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第67話 二つの親和性

春の朝、研究機関の二階に上がると、ヴァレンが壁に紙を貼っていた。


 紙は三枚あった。一枚目は、秋にカイルに見せた三供給経路の図——地脈から民の手へ伸びる三本の枝。二枚目は、四行使モードの表——直接行使、形成術、魔素操作、自律製品。三枚目が新しかった。


 三枚目には、縦に二本の線が引かれていた。左の線の上に「発動系」、右の線の上に「受容系」と書かれていた。二本の線の間には何も描かれていなかった。ただ、間が広く空けてあった。


 「カイル殿。少し、座っていただけますか」


 ヴァレンの声は、いつもより低かった。低い声を出す時のヴァレンは、考えがまとまった時だった。


 カイルは壁際の椅子に腰を下ろした。研究機関の二階は、開設から三年が経って、紙の匂いが壁に染みついていた。ラウルの机は今朝も空だった——レオが邸に留めている日が増えていた。





 ヴァレンは壁に貼った三枚目の紙の前に立った。


 「昨年の秋、供給経路をお見せしました。αとβが竜人固有で、γが種族不問だと。——あれは『魔素がどこから来るか』の話でした」


 カイルは頷いた。


 「今日は、もう一つの軸をお見せします。『魔素を使う側の人間に、何が要るか』の話です」


 ヴァレンは左の線——「発動系」の下に、小さく書き足した。


 「発動系親和性。これは、αとβの経路を使う時に必要な能力です。地脈から直接引くか、体内に蓄えた魔素を引き出すか。いずれも、自分の側から魔素を動かす力です。——私が茶碗を変えて見せたのは、これです」


 ヴァレンの手が、二年前にカイルの前で湯呑みを花に変えた時と同じ形に、一瞬だけなった。すぐに戻った。


 「発動系は、竜人族が圧倒的に高い。他の種族は、ほぼ持っていません。——これは角の構造と身体の蓄積容量で決まります。訓練で精度は上がりますが、器の大きさそのものは血に依ります」


 カイルは、その言葉の輪郭を頭の中で撫でた。竜牙衛の戦闘魔法。神官の直接治癒。ヴァレンの茶碗。——全て、竜人の発動系に依存していた。戦前の「竜人は特別」という物語の、物理的な根拠がここにあった。


 「では」とヴァレンは右の線に手を移した。「受容系親和性。これは全く別の能力です」





 ヴァレンは右の線——「受容系」の下に、ゆっくりと文字を並べた。


 「外から来る魔素を受け取って、定着させる力です。形成炉の操作。図面の読解。記録石を受け取った時に、中の技能をどれだけ速く吸収できるか。——全て、ここに属します」


 カイルの目が、その文字列の中の一語に止まった。「記録石」。


 「形成能力——私たちが工房で若い者たちに教えている全ての実務技能は、この受容系の上に乗っています。発動系とは独立した、全く別の能力です」


 ヴァレンは眼鏡の奥の目をカイルに向けた。


 「カイル殿。これは、私が五十年間、手で知っていたことです。ただ、言葉にしたことがなかった。——秋に閣下が書かれた四つの働きの紙を、私は持ち帰って、冬の間、何度も眺めました。何度目かに、一つ気づいたのです。閣下があの紙を書けたのなら、私も、自分が手で知っていることを紙に書けるはずだと。書いてみると、書けました。——書いたことがなかっただけでした」


 ヴァレンの声は、責めの声ではなかった。自分自身の五十年の職人仕事の外側に、初めて立ったことを静かに確かめる声だった。


 カイルは黙って聞いていた。二本の線の間の広い空白が、何のために空けてあるのかが、まだ分からなかった。


 「受容系には、種族の順位があります」


 ヴァレンの手が、右の線の横に、上から順に種族の名を書いた。


 最初に書かれた名前を見た時、カイルの手が机の上で止まった。


 ——魔人族。





 「受容系親和性は、魔人族が最も高い」


 ヴァレンの声は低いまま、変わらなかった。


 「次いで妖霊族。その下が竜人族です。鉱人・獣人が続き、人間族が最も低い。——ただし、これは学習速度の話です。壁ではありません」


 カイルは呼吸が浅くなっているのに気づいた。目がヴァレンの書いた順位の一行目に吸い寄せられたまま、動かなかった。


 左の親指が、薬指の付け根を擦っていた。


 擦っていることに気づくのに、数秒かかった。気づいた時、指はまだ動いていた。


 魔人族。——下市街の奥の通りで、竜人より低い賃金で、竜人が嫌がる仕事をしている者たち。占領期には竜人よりさらに下に置かれ、独立後も社会の中で最も遠い場所にいる者たち。


