「表面的には、動いているな」
カイルが小声で言った。
「動いてはいます」
ロランが返した。その言葉の後ろに、何かが続きそうだったが、ロランは続けなかった。——続けるよりも、見せたほうが早い、という顔だった。
工房の外の広場の片隅で、リーネが子供たちに絵本を読んでいた。
子供を待つ母親たちが一緒に聞いていた。今朝、カイルが邸を出る時、リーネは「下市街で読み聞かせがあるの、今日は共同工房の前」と言っていた。
絵本を読み終えたリーネが、カイルとロランに気付いて歩み寄ってきた。
「カイル兄、ちょうどよかった。——さっき聞いた話、いくつかあるの」
リーネは絵本の裏表紙を開いた。裏に鉛筆で短く書き留めた声が並んでいた。
「工房は週に一度しか開かない。——先週、娘が熱を出した夜、薬代わりに治癒具の再活性を頼みに来たけど、工房が閉まっていた。翌日の朝には熱は下がっていたけど、もし下がっていなかったら、と思う」
リーネが次の行を指で押さえた。
「うちの村は、ここまで馬で一刻かかる。月に一度、組合の巡回員が来るけど、天気が悪い日は来ない。素材の魔素だけは届くんだけど、形成してくれる人がいないから、倉庫に溜まっている」
カイルはその一行を、体の中に一度だけ落とした。——倉庫に溜まっている素材魔素。権利としては届いているが、物の形になっていない。
リーネが絵本を閉じた。絵本の表紙を指の腹で軽くなぞった。
「——待つだけなのよね、今は。自分でやれたらいいのに、って言ってた母親もいた。カイル兄、そういう道って、ないのかな」
昼過ぎ、カイルとロランは馬でヴェルデン西の農村に向かった。
村の名前はレンベルク。下市街から馬で一刻、街道を外れて谷を一つ越えた場所にある、人口三百人ほどの小さな村だった。地脈から遠く、形成術師組合の支部はなかった。
村長が村の倉庫にカイルを案内した。
倉庫の中に、準物質相魔素を封じた瓶が、二十本ほど積まれていた。
「今月の配給分です。——先週届きました」
村長の声は、淡々としていた。
「巡回員は」
「月に一度、秋の雨が降る前に来てくれます。今月は、再来週です。——それまで、この瓶は、ここで待ちます」
カイルは瓶の一本を手に取った。精製済みの準物質相魔素だった。形成の元になる素材。——ただの素材では、火も水も光も、まだなかった。
「——権利としては、届いているんだが」
村長は頷いた。
「閣下、私たちは『配給権』という言葉を、書類では受け取っております。ただ、権利が物の形になるまで、三週間ほど待つ、という形で生きております」
夕方、宰相府の執務室にメルケンが来た。
カイルがその日の視察の内容をロランから聞かせた上で、メルケンに現状の分析を求めた。メルケンは帳面を開いた。細かい字で、組合の支部数、形成術師の人数、親和性テストの受験者数が並んでいた。
「閣下。形成術師組合の地方支部は、現在、都市部に七つ。農村地帯には、まだ一つもございません。支部の整備は、組合自身の拡大事業ですが、記録石の供給量と、現場の認定員の余剰人員に縛られております」
「記録石の供給は」
「ルッツ殿の試算では、来年度、組合向けに回せる記録石は二百本前後。既存組合員の更新と、新規加入者の配布を合わせると、地方支部の整備には足りません。——支部を一つ開くのに、最低限の初期在庫として三十本要ります」
ロランが脇から数字を補足した。
「支部を地方に七つ増やすのに、三年から五年。その間、地方の配給権は、巡回員による対応に縛られます」
カイルの指が、机の上で一度だけ止まった。——三年から五年。その間、権利と現実の間の空白が、毎日、積み上がる。
「——閣下。一つ、提案がございます」
メルケンが帳面の頁を繰った。
「形成術師の免許制度を、法で整備する形です。組合の認定を、国が法の形で追認する。本位制の二層構造と、同じ形です」
メルケンが帳面を指で押さえた。
