第68話 夜の書斎
夏の夕暮れ、アルブレヒト邸の食堂。
「カイル兄、遅い」
リーネが盆を抱えて食堂に入ってきた時、カイルはまだ玄関で靴を脱いでいる途中だった。
「今日は全員揃う日だから。逃げられないよ」
「逃げようとしていない」
「顔に出てる」
食堂に入ると、レオが椅子の背を後ろに倒したまま座っていた。獅子の鬣のような長髪が肩の上で跳ねていた。
「カイル。顔が死んでる」
「ほっとけ」
「医者の前でそれを言うな」
レオが太い声で笑った。笑い声は食堂の天井で一度跳ねて、廊下の方に抜けていった。離れの方向で、ラウルの鉛筆の音が止まる気配があった。——ラウルが今夜は離れから出てくるらしかった。この頃レオが毎日通って呼び出している。
ミレナが台所から大皿を運んできた。
「今夜は鍋。全員、遠慮なく取れ」
ミレナの声は、宰相府では絶対に聞けない声だった。下市街の代書屋で、客の肩を叩いて「それは書けない話だよ」と言う時の声に近かった。
エリアが壁際の椅子から立ち上がった。手に薄い冊子を持ったままだった。
「ミレナさん、盛り付けを——」
「手を貸すな。席に座れ。客の仕事は、食うことだ」
「……はい」
エリアは素直に椅子に戻った。戻る時、冊子の端を指で押さえる動きが、ノートを閉じる時と同じ動きだった。
ラウルが離れの扉を開けて入ってきた。眼帯の下の左目だけで部屋の中を一度見渡して、一番奥の窓際の席に、誰とも目を合わせずに座った。
「ラウル、今日レオさんの按摩一時間受けたんだよ」
リーネが小声でエリアに言った。
「逃げ回ってたのを、レオさんが追いかけて」
「医者の仕事は追いかけることだ」
レオが椀を取りながら言った。
「逃げる患者は治らない」
ラウルが鼻で一つだけ息を出した。言葉にはならなかった。それが返事だった。エリアがその息の音に、微かに口の端を動かした。
カイルは椀を両手で包んだ。夏の夜の食堂の空気は、宰相府の執務室より、三段は温かかった。机の上の束の話は、今夜、この部屋の中には、まだ運び込まなかった。運ばないための時間が、一日に一度、要った。
夕食の後、カイルは一人で書斎に上がった。
書斎の机の上には、昼間から持ち帰った三つの束が並んでいた。
左端にロランの経済報告書。民需拡大の数字がまた伸びていた。裏の頁には、造形サービスが届かない家々の集計がまとまりかけていた。薬屋の帳簿と農村の徴税簿から拾った数字で、冬からの積み上げは七十二件に達していた。片方の数字が伸び、片方の数字も伸びる。どちらも止まらない。——さらに別の頁には、夏の間に下市街と中市街の鑑定人たちが同じ固定相製品に出した残量推定値が並んでいた。同じ壁、同じ台に対して、推定値は鑑定人ごとに幅があり、夏にかけてその幅が広がっていた。ロランの字で「個別の腕前の差か、別の何かか、まだ見分けがつかない」と一筆添えてあった。ロランの字は静かだったが、紙の上には行き先の見えない焦燥が薄く滲んでいた。
中央にルッツの報告書。下市街の魔素通貨の試験流通は、春から夏にかけて収束しなかった。商人ギルドも独自の認証印を作ろうとしたが、ギルド内でどの両替商の量りを基準にするかで揉めている。——そもそも量りの前に、魔素の残量そのものを誰がどう見積もるかで鑑定人ごとの判定が揃わず、合意形成が二重に難しいと報告書の余白に書かれていた。三月の議事録の末尾に、メルケンの筆跡で「今月も決まらず」と一言書かれていた。
右端に、ミレナからの申し送りの束。代書屋の机に持ち込まれる所有の紛争が、夏の間に倍近くに増えていた。「作り直した壺は誰のものか」「親の家を形成術師に改修してもらったら、兄弟で揉めた」「旧貴族の家から買った家具を形成し直して売った商人と、旧貴族の相続人が訴えあっている」。ミレナの字で「書き終えて持ってくる者と、書けないまま泣く者がいる。あたしが書くだけでは足りない」と一筆添えてあった。