 その種族が、形成能力の学習速度では、全種族の中で最も高い。


 カイルの体の中で、何かが裏返った。裏返ったものが何なのか、すぐには分からなかった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと冷たい何かだった。——戦前の世界が前提にしていたものが、紙の上の二本の線の間で、静かに崩れていた。


 崩れていたのは、戦前だけではなかった。


 昨年の秋、冬の初めにかけて、カイルはルッツと何度も議論した。「αとβの技術は輸出しない、γだけ出す」という線引きを、自分の手で決めた。根拠の中心は「αとβが竜人族の身体に依存する技術だから」だった。身体の特殊性を守る。その盾の上に政策が立っていた。


 今朝、盾の形が変わった。αとβが竜人の身体に依存することは崩れない——そこは物理の話だ。しかし「だから竜人が特別だ」という盾は、受容系の順位表の前では、もう真直ぐに立たなかった。受容系の能力では、我々は三番目だった。一番目と二番目の種族が、この国の外と内にいた。


 引いた線そのものは、今日、引き直す必要はないのかもしれない。αとβを出さない決定は、物理的な事実の上に立っている。結論は変わらない可能性が高い。——しかし、結論を支えていた根拠の半分が、今朝、別の根拠に差し替えられる必要があることだけは分かった。カイルが昨秋に頼りにしていた「竜人の特殊性」は、今朝見た範囲では、盾として薄い。別の形の盾がどこかに必要になる。


 それが何の形をしているか、今朝の時点では見えなかった。見えないまま、カイルは一つの事実だけを体の中に置いた。——昨秋、自分は自分に見えていたものだけで線を引いた。見えていなかったものは、当然、線の外にあった。見えていなかったものを、後から見た時、線が正しかったかどうかは、もう一度、別の手で確かめる必要がある。


 「ヴァレン殿」


 声が低かった。自分でも聞き慣れない低さだった。


 「これは——記録石を最も速く吸収できるのが魔人族だ、ということですか」


 「そうです。形成炉の操作も、図面の読解も。受容系が高いほど、同じ訓練で到達する速度が速い。——戦前に血統と呼ばれていたものの大半は、発動系の話でした。形成の仕事は、発動系とは関係がなかった」


 カイルは、左手を机の下に下ろした。指がまだ震えに近いものを帯びていた。震えではなかった。体が、頭より先に、何かを受け取っている感触だった。





 ヴァレンは二本の線の間の空白を指した。


 「ここが空いているのは、将来のためです。発動系と受容系は独立していますが、一人の中に両方が高い者がいれば、いずれ、この二つを組み合わせた何かが生まれるかもしれない。——今はまだ白紙ですが、紙は貼っておきます」


 カイルは空白を見た。二軸が独立しているということは、交差する可能性があるということだった。





 一階に降りた。


 ヴァレンが壁際に据えられた形成炉の前にカイルを連れていった。


 形成炉は、カイルが見慣れたものとは少し違っていた。炉の側面に、薄い板が差し込まれる溝がついていた。


 「これが規格化形成炉です。——そして、これを御覧ください」


 ヴァレンが脇の棚から一枚の薄板を取り出した。掌より少し大きく、表面に細かな線が走っていた。


 「形成図と呼びます。製品を作る時の四工程の手順と、魔素の流れの設計を、情報相として薄板に刻んだものです。これまで形成術師が頭の中で保持してきた『意図』を、初めて紙のように外側に写しました。この溝に差し込めば、受容系の訓練を受けた者が手順に従うだけで、同じ品質の製品が何百個でも作れます」


