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第60話 夜の庭

秋の夜の書斎で、カイルは机の上の紙から顔を上げた。


 ランプの油がそろそろ切れる時刻だった。机の上には引継ぎ二の巻が開かれ、その脇に研究機関の最初の三行の浄書の一枚が置かれていた。ヴァレンから先日届いた写しだった。余白に細い字でラウルの観察の一行が書き足されていた。


 眼の奥が乾いていた。瞼を一度だけ強く閉じて、開いた。窓の外はもう暗くなりかけていた。秋の夕と夜の間の、どちらの名前も宙に浮いている時刻。


 窓の下の方から、微かな水の音と、土を掻く小さな音がした。続いて、東の離れの方から、いつもの鉛筆の音。更に奥の方から、何かが空気を切るような、短く繰り返される別の音。


 三つの音が、一つの屋敷の外で鳴っていた。カイルは紙を閉じた。





 書斎を出て階下に降りた。


 食堂では、ミレナが一人、卓の上の紙の束を整理していた。代書屋の仕事の残りだった。丸メガネの奥の目は紙に集中していたが、指の動きだけが常人より速かった。一枚を読み、署名の位置を確認し、次の紙に移る。この速さは才能ではなく修練だった。毎日、この速さで、この街の人間の困りごとが一枚ずつ片付いていく。


 カイルが通りかかると、顔を上げずに一言だけ言った。


 「庭に出るの」


 「少しだけ」


 「エリアが成長畑のほうにいるよ。ランプを持ってった。すぐ戻ると思ったのに、戻ってこない」


 ミレナの声は咎めてはいなかった。むしろ、観察する人の集中を尊重する声だった。


 食堂の奥で、リーネが一枚の紙の上に鉛筆で何かを描いていた。絵本の新しい頁らしかった。


 「リーネ、それ昨日の続き?」


 ミレナが紙をめくる手を止めずに聞いた。


 「うん。花の部分がまだ。エリアさんに花弁の数を聞いたら、五枚って言われたのに、昨日は六枚描いちゃった」


 「消して描き直せばいいじゃない」


 「消すと紙が傷む。新しく描く」


 ミレナは鼻で小さく笑った。「あんたたち姉弟、揃って紙に厳しいんだから」


 リーネが顔を上げて、カイルに短く手を振った。手の動きだけで、言葉はなかった。今夜はリーネも自分の仕事の中にいた。





 玄関を出ると、秋の夜の冷たい空気が顔に当たった。屋敷の中の暖気と、外の夜気との境界を、頬の皮膚が一瞬で覚えた。息を一度だけ吐くと、白い色が薄く見えたが、昨日よりは薄かった。冷えの芯はまだ冬の冷えではなかった。


 正庭は中庭の中で一番広い。千年の木の下の石のベンチはもう闇の中にあった。西の空の端に、昼の光の最後の赤がまだ残っていた。頭上の空は既に濃い紺で、星が二つか三つ、見え始めていた。


 カイルは庭を横切って、成長畑の区画の方に歩いた。成長畑は正庭の東寄りの、小さく区切られた一角にある。ミレナが細々と手入れしてきた実用庭の残りの一部で、春からエリアが観察の場として使い始めていた。


 歩きながら、三つの音が別々の方角から聞こえ続けた。


 東の離れの窓から漏れる細い光の中で、ラウルの鉛筆が一定のリズムで動いていた。灰色の眼帯の下の左目一つで、迷いのない線を引いている気配が、窓の外からでも伝わってきた。窓の内側にはラウルの背中らしい影だけが見えた。背中は夜通し動かない時間を知っている背中だった。


 更に奥——西離れの向こう、荒れ庭の方から、獣人の男の型の動きの音が繰り返されていた。レオだった。獅子の髪を後ろで結い、短い上着だけで夜の冷気の中を動いているらしかった。鎚を打つような踏み込みではなかった。息を吐く時間と、動きを止める時間が、時計より正確に区切られていた。武術の型。だが獰猛さはなかった。手を止めない職人の動き方に近かった。


 カイルが正庭の中程を通り過ぎる時、レオの型の音が一瞬だけ止まった。気配でカイルに気づいたのかもしれなかった。だがすぐに音は再開された。声はかけてこなかった。他人の夜の時間を邪魔しない男の振る舞い方だった。


 ——こんな時刻に、まだいるのか。


 カイルは一歩、歩みを緩めた。夜の空の星の位置から、もう戌の刻は過ぎているはずだった。通いの医者が患者の診療を終えてもなお屋敷で型を動かしている、というのは、普通の通い方ではなかった。先月は週に一度、今月に入ってからは毎日来ている、とリーネが食卓で一度言っていた。


 母屋の二階の東の端の小部屋。西離れの奥の、白布のかかった客用寝室。屋根裏階の旧使用人部屋。——閉め切られたままの部屋が、この屋敷にはまだ幾つもあった。どれか一つに、あの男の荷物はもう運ばれているのだろうか。入ったとしても、ミレナは大袈裟には告げない。告げないのは、告げる必要のない範囲で物事が動いている、ということだった。