そして右端の更に奥に、北の国境からの封筒。夏の三通はまだ開けていなかった。明日開ける、と決めて持ち帰った。
四つの束を同じ机の上に並べて、カイルは一度だけ息を吐いた。どの束にも答えがない。どの束の問いも、今夜のカイルの手には収まりきらない。——それが今日の仕事であり、明日の仕事でもあった。
それから、カイルはオルデンの机から運ばれてきた別の箱を開けた。
箱は三つあった。宰相府の執務室を片づけた時に、トーヴァが「私信と思われるもの」と分類して運んできたものだった。春に一つ目を開けて、中身は古い書簡の束だった。今夜は二つ目を開けていた。——四つの束の隣に、もう一つ別の時間の束を置く朝が何度か続いていた。オルデンが残したものと、オルデンの後に届き続けるものが、同じ机の上で並んでいた。
中には、オルデンの筆跡の紙が何十枚も入っていた。書簡ではなかった。走り書きだった。断片的な文章、数字の列、ときどき図のようなものが混じっていた。紙の角が黄ばみ始めていて、少なくとも十年以上前のものに見えた。
カイルは一枚ずつ手に取り、読もうとした。だが、読めなかった。文字はオルデンの癖のある字だったが、内容が分からなかった。経済の用語と測定の用語のようなものが混じり、カイルが見たことのない記号が混在していた。
三つ目の箱はまだ開けていなかった。箱の底に、小さな鍵穴がついた引き出しが見えた。鍵はなかった。
「カイルさん」
エリアの声が、廊下の方から聞こえた。書斎の扉は開けたままだった。
「入っても構いませんか」
「ああ。——開いている」
エリアが入ってきた。手に、いつもの観察ノートと、もう一冊、薄い冊子を持っていた。夏の夜でも長袖の上着を羽織っていた。妖霊族は暑さに強いが、夜の風は好まないらしかった。
「お仕事の邪魔でなければ。——見ていただきたいものがあります。私一人では、これの意味が分かりません」
カイルはオルデンの紙を箱に戻した。戻す時に、指先に古い紙の乾いた感触が残った。エリアの声には、いつもの静かさの中に、今夜だけ別のものが混じっていた。——困っている、というほど切迫してはいない。だが、答えを持っていない者が、別の目を探している声だった。
エリアは書斎の小さな卓に薄い冊子を広げた。冊子の中に、植物の葉の形が細い線で描かれていた。葉の傍に数字が並んでいた。葉の形の下には、小さな字で農家の名前と地区名が添えられていた。
「邸の畑と、近郊の十二の農家の畑の観察です。春から夏にかけて、同じ品種の芋の葉の形が、ほぼ全ての畑で同じように変わりました。——それだけなら季節の変化ですが、もう一つあります」
エリアの指が数字の列を追った。
「成長の速度が、先月から落ちています。ほんのわずかです。一つの畑だけなら計測誤差の範囲と言えば言えます。——でも、十二の畑のうち九つで、三ヶ月続けて同じ方向に誤差が出るのは、誤差ではありません」
カイルは覗き込んだ。春の葉と夏の葉が並べて描かれていた。春の方が細長く、夏の方がやや丸みを帯びていた。数字の列は、成長速度が月ごとにごくわずかずつ下がっていることを示していた。地区名を見ていくと、地脈に近い畑と遠い畑が混じっていた。
「成長畑具を入れ替えたのは半年前です。新しい具のほうが効率が良い。けれど——」
エリアはノートの前の方を繰って、去年の同じ時期の絵を見せた。去年も同じ十二の農家を回っていた。去年の夏の葉は、今年の春の葉に近い形をしていた。去年の成長速度は、十二の畑全てで一定だった。
「良いはずの具を使って、成長が遅くなっている。具の問題なのか、土の問題なのか、それとも——私が知らない何かがあるのか。十二の畑で同じ方向に同じことが起きているので、一つの畑だけの問題ではありません。植物学の目だけでは見えないものがある気がするのです。あなたの目で見て、何か気づくことはありませんか」