 ルッツが階段を降りてきた。いつ来ていたのか分からなかった。手に帳面を持っていた。


 「閣下。これが魔素部品産業の基盤になります。異なる工房の部品が組み合わせ可能になる」


 カイルは規格化形成炉の溝に手を触れた。溝は滑らかで、指先に冷たい金属の感触が残った。この溝に形成図を差し込めば、職人の勘ではなく、国が定めた標準が製品を作る。工房ごとの差が消える。


 手を触れたまま、二階で見た順位表が頭の中に戻ってきた。この炉を動かすのに必要なのは、受容系の能力だ。受容系が最も高いのは、魔人族だ。——この炉の前に、魔人族の若者が立つ日が来る。


 その像が頭に浮かんだ時、カイルは自分の指が炉の溝から離れていることに気づいた。いつ離したのか、分からなかった。





 昼過ぎ、宰相府に戻った。


 ロランが執務室で待っていた。机の上に帳面が開かれていた。


 ロランが帳面を開いた。冬の交渉卓で合意した各国との輸出の、春までの実施状況がまとめられていた。——浄化石は、コヴァルドの鉱山都市で予想以上の数が動いている。単価は安いが、出荷数が伸びている。温度固定箱は、マルカの港湾への百単位の定期便の態勢ができた。流通網と組み合わせた時の価値がようやく見え始めている。成長畑具は、エテルネアとの知識交換の枠組みで進んでいる、単価のつかない別の価値。記録石は、三ヶ国に出した五十枚ずつが、それぞれの手の中で使われ始めている——これは単価の問題ではなく、波及の問題。


 帳面の最後の行に、ロランは新しい品目を書き加えていた。


 「規格化形成炉。——今朝、閣下に判断を仰ぎたい案件です」


 ロランは帳面から目を上げた。


 「炉を出せば、相手国が自前で量産を始めます。我々の製品輸出は減ります。——ただし、形成図の薄板は我々だけが設計できます。炉は器です。中身を作り続ける限り、価値は我々の側にある」


 カイルは頷いた。「各国別の整理は」


 「出来ています」


 ロランがもう一枚を引き出した。コヴァルド、マルカ、エテルネア、そしてレガリオン——四ヶ国の名が、品目と交差する格子になっていた。コヴァルドには浄化石と保存具に丸がつき、規格化形成炉に三角がついていた。マルカには温度固定箱と熟成具に丸。エテルネアには「知識交換」の欄だけがあった。レガリオンの列には「春以降」とだけ書かれていた。


 「三角は検討中です。炉を出すかどうかは、各国ごとに判断が要ります」


 カイルは格子の上を指で辿った。——この格子の全ての品目を動かすのに必要なのは、受容系の能力だった。今朝、ヴァレンが壁に貼った二本の線の、右側の線。





 夜、アルブレヒト邸の書斎で、カイルは紙の余白に、一行だけ書いた。


 「学院は、受容系の訓練の場である。」


 ペンを止めた。この一行だけでは足りない、と分かっていた。秋に研究機関を立てた時、カイルは三つの機能を紙に書いた。ヴァレン級の筋の継承。ラウル級の発掘。魔素の学問化。——この三つは、いずれ学院にも引き継がれる。学院は、受容系の訓練だけを行う場ではなかった。


 紙の余白にもう一行、書き足した。


 「——そして、設計の芽を見つける場でもある。」


 受容系は、今朝の順位表が示した通り、種族によって学習速度が違う能力だった。血統の区別ではなく、訓練で伸びる。——一方、ラウルの側の能力は、まだ訓練の方法すら分かっていなかった。ラウル自身、なぜ自分があの手筋を組めるのか、言葉にできない。研究機関の奥で、ヴァレンがラウルの独学の過程を少しずつ分解しようとしている。分解の先に、いつか「設計を育てる科目」ができるかもしれない。今はまだ、ラウル一人がこの国の設計能力を担っていた。


 書いた二行を見下ろした。上の一行は、今朝の二本の線から直接出てきた結論だった。下の一行は、二年前の研究機関の紙の余白に書いた「学校」の一語が、今夜、形を持ち始めた結論だった。——二つの違う日から、一つの紙の上で、二本の線が合流していた。


 ペンを置いた。もう一行、書こうとした。書こうとした言葉は「血統を問わない」だった。だが、ペンは動かなかった。——「問わない」のではなかった。問う必要がないのだ。問う必要がないことを、今朝の紙の上の二本の線が、物理的に証明した。


