表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
63/81

第62話 葬送と誘惑

葬送の朝は、灰色の朝よりも更に静かだった。


 宰相府の大広間に、棺が置かれていた。広間の石の天井は高く、北の窓からは鉛色の光だけが入っていた。棺の周りに、供花の代わりに高原の冬の草の束がいくつも置かれていた。死者の生前の質素に合わせて、故人の旧貴族の家系が要求するはずだった儀礼を、ほとんど全て削った。削ることを決めたのは、カイルだった。オルデンなら、そう決めたと思った。


 昨日のうちに、コヴァルド、マルカ、エテルネア、レガリオンの四ヶ国に書簡を送った。外交書記の筆が一晩で四通を書き上げていた。返書はまだ届いていない。届くまでに、数日はかかる。——今朝は、この国だけの朝だった。


 広間には、国中からの人々が集まっていた。


 旧貴族派の生き残り数名。接収を受け入れた家の当主たち。ヴァレンが最前列に。ラウルは、灰色の眼帯の下の左目を一度も伏せずに、壁に近い列に立っていた。リーネは黒い布を頭に被って、ミレナの隣にいた。ミレナは口を閉じたまま、一度も歪めなかった。エリアは家族の後ろの、少し離れた位置に静かに立っていた。彼女の手には観察ノートはなかった。代わりに、両手の指を前で組んで、記録の仕事を今朝は封じていた。


 ルッツは棺のすぐ脇で、葬送の流れを仕切る事務方の長として動いていた。数字と工程の男が、今朝は人の列の時間を仕切っていた。トーヴァは後方で弔問者の受付に立ち、早口のまま一人一人の名を書き留めていた。


 そして、王族の席。


 一番奥の上座に、長兄セルヴァンが立っていた。銀灰の長髪を丁寧に結い上げ、黒い上質の喪服を身にまとい、端正な顔立ちの上に、葬儀に相応しい程度の静けさを載せていた。静けさの下に何があるかは、この朝の広間の中にいる誰にも読めなかった。——ただ、カイルだけは、長兄の立ち姿の左手の位置を一度だけ見た。左手は、組まれずに、わずかに体の横に垂れていた。退屈している時の立ち方だった。


 カイルはその一点を見ないことにした。





 葬送の挨拶は、カイルが読んだ。


 手に紙を持っていた。紙には三行だけ書かれていた。昨夜、書斎で何度か書き直した末に、この三行になった。


 「私が宰相府に入った日、私は紙を書く手しか持っていなかった。——私の手を受け取ってくれたのが、オルデン・ドレーヴェン閣下でした。十三年の間、私の手は、この人の側にありました。今朝、この人の側を離れます。しかし、手は、書き続けます」


 声はほとんど震えなかった。震えの代わりに、声の底に、昨日の寒さがまだ一つ残っていた。


 広間の人々は、誰一人、咳払いをしなかった。





 挨拶の後、ヴァレンが前に進み出た。


 ヴァレンの掌の中には、小さな石が一つ握られていた。掌に収まる大きさの、乳白色に近い石。研究機関の娘の紙の三行の時に見たような、同じ筋で作られた石だった。


 「生命痕跡石、と呼ばれております」


 ヴァレンの声は低かった。


 「戦前は、旧貴族の葬礼で使われていた古い技術です。故人の使い続けた品から、その人の魔素の痕跡を写し取って、一つの石に封じます。石がある限り、しばらくは、故人の気配を呼び戻せます。——しばらくは、という言葉が添えられる種類の、新しい追悼の形です」


 棺の脇に、オルデンが生涯使い続けた三つの品が並べられていた。薬草茶の古い茶碗。黒く磨耗した万年筆。書斎の机の、指の触れ跡が最も濃い木の端。


 ヴァレンは石をまず茶碗の縁に、次に万年筆の軸に、最後に机の端に、ゆっくりと置いていった。石の表面の色が、三度、乳白から淡い琥珀に変わり、また乳白に戻った。石の動きは、夏の工員の掌の上で見た動きと同じリズムだった。


 ヴァレンはその石を、カイルの掌の上に置いた。


 石の表面は、温度を持っていた。夏の「塞ぐ石」と同じ種類の温度だった。だが、その温度の中には、夏にはなかった別の何かが含まれていた。カイルの掌の皮膚は、その何かを、言葉より先に識別した。——オルデンの茶碗を両手で包んだ時の、指の角度の記憶。机の向こうの椅子に腰を下ろす時の三段階の動作の気配。「それで?」と短く訊く時の、息の使い方。