「——幸い、免許の取得は早うございます。親和性さえあれば、記録石一個と、数日から数週間の実地慣熟で取れます。二ヶ月の徒弟修業に相当する分は、記録石が代わりに担ってくれる。仕上げは手を動かす慣れだけで足りる。——この短さが、もう一つの側面を可能にします」
カイルが目を上げた。
「組合に正式加入する者と、免許だけ取る者を、分けます」
「——分ける、とは」
「商人ギルドに、同じような者がございます。ギルドに加入して仕事の取次を受ける正規商人と、ギルドの免許だけ取って自分の商売で使う者。後者は数は少ないですが、存在します。——形成術師も、同じ形が組めます。組合に加入して仕事の取次を受ける職業者と、免許だけ取って自分の家の用に使う者」
ロランの筆が、帳面の上で一瞬止まった。
メルケンが続けた。
「職業としての形成師が地方に行き渡るのに三年かかるとしても、——家の用の免許を取る者は、地方の村にも、一人か二人、出てくるかもしれません。その一人が村にいれば、倉庫に溜まった素材魔素を、自分の家の分だけは形にできます。隣の家の分も、近所のよしみで、多少は」
カイルの手が、机の上で止まった。
——権利は、上から届けるだけではない。下からも伸びる。
その認識が、カイルの体の中に、一度だけ落ちた。
配給権の空洞を埋めるのが、組合支部の展開速度だけだと思っていた。上から整備する速度の問題だと思っていた。——しかし、免許を一般の民衆が取る形を作れば、下から補完する手段が生まれる。完全ではない。職業としての形成師の代わりにはならない。けれど、倉庫の素材が毎月の雨を待たずに済む。
カイルはロランの方を見た。
「二層の免許制度を、次の調印式で法的に追認する。——春の調印の時に、四本柱に加えて、形成術師免許制度を入れる」
ロランが頷いた。
「地方支部の整備予算も、組合の拡大支援として計上します。三年計画で、農村地帯に七つ」
「巡回員の派遣頻度も上げる。——当面、月一を月二に」
メルケンが短く頷いた。
「組合の側でも、巡回員の人員を増やします。ただ、組合員の報酬体系を調整する必要がございます。巡回は割に合わない仕事ですので」
「その調整も、ロランに試算させる」
カイルは、机の上に新しい紙を引き寄せた。上辺に「形成術師免許制度」と書き、その下に三行を並べた。
第一層。組合による認定——親和性テスト、記録石配布、実地訓練、認定試験。
第二層。国家による追認——法で組合認定を認め、配給権の受け皿として正式化。
第三層。組合員(職業)と一般免許保持者(家庭用)の区別——どちらも同じ免許、運用が違う。
紙の末尾に、小さく一行を書き足した。——「権利は、下からも伸びる」。
日暮れ近く、下市街の代書屋に、ロランが宰相府からの伝言を持って寄った。夕方の会議で決まった形成術師免許制度の骨格と、民衆向け説明書に加えてほしい一節を、ミレナに渡すためだった。
「——組合の認定を国が追認する二層構造。それから、組合員として職業にする道と、一般の民が家庭用に免許だけ取る道。後者が配給権の空白を部分的に埋めると、閣下は仰っておりました」
ミレナは覚書を受け取って、一度通読した。通読してから、丸メガネの縁を指で直した。
「家庭用、ね。——それは、下市街の民衆にとっては、話が近くなる」
「そうです。組合員の道は、職を変える決断が要ります。家庭用なら、今の仕事を続けながら、取れます。——記録石で技能が入りますので、実地の慣熟は数日から数週間で済みます。週末だけの通いでも、ひと月ほどで届く」
ロランは覚書を置いて帰っていった。
ミレナが机に戻った時、代書屋の扉が軽く叩かれた。リーネだった。夕方の下市街の読み聞かせの帰り道で、立ち寄った。絵本の束を腕に抱えていた。
「ミレナ姉、今いい?」
「いる。——ちょうどいい時に来た。これ、読んでみて」