 カイルはそれ以上は歩きながら考えなかった。考える夜ではなかった。ただ、頭の片隅に「屋敷の夜がまた少し長くなっている」と一行だけ書き留めて、先に進んだ。





 成長畑の区画の手前で、カイルは足を止めた。


 地面の近くで、小さなランプが一つ、置かれていた。ランプの光の円の中に、エリアが屈んでいた。観察ノートは開いた状態で、ランプの隣の石の上に置かれていた。筆はまだ手の中に握られたままだった。


 エリアは背を向けていた。膝を折って、両手で地面の何かを覆うように構えていた。覆う、というより、見守る形だった。


 カイルは気配を立てないように、ゆっくり近づいた。


 エリアは振り向かずに言った。


 「カイルさん、静かに来てくださったのですね」


 「気づかれていましたか」


 「ラウルさんの鉛筆と、レオさんの型の音の合間に、一歩だけ違う音が混じりました。足音でした」


 カイルは少しだけ口角が動いた。自分の足音を音楽の合間の一音のように捉える人のことを、今日初めて体で知った。


 エリアはランプの光の下の一点を指した。


 「今夜、ここで一つ、開きます。たぶん、もう少ししたら」


 「何が開きますか」


 「草の葉が、一枚。この畑の端に去年の種を一粒、春先に蒔いておいたものです。成長畑具のすぐ脇で、でも、畑具の及ばない位置に。比べるために」


 カイルは屈んだ。膝の古い軋みが一度だけあった。膝の軋みのことを、最近、体で覚えるようになっていた。竜人族の七十代後半の若年後期の体は、座り方を少しずつ自分で教えてくれる。


 ランプの光の円の中で、黒い土の上に、小さな緑の尖りが見えた。先端が二つに分かれかけていた。閉じた掌を開こうとしている瞬間の手の形に似ていた。葉の面には、昼のうちに着いた微かな埃も、夜露もまだ載っていなかった。土から生まれたばかりで、空気とほとんど話していない葉だった。


 「今夜は風がありません」


 エリアが言った。


 「だから、葉が先に開くか、茎が先に起きるか、両方が同時に動くかを、今夜は見ることができます。風の日は、先に動く方が分かりません」


 「風がない、というのは、観察に必要な条件ですか」


 「必要、ではなく、今夜は幸運だという意味です」


 エリアは筆をノートの紙に当てたまま、目は土の上の尖りに戻していた。カイルは自分の目の焦点を、尖りの一点に合わせ直した。焦点を合わせるのに少しだけ時間がかかった。昼の間、カイルの目の焦点は紙の列と人の顔にしか合っていなかった。夜の土の上の一点に合わせるのは、別の筋を使う作業だった。





 カイルが屈んだまま黙っていると、エリアが筆を止めて、少しだけ身体の向きをカイルの側に戻した。ランプの光がその横顔を斜めから照らした。淡い色の目の中に、小さなランプの炎の像が二つ、左右の瞳に映っていた。


 「カイルさん」


 「はい」


 「一つ、お聞きしてよろしいですか。今夜の仕事とは関係のないことです」


 「どうぞ」


 エリアは少しだけ躊躇うように見えた。躊躇うエリアを、カイルは今日まで見ていなかった。


 「子供の頃、最初に名前を覚えた植物は、何でしたか」


 予想していなかった問いだった。政治の問いでも、国の問いでも、研究の問いでもなかった。カイルは答えに一度詰まった。詰まってから、母屋の中庭の千年の木の、幼い頃に母に手を引かれて歩いた時の記憶が、手の平のどこかに微かに浮かんだ。


 「……木の名前は、正確に覚えていません。ただ、とても大きな葉の、広葉樹の一本。この屋敷の中庭に今もある木です。母が、手を引いて下を歩かせてくれました。名前を教えてもらったはずなのですが、名前は残っていません。手の感触だけが残っています」


 エリアは短く頷いた。頷き方に、観察ノートに書き留める時の動きが混じっていた。


 「名前を覚えていなくても、植物を覚えていることはあります」


 「あなたは、最初の一つを覚えていますか」


 エリアはランプの光の向こうを、一瞬だけ見た。視線の先には何もなかった。記憶の中のどこかを見ていた。


 「エテルネアの学術院の裏庭に、冬のうちに白い花を咲かせる低木がありました。名は『雪の口づけ』。十代の頃、私はその花が開く瞬間を見たくて、三晩連続で夜番をしました。四晩目の明け方に、寝てしまいました。——気づいた時には、もう全ての花が開き終わっていて、私は一輪の開きの瞬間も見ていませんでした」


 エリアは少しだけ笑った。笑い方は控えめだったが、笑うエリアをカイルは今日まで見ていなかった。


 「それ以来、開きを待つ夜は、眠らないことにしています。百五十年の間に、何度か、この決め事を破りました。破った夜のことは、破った、と、ノートの隅に短く書きます。今夜は、破らない夜です」


