第61話 灰色の朝
冬の朝は灰色だった。
高原の上の空は、日が出ているのにまだ色がなかった。雪は昨夜のうちに止んでいた。石畳の上に薄く積もった残りを、風が少しずつ動かしていた。風の音は細く、尖っていた。
カイルは宰相府の廊下を、いつもより早い時刻に歩いていた。夜明け前にトーヴァから伝言が届いたからだった。伝言は一行だった。——「今朝、閣下はご自邸で」。それだけ書かれていた。主語も動詞もなかった。カイルは廊下を途中で一度だけ足を止めて、伝言の紙をもう一度読み返した。
二度目に読み返した時、動詞のない一行の意味が、頭より先に体の方へ落ちていた。ひと月前から、廊下を歩くオルデンの歩幅がわずかに短くなっていたことを、カイルは知っていた。知っていて、来ないほうの目で数えてきた。来なかった日の数だけを数えて、来る日の数は数えていなかった。——数えていなかったことの方が、今朝の廊下で重かった。
足を止めた場所から、廊下の窓の外に、冬の高原の稜線が見えた。稜線も灰色だった。
オルデンの自邸は、中市街の北寄りの、古い外交貴族の区画にあった。
ドレーヴェン家の屋敷。財産接収令の後、書物と家具の大半が国に渡されたが、本人の居室だけが手付かずで残されていた。門は開け放たれていた。前庭には、もう長く手入れされていない古い木が一本だけ立っていた。その木の幹に近い石畳の上に、昨夜の雪がまだ少しだけ残っていた。カイルはその雪の残りの脇を通り過ぎた。
玄関で出迎えたのは、昔からの家の者——名前のない老いた女中だった。五十年以上この家にいた、とカイルはいつか聞いたことがあった。女中の顔にはすでに、泣き終わった人の顔の静けさがあった。まだ何一つ起きていない時刻に、既に、何かが起きたことを知っていた。女中は黙って頭を下げて、内廊下の奥を指した。言葉は一言もなかった。
廊下は短く、暖かさがなかった。壁の隅のあちこちに、家具のあった場所の痕跡だけが影として残っていた。長い年月、物の重みでそこの壁の色が少し違っていた。その違いを、朝の灰色の光が静かに写していた。カイルは廊下の途中で、かつて書棚があったであろう壁の前を通り過ぎた。壁の影の高さは、自分の背より少しだけ高かった。——宰相が毎朝通り過ぎていた書棚が、そこにあったはずだった。接収の紙にカイル自身が数字を書き写した覚えがあった。あの時の紙の一行が、今朝の壁の影になっていた。
カイルは居室の扉の前で一度だけ息を整えた。扉を叩こうとして、やめた。
扉は、少しだけ開いていた。
中に入った。
居室は狭かった。宰相の名で語られる人物の部屋とは思えないほど、物が少なかった。窓、寝台、小さな机が一つ、椅子、古い衣桁が一つ。机の上には紙の束が置かれていた。束は高くはなかった。しかし揃っていなかった。ルッツの書類のように角が合っていない。——角の合っていない束を、カイルはオルデンの机で見るのは初めてだった。
寝台の上で、オルデンは仰向けに横たわっていた。毛布が胸の上まで引き上げられていた。眼は開いていた。
「——来たか」
声は、昨夜のうちに準備されていた声のように静かだった。息の速さから、朝まで眠っていなかったのが分かった。
「閣下」
「そこに座れ」
寝台の横に、古い椅子が既に一脚引き寄せられていた。誰が引き寄せたのかは聞かなかった。カイルは座った。
座った時、自分の膝とオルデンの寝台の縁の距離が、宰相府の執務室で机を挟んで向かい合う時の距離と、ほぼ同じであることに気づいた。二人の距離は、十三年の間、いつも一定だった。手を握り合ったこともなく、肩に触れたこともなかった。その一定の距離だけが、二人の間で共有されている唯一の物差しだった。——死の朝の寝台の前でも、その物差しだけは崩れなかった。崩れなかったことに、カイルは一度だけ、小さく安堵した。安堵してから、その安堵の形をすぐに恥じた。