 紙の端に、昼間に宰相府の机の上で見た別の束の重さが、指の奥に残っていた。明朝の机の右端には、また新しい封筒が積まれる。北の国境の名前は、今朝の二本の線とは別の種類の数字だった。しかし、性質の違う数字を同じ一つの机の上に並べて置くのが、今日からの自分の仕事だった。今日は、その一日の一つに過ぎなかった。





 廊下を通る時、離れの方角の明かりが目に入った。


 レオの部屋だった。普段この時刻のレオは、既に庭の型稽古を終えて寝ている。今夜は机に向かっていた。扉の隙間から、紙を繰る音と、筆を一度止めて考える呼吸が聞こえていた。


 カイルは立ち止まった。離れから一歩下がって、扉の隙間を確かめた。


 レオの机の上に、帳面が一冊、開かれていた。表紙のない薄い帳面だった。筆の跡は丁寧だった。カイルには内容までは見えなかったが、文字ではなく、体の図と、その周りに細かい線が引かれているようだった。——武術の型か、医術の処置か、どちらかの図だった。


 扉の隙間から、レオが振り返った。いつ気配を捉えたのか、分からなかった。


 「お帰り、カイル」


 「それは、何だ」


 「秘伝書。——まだ何も書いてないに近いけどな」


 レオの声は、昼間の廊下で患者に掛ける時の明るさとは違っていた。夜の机に向かう声だった。


 「工房街の治癒具が、先月から下市街の診療所にも置かれ始めた。うちの患者も、ちらほら、そっちに行き始めている。——別に止める気はない。治癒具で治る程度の傷なら、治癒具の方が早い」


 「お前の仕事が減る」


 「減らねえよ」


 レオは筆を置いた。


 「治癒具で治らない者が、来る。——魔素を体に入れると目眩が出る、という者がいた。先月、下市街の路地で倒れた女。工房の治癒具では震えが止まらなかった。俺が薬草と温石で診た。治るまで十日かかったが、治った。魔素が効く体と、効かない体がある。効く体の者の取り合いが治癒具で済むようになれば、残るのは、効かない体の者だ」


 レオの目が、机の上の図を一度だけ見下ろした。


 「俺が見た体の使い方を、紙に残しておく。——今夜、書き始めただけだ。先は長い。書き終わる前に、俺は死ぬかもしれない。それでも、書いた分は残る。魔素を使わない医術の手順が、紙の上に残る」


 カイルは何も言わなかった。


 レオはいつもの太い声に戻った。


 「それと、ラウル。あいつ、昨夜も離れで机に突っ伏して寝ていた。明日、朝一でもう一度脈を見に行く。——あいつの体は、あいつが思っているより、持ちが悪い」


 「頼む」


 「医者の仕事だ。頼まれなくても見る」


 レオは筆を取り直した。話は終わり、という合図だった。


 カイルは扉の隙間から離れた。廊下の石の上に、一歩だけ足音を置き直した。——家の中に、それぞれの紙がある。書斎の紙。離れの帳面。そして、この邸に居続ける限り、書かれ続ける紙がある。今夜の自分の紙は、政策の言葉で書かれていた。レオの紙は、体の言葉で書かれていた。どちらも、書き終わる日が来るかどうかは、書いている本人にも分からなかった。


 窓の外で、春の風が千年の木の若葉を揺らしていた。葉が冬の裸枝から芽吹いて、まだ薄い緑だった。

【豆知識:魔人族から見た「逆転」】


親和性が二軸に分解されたことで、最も大きな衝撃を受けたのは魔人族そのものです。

大陸の歴史の中で、魔人族は「魔素をうまく扱えない少数派」と長らく見なされてきました。彼らの魔素との関わり方が、外から流れてくる魔素を**受け取り定着させる**形——感応型の受容系——だったため、戦闘や直接行使を尺度にした評価では常に下位に置かれていたのです。

受容系が「形成炉・記録石・造形サービス」の領域だと整理された瞬間、評価軸は逆転しました。社会の最下位と見なされてきた種族が、最も高い形成才能を持つ——血統で固まっていた大陸の自己像が、この一枚の紙でゆっくりと書き換わり始めます。

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