 カイルは頷いた。頷いた時、自分の目の縁が少しだけ緩んだのが分かった。笑いとは呼べない種類の、表情筋の細かな動きだった。それが夜の庭の中で起きていた。


 「まだ、開いていないんですか」


 「開き始めています。でも、完全に開くのは、あと半刻ほど先だと思います」


 エリアの声は低かった。急がない声だった。北門で初めて聞いた時の、急がなさの質と、同じものだった。





 カイルは尖りの横に、指を伸ばした。


 エリアはカイルの手を止めなかった。代わりに、短く言った。


 「葉の付け根に触れてみてください。尖りの根元の、ほんの少しだけ上の、茎の途中です。そこが一番、今夜の温度を持っています」


 カイルは言われた場所に、人差し指の腹を軽く置いた。


 ——湿っていた。


 そして、かすかに温かかった。夜の土より、夜の空気より、ほんの少しだけ。それは、ラウルの鉛筆の音とも、レオの踏み込みの音とも、研究機関の机の上の三行とも、無関係な温度だった。


 今朝、昨日、一昨日、カイルが体の中で運び続けていた紙の重さと、辞令の軽さと、民間移管第二波の二十七工場の行列と、記録石の輸出の表の数字と、全てが、指先のその一点では鳴っていなかった。


 指先には、一粒の種から半年かけて伸びてきた草の、今夜の温度だけがあった。





 カイルは指を離さなかった。


 エリアも何も言わなかった。エリアは再びノートの上に筆を動かし始めた。筆の走る音はとても細かった。細い音の中に、カイルの指先が置かれた場所のことが含まれていた。カイルはそれを邪魔しないように、指の力を更に抜いた。


 遠くで、レオの型の音がもう一度聞こえた。踏み込みの後の呼吸の時間が、夜の中に短い間隔で続いていた。東の離れの窓からはラウルの鉛筆の音が、変わらないリズムで続いていた。


 カイルの体の中で、何かが一枚、静かに剥がれていた。


 昼の間に身に纏っていた皮だった。補佐官の皮、引継ぎ二十冊の皮、辞令の皮、三の巻の数字の皮、オルデンの三段階の座り方を見守る時の皮——今夜、庭の土の前で、その全てが背中から一枚だけ、静かに落ちていた。落ちた場所は自分でも分からなかった。だが、落ちた後の体が、今、指先の温度に向き合っていた。


 それでよかった。


 カイルは初めて、この秋の中で、初めて、体がただ「カイル」と呼ばれてよい一点に立った気がした。





 しばらくして、カイルはゆっくり指を離し、立ち上がった。膝の軋みがもう一度した。


 「半刻後の開きは、私は見に来ません」


 「はい」


 「——それは、あなたが見てください」


 「分かりました。ノートに書いておきます」


 エリアはノートの頁を少しだけめくり、新しい行を用意した。用意してから、もう一度、カイルの方を見上げた。光の中で、エリアの目の色は淡かった。淡いのに、濁っていなかった。


 「カイルさん」


 「はい」


 「今夜の葉の、開いた時の形、明日の朝、お見せします。形はもう覚えてしまうので、ノートの言葉よりも、私の記憶のほうが正確です」


 「お願いします」


 カイルはそれだけ言って、成長畑の区画から離れた。





 離れる時、一度だけ振り返った。


 ランプの光の円の中に、エリアの背中と、ノートの紙と、土の上の小さな緑の尖りがあった。円の外は、もう夜だった。円の中だけが、今夜、少し遅い夕方のようだった。


 東の離れの鉛筆の音と、西奥の型の踏み込みの音と、食堂の方からかすかに届くミレナの紙を重ねる音と、二階の窓の向こうのリーネの鉛筆の音。——四つの別の仕事の音が、一つの屋敷の夜の中に、それぞれ別の場所から鳴っていた。


 そして今、五つ目の音として、自分の足音が加わって、庭の石畳の上を、玄関の方へと戻っていった。


 秋の夜の空気が、まだ指先に残っていた。

【豆知識:エテルネア学術院の「三つの府」】


エリアを派遣している妖霊族の国エテルネアは、革命で王政を打倒した後、「知識による統治」を掲げる**学術院寡頭制**に移行しました。学術院は十二名の合議体で、その下に三つの府が並びます——**知識府**(教育・研究・記録管理)、**交易府**(経済・対外交易、革命を主導した商人層の牙城)、**守護府**(軍事・国境防衛、最小限の兵力)。

エリアは知識府所属の若手研究者です。エテルネアからの「派遣」という形式は、彼女自身の選択というより学術院の判断による配属で、長命種族の若手が国外で実証を積むための制度的経路でもあります。三百年から五百年の寿命の中で、最初の数十年を他国で過ごすことは、エテルネアの研究者には珍しくありません。

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