オルデンの右手が、毛布の上に出ていた。手の震えは今朝、止まっていた。震えていないことのほうが、震えている時よりも、寒かった。カイルは手を握らなかった。オルデンの手も、カイルの手を求めていなかった。二人の間の距離は、いつも通りだった。
「ルッツには」
「まだ知らせていません。今、宰相府の廊下を歩いている時刻のはずです」
「トーヴァには」
「トーヴァが伝言を運んでくれました。今は宰相府に戻っています」
オルデンは短く頷いた。頷きは、首の筋肉の一つの動きだけだった。それ以上の動きは、今朝の体には残っていなかった。
「——机の上の束」
カイルは視線を机に移した。
「今は開けるな。——後でよい」
「承知しました」
「後でよい、の意味は、今日の朝ではない、という意味だ。しばらく後でよい。数ヶ月後でも構わぬ。開ける時期は、お前が決めろ」
カイルは頷いた。頷きの間に、束の一番上の紙の端が、少しだけ持ち上がって、元に戻るのが見えた。風のせいではなかった。寒い部屋の中で、ただ紙が自分の重さを確かめる動きだった。
オルデンは少しだけ首を動かして、窓の方を見た。
「雪は」
「昨夜の分はもう止みました。積もりは薄いです」
「……今年の冬は、短い」
「はい」
「短いのを、最後まで見届けるには、少し足りぬ」
声の調子は、泣き言ではなかった。工程表の誤差を指摘する技術官の声に近かった。
カイルは、それ以上返事をしなかった。返事をすべき言葉が自分の中に見当たらなかった。見届けるのは、この朝から先、自分の役目になる——そのことだけが、体の奥で一度、静かに据わった。据わった場所は冷たかった。冷たさの種類が、昨日までのものと違っていた。
しばらく沈黙が続いた。
沈黙の中で、オルデンの呼吸は少しだけ遅くなっていた。吸う時間と吐く時間の比率が、昨夜までのものと違っていた。カイルは呼吸の比率を聞いていた。記録者の耳で、そうして聞いていた。
窓の外で、風がもう一度細く鳴った。
「……カイル」
「はい」
「一昔前の竜人なら」
オルデンの声は、ここで少しだけ途切れた。途切れたのは息が足りないからではなく、言葉を選んでいたからだった。
「私はまだ、働き盛りの年齢のはずだった」
一度だけ、眼が細く動いた。笑ったのかもしれなかった。カイルはそう見た。オルデンの世代の竜人の声で、その一言が言われる時、それは嘆きではなかった。ただ、時代の尺度が一つ変わったことの確認だった。カイルの父祖の代の竜人たちは、二百歳を越えてもまだ仕事の真ん中にいた。オルデンは、百八十歳で、既に手が震え、朝の光の中で時代の終わりを迎えようとしていた。
それが何を意味するのか、カイルはこの時点では言葉にしなかった。言葉にするべき時期ではなかった。
「カイル」
「はい」
「……お前の記録を、読みたかった」
声は低かった。低くて、ゆっくりで、最後の音だけが少し上がった。質問の語尾のような上がり方だった。何を訊いているのか、カイルはすぐには分からなかった。分からなかったまま、答えた。答えは、問いの意味より先に、体のどこかに既に準備されていた。十三年の朝の執務室で、毎日少しずつ削り出されていた答えだった。
「書き続けます」
オルデンの眼の中で、何かが小さく動いた。動きの方向はカイルにも読めた。——それでよい、という方向だった。
オルデンは一度、短く息を吐いた。吐く時間が、吸う時間の長さと、同じになった。
そして、吸う時間が来なかった。
カイルは、呼吸を一拍、遅らせた。
自分が息を止めたのが後から分かった。オルデンの次の吸気を、自分の肺が代わりに待っていた。待っても来なかった。来ないことを、体が先に理解した。
右手が、膝の上で一度だけ握られた。握った後、震えが来た。名前のない震え。二年前の春の夜から時々現れる、ペンを持つ時だけ出るはずの震えが、今朝、ペンを持っていない手で出た。空の掌の中を、震えが一度だけ通り過ぎた。