カイルは数字の列をしばらく見ていた。政策の言葉でも、交渉の言葉でもない問いだった。畑の中の芋の成長が、月ごとに落ちている。なぜか。——その問いの前では、宰相も外交官も使節も関係がなかった。
その問いに本気で向き合う時間が、今のカイルには無かった。机の左端の束も中央の束も右端の束も、答えを待っている。数字が動き始めた経済と、収束しない通貨と、増え続ける所有紛争と、毎月届く国境の封筒。一つずつに足を下ろすだけで、夜が終わる。エリアの問いは、本来なら数日腰を据えて考えるべき種類の問いだった。それを、今夜は数分で触れて、また戻すことしかできなかった。——足りていない、と指先で感じた。エリアはそれを咎めなかったが、カイル自身がそれを知っていた。
「成長畑具の魔素の残量は」
エリアが少しだけ目を開いた。植物学者ではない人間が、最初に魔素の側を見た。
「ヴァレンさんに試薬で見てもらいました。邸の具と、代表的な三つの農家の具を。色の変化からすると、どれもまだ十分残っているはずだと。——具が弱っているわけではなさそうです」
「では土か」
「土も調べました。十二の畑それぞれで、栄養は足りています。——だから分からないのです」
カイルは答えを持っていなかった。だが、エリアが「あなたの目で」と言った意味は分かった。植物学者の目には、具も土も正常に見える。正常なのに結果が変わっている。別の視点が要る。
「結論は出ているのか」
「出ていません。出す気もまだありません。——今は、記録する段階です。ただ、記録だけしていると、自分の目に閉じてしまう。別の人に見せたかった」
カイルはその言葉を、もう一度、頭の中で聞き直していた。記録する段階。——宰相府では、全てに結論が求められた。報告には必ず所見を添え、所見には必ず提案を添えた。「まだ分からない」は報告ではなかった。
だが、エリアの言葉には別の強さがあった。分からないことを分からないまま持ち続ける強さだった。答えを急がない。問いの形だけを正確に研いで、そのまま置いておく。
「そういう仕事があるのか」
「仕事というより——観察はそういうものです。答えが出る前に答えを書くと、観察が歪みます」
カイルは、少しだけ笑った。自分でも驚くほど小さな笑いだった。笑うつもりはなかった。だが、「答えが出る前に答えを書くと歪む」という言葉が、宰相府の報告書の全てに当てはまるように聞こえて、口の端が動いた。
エリアがその笑いを見ていた。何も言わなかったが、視線が一瞬だけ柔らかくなった。
カイルは、自分の肩の力が抜けていることに気づいた。いつ抜けたのか分からなかった。階下から、リーネが食器を片づけている音が微かに聞こえていた。レオとラウルの低い声が、それに混じっていた。——邸の夜は静かだった。静かだが、人の気配が途切れなかった。
エリアはノートを閉じた。閉じる時の手の動きが、いつも同じだった。ゆっくり、表紙の端を指で押さえて、音を立てずに閉じる。
「それは、何ですか」
エリアが、箱の中のオルデンの紙を見ていた。
「オルデン閣下の私物です。宰相府から運ばれてきた」
「読めましたか」
「読めない。経済か測定の何かだと思うが、記号が分からない」
エリアは紙を一枚だけ手に取って、しばらく眺めた。
「これは……数式のようなものですね。でも、私の知っている数式とは違います」
「分かるのか」
「分かりません。ただ、学術院の古い論文で似た記法を見た記憶があります。——確率の記法です。ある量の値が、一つの数ではなく、幅を持って書かれている」
カイルはその言葉を、頭の中で一度だけ転がした。確率。幅。——オルデンが何を考えていたのか、まだ掴めなかった。だが、この紙の束が単なる走り書きではないことは分かった。
「三つ目の箱は」
「鍵がかかっている。鍵が見つからない」
エリアは三つ目の箱を一度だけ見て、何も言わなかった。