ミレナは机の上のロランの覚書をリーネの前に置いた。
リーネは腰を下ろしながら覚書を読んだ。読みながら、目が一度だけ、ある一行の上で止まった。
「——家庭用、って、あるの」
「ある、ことになる。春の調印で法の形で追認される予定だって、閣下の決定」
リーネは覚書をもう一度最初から読み直した。読み直してから、絵本を膝の上に置いた。
「——ミレナ姉。わたし、親和性テスト受けてこようかな」
ミレナが、筆を持ちかけた手を止めた。
「何のために」
「邸の壁の、西の離れの方、去年から少し傷んでるでしょ。ああいうの、自分で直せたら——って、朝、工房の前で話してたお母さんの声を聞いて、ちょっと思ってたの。家庭用の道がある、って今読んで、——待つほうじゃなくて、使うほうに回れるかも、と」
ミレナは丸メガネの奥で、一度だけ目を細くした。代書屋の目ではなかった。家の妹を見ている目でもなかった。今朝の工房の前で、絵本の裏表紙に声を書き留めていた妹が、夕方の紙の上の一行を見て、自分で何かを作ろうとしている、と受け取った目だった。
「——いいんじゃない」
ミレナはそれだけ言って、筆を取り直した。
筆を取り直してから、下書きの上に新しい一行を書き加えた。——「この権利は、受け取るだけの権利ではなく、形にする権利である」。
リーネはその一行を覗き込んだ。覗き込んでから、絵本の裏表紙に、自分の字で、別の一行を書き足した。
「——次の絵本、この話にする」
夜、アルブレヒト邸の書斎で、カイルは今日の記録を書いていた。
机の上に、三つの紙が並んでいた。一つ目は、下市街の共同工房の待ち行列の人数と滞留時間の集計。二つ目は、レンベルク村の倉庫に積まれた瓶の数。三つ目は、メルケンが残した「形成術師免許制度」の三層の覚書。
カイルは三つ目の紙の余白に、一行だけ書き足した。
「配給権は、権利と現実の間で、毎日調整される」
書いてから、もう一行書き足した。
「調整は、上からも、下からも、起きる」
書斎の扉が、軽く叩かれた。
「カイル兄、ちょっと」
リーネだった。手に絵本の束を抱えていた。
「明日、組合で親和性テスト受けてくる。ミレナ姉から組合の支部の場所、聞いてきた」
カイルは顔を上げた。
「——免許か」
「邸の日曜大工用。西の離れの壁、自分で直したいの」
カイルは、口の端で一度だけ笑った。
「邸の日曜大工の形成師か」
「そう」
「——いい。行ってこい」
リーネが頷いた。頷いてから、扉を閉めずに、半歩戻って付け加えた。
「ついでに、下市街の子たちにも見せるの。『リーネ姉ちゃんもできるなら、あたしもできるかな』——ってなれば、下からも伸びるでしょ」
その一言は、リーネの口から出た言葉だったが、カイルが机の上に書いた「下からも起きる」と、同じ形をしていた。
リーネは扉を閉めて出ていった。
カイルは一度だけ窓の外を見た。秋の夜の空気の中で、下市街の方角に、共同工房の灯が一つだけ見えた。——朝、待ち行列が並んでいた工房の、まだ消えない灯。
権利は、上から届く。下からも伸びる。両方で初めて、形になる。
カイルは蝋燭を吹き消した。
【豆知識:代書屋という、街と役所のあいだの職業】
ミレナの仕事「代書屋」は、戦前のアストラードでは王宮の書記とは別系統の、街の側に根を張った職業です。識字率が低い時代から続く実務で、識字率が上がった後も「**法律の言葉と民衆の言葉を翻訳する仕事**」として残り続けてきました。
役所が出す通達を市場の女将に読み聞かせ、村の代表者の口述を法的に通用する文章に直す——両側の言葉を行き来できる人間が、街には常に数十人単位で必要だったのです。
ミレナがアルブレヒト邸唯一の生き残りでありながら、代書屋という地味な職業を続けていたこと自体が、戦後の下市街がぎりぎりで保ってきた**自治の薄い層**を支えていました。それが第三章で、宰相府の机と繋がり始めます。