——これまで、この震えを見ていた人間は二人だけだった。カイル自身と、オルデンだった。オルデンは見て、見ていないふりをしてくれた。見ていないふりの重みだけで、カイルの十三年は支えられてきた。今朝から、この震えは自分一人のものになる。見る人がいないということは、見ていないふりをしてくれる人もいないということだった。
視界の周縁が少しだけ暗くなった。暗くなってから、また元に戻った。
カイルは寝台の横に座ったまま、動かなかった。部屋の中の空気は、さっきまでと同じ温度だったはずだが、顔の皮膚に触れる密度が変わっていた。オルデンが吸っていた分の空気が、部屋の中にまだ残っている。残っているまま、吸う人がいない。——それが今朝の部屋の違いだった。
窓の外の風が、もう一度だけ鳴った。
どれくらい経ったのかは、後からは分からなかった。
カイルは立ち上がって、オルデンの右手の上に、自分の右手を一度だけ重ねた。震えは、重ねた瞬間に止まった。掌の下の手は、朝の部屋の石と同じ冷たさに近づきつつあったが、まだ冷たくはなかった。まだ、少しだけ、人の体だった。
一言も言わなかった。二年前、執務室で肘に触れた時と同じ沈黙だった。あの時と違うのは、触れ返してくれる相手がもういなかったことだった。
十三年。——カイルの頭の中で、その数だけが一度、静かに浮かんで消えた。十三年の間に、二人で共有した沈黙の数は、どちらも数えていなかった。数えていなかったのに、その積み重ねだけが、今朝の掌の下に重さとして残っていた。肘に触れたあの夜、「分かりました」と返してくれた声の残り香も、掌の下のどこかにまだあった。ないはずなのに、あった。
指を離した。
机の上の束を一度だけ見た。見ただけで、触れなかった。「しばらく後でよい」という声がまだ耳に残っていた。
居室を出る時、名前のない老いた女中がまだ玄関の脇に立っていた。
カイルは女中に向かって、短く言った。
「宰相府の方へ伝えに行きます。あなたは、ここにいてください」
女中は黙って頭を下げた。五十年以上この家にいた女中の頭の下げ方は、どんな悲しみの仕草よりも正確だった。正確であるということが、それ自体、ひとつの悲しみの形だった。カイルはそれ以上は何も言わずに、玄関の扉を押した。
外の灰色の光の中に出た。
風は止んでいた。石畳の上の雪は、朝の間にもう少しだけ薄くなっていた。中市街の通りの向こうに、宰相府の塔が見えた。塔の上の旗は、まだ半旗にはなっていなかった。カイルが今から運ぶ報せが、あの旗の位置を下ろす。
カイルは塔の方へ歩き出した。歩きながら、今朝、オルデンの机の上に残された角の合わない紙の束のことを、体の奥に一度だけ置いた。「しばらく後でよい」。その一言が、束を時間の向こう側に預ける鍵になっていた。今日ではない。明日でもない。数ヶ月後か、あるいは——それより遠い、どこかの日。
歩く足の下で、石畳の石の一つ一つが、朝の冷気で少しだけ鳴っていた。歩きながら、カイルは自分の呼吸の長さを、オルデンの最後の呼吸の長さに、一度だけ合わせてみた。合わせてから、元に戻した。
元に戻した呼吸は、昨日までの自分の呼吸と同じはずだった。だが、同じではなかった。吸う時間の中に、もう一人分の空白が入っていた。その空白の形は、これからの毎日の呼吸の中に残り続けるのだろう、とカイルは思った。——悲しいとは思わなかった。悲しいと名付ける前の、もっと手前の、形だけの感覚だった。名付けるのは、後でよい。オルデンが束を読めと命じた時と同じだ。名付ける時期は、自分で決めればよかった。
今日の冬の朝は、短い冬の朝だった。短くても、自分はまだこの朝の残りを、最後まで歩かなければならなかった。オルデンの分まで歩くのではない。オルデンがいなくなった後の、自分の歩幅で歩くのだった。