夜が更けて、エリアが自室に戻った後も、カイルはしばらく書斎にいた。
オルデンの紙を、もう一度、一枚ずつ見た。数字と記号と走り書き。オルデンの癖のある字で、何かを計算していた。計算の途中で何度も線を引いて消し、書き直した跡があった。——考えていたのだ。この紙の上で。何年もかけて。
紙の一枚に、短い言葉だけが書かれていた。
「魔素の量り方」
その言葉の下には、何も書かれていなかった。白紙だった。量り方を考えていて、まだ答えが出ていなかったのか。それとも、答えが出たから別の紙に移したのか。
カイルは紙を箱に戻し、蓋を閉じた。三つ目の箱の鍵穴が、蝋燭の光の中で小さく光っていた。
エリアのノートは、卓の上に置かれたままだった。芋の葉の絵が、開いたページの中で、夏の夜の蝋燭の光に照らされていた。
カイルは、ノートの隣に、オルデンの箱を並べた。
芋の葉の形の変化。魔素の量り方。——二つの問いは、全く別のものだった。だが、どちらも「まだ答えが出ていない」という一点で、同じ場所にあった。
カイルはペンを取らなかった。今夜は書く夜ではなかった。ただ、二つの問いが並んでいる机の前に、しばらく座っていた。
廊下で、小さな声が聞こえた。
「エリアさん。——この葉っぱの絵、形が合っているか見てもらえますか」
リーネの声だった。手に、絵本の下絵を持っていた。芋の葉を描いたページだった。
エリアの声が答えた。
「茎の曲がり方が、もう少しこう——描きましょうか」
廊下の明かりの下で、二人が紙を覗き込んでいる気配がした。エリアの長い指がリーネの鉛筆を受け取って、紙の上で何かを直している音が微かに聞こえた。リーネが「あ、そうか」と小さく言った。
カイルはその声を、書斎の中で聞いていた。窓の外で、千年の木の葉が夏の夜風に揺れていた。重い葉だった。春の薄い緑から、もう濃い色に変わっていた。
翌日の昼、下市街の代書屋には老婆が一人座っていた。
机の上に、小さな壺が置かれていた。茶色い釉薬の、飴のような色の壺だった。縁が一か所、小さく欠けていた。ミレナは筆を置いて、老婆の手元を見ていた。
「主人の形見なのよ」
老婆の指が壺の腹をなぞっていた。指の腹は、壺の表面の窪みを、自分の指紋のように覚えているようだった。
「五十年、台所に置いてた。主人が漬物を漬けたのもこの壺。主人が死んだ年に甥に譲ろうとしたら、『古いから新しいのに作り直す』と言うのよ。中身だけ移せばいいからって」
「形成し直せば、土と釉薬は同じものに戻せます。見た目は新しくできます」
「それじゃ駄目なのよ」
老婆の声が、ほんの少しだけ、尖った。
「作り直したらね、これはもう主人の壺じゃない。この壺は主人の壺なのよ。——主人の魂が入っているんだもの」
ミレナは一瞬、筆を取ろうとした手を止めた。止めてから、自分がなぜ止めたのか、自分でも分からなかった。老婆の言い方は、法の言葉ではなかった。詩の言葉でもなかった。——ただ、五十年、台所の同じ棚の端に置いてあった壺が、その台所に生きていた人間の手垢を吸い続けた、という事実を、身体で知っている者の言い方だった。
「甥御さんには、どう伝えますか」
「『この壺は、婆の死ぬまで、婆の台所に置いとく。死んだら、割って捨てておくれ』って書いておくれ」
ミレナは筆を取った。老婆の言葉を、そのままの文で書いた。書きながら、「作り直したらこれはもう主人の壺じゃない」の一行が、紙の上で一度だけ、止まった。書き終えて、机の端に置いた。——今日の申し送りの束に加えるかどうか、迷った。所有の紛争でもなく、契約でもない。ただの遺言のような私信だった。
迷って、束には加えなかった。老婆の背中が代書屋の戸の外に消えてから、ミレナは壺のあった場所を、もう一度見た。机の上の、昼の光の中の、壺の影の痕だけが、まだ残っているように見えた。