 それら全てが、石の微かな温度の中に、数匙分ほど、確かに畳まれていた。


 カイルは、石を掌で一度だけ握った。


 広間の人々には、その動作は、単に挨拶の礼としか見えなかったはずだった。しかしカイルの掌の中では、その一握りの瞬間に、数日分の冬の冷たさが一瞬だけ後退した。





 石を供物台に戻した時、広間の奥の列からカイルを見ている目があった。


 長兄の目だった。


 長兄は微かに微笑んでいた。葬儀に相応しい程度の、礼儀として用意された微笑みだった。だが微笑みの向きが、石のほうではなく、カイルの掌のほうに向いていた。


 カイルは視線を逸らさなかった。逸らす代わりに、一度だけ短く、深く息を吸った。





 葬送の列の終わりは、午後早くだった。


 人々が広間から退けた後、カイルは一度だけ、宰相府の東の回廊に戻った。オルデンの執務室の扉に最後の封をする役目があった。扉の前に立って、用意してきた封紙を取り出した。封紙を貼るには片手で糊をつけ、両手で押し当てる必要があった。


 その時、背後の廊下から、静かな足音が一つだけ近づいてきた。足音の主は、足音の主以外にいない歩き方をしていた。


 「——末弟」


 銀灰の長髪が、薄暗い廊下の光の中に見えた。


 カイルは封紙から手を離し、振り向いた。





 長兄は少しだけ微笑みを残したまま、近づいてきた。


 「今朝の挨拶は良かった。私には書けない三行だった」


 「ありがとうございます、兄上」


 「お前、疲れているように見える」


 長兄の声は穏やかだった。昔、王宮の奥で、カイルがまだ末席の王子として王族の食卓にいた頃の、あの声に近かった。カイルの背骨が、反射的に一度、古い姿勢を取りかけた。取りかけて、止めた。


 「末弟」


 「はい」


 「私は近いうちに、王位に就く準備を整える。——その時、お前は重荷を降ろしてよい。お前のその手は、本来、紙の上に在るべき手だった。そう思わぬか」


 長兄の右手が、カイルの肩の方に伸びかけた。肩に置く前に、途中で止まった。止まったのは、長兄の意志ではなく、長兄とカイルの間の距離の、朝の広間からの続きのせいだった。


 カイルは、兄の言葉を頭の中で一度だけ並べ直した。——どの言葉も、内側の芯には触れていなかった。王子の身分を惜しんだことも、王族の日々を懐かしんだこともなく、王位にも宰相の席にも、もともと望みはなかった。権威も権力も、机の上に並べたい種類の重さではなかった。——兄は、カイルの輪郭を外側から見て、そこに自分が知っている王族の形を当てはめていた。当てはめた形と、中身の形は、少しだけ、ずれていた。


 「紙の上に在るべき手だった」——その一句だけが、わずかに当たっていた。もし戻れる場所があるとすれば、それは王族の食卓ではなかった。オルデンの横で記録帳を繰っていた、あの記録者の席の方だった。だが、それもまた、今日の話ではなかった。


 カイルは一度だけ、掌の中を確かめた。午前の石の温度が、まだ微かに残っていた。


 「兄上」


 「ああ」


 「私は、王子に戻りたいわけではありません。——王位にも、宰相の席にも、もともと望みはありませんでした。今、この重荷の下にいるのは、欲したからではありません」


 声は低かった。二年前の春の夜、壁から儀礼剣を取った夜の声に、少しだけ近かった。


 「ただ、オルデン宰相から引き受けた仕事があります。あの方が五十年かけて運んでこられた仕事を、中途で終わらせるわけにはいきません。完成させるまで、私はこの席にいます。——それが、私がこの席に残っている唯一の理由です。仕上がった日のことは、仕上がった日に、改めて考えます。今日は、その日ではありません」


 長兄の表情が、一瞬だけ動いた。


 微笑みの角度が、ほんのわずか、変わった。カイルの目にしか見えない程度の変化だった。長兄の目の奥で、何かの計算の板が一枚だけ、静かにめくられる音が聞こえた気がした。——オルデンの防護壁は、今朝、消えた。その確認の板だった。


 長兄は元の微笑みに戻った。


 「——そうか」


 それだけ言って、長兄は一歩下がった。一歩下がった後、もう一度、小さく頷いた。頷きの中には、今夜改めて別の手を考える、という種類の、小さな終わりが含まれていた。


 「また話そう、末弟」


 「はい」


 長兄は廊下の奥の方へ歩いていった。廊下の角を曲がる時、一度も振り返らなかった。





 長兄の足音が完全に消えてから、カイルは封紙をもう一度手に取り、扉に貼った。糊を押し当てる時、掌の石の温度が、指先の筋にまだ微かに残っているのが分かった。午前の温度は、まだ消えていなかった。


 封紙を貼り終えた後、カイルは扉の前でしばらく動かなかった。動かない間に、肩の力が少しだけ下りた。肩の力が下りた瞬間、初めて、今朝の葬送の全ての重さが背中に戻ってきた。


 それでも、倒れなかった。倒れない理由を、自分でも一つだけ知っていた。——今夜、自分は家に帰る。家には人がいる。人がいるということの意味を、先週の夜の庭で体で知ったばかりだった。





 夕の光の中を、カイルは一人で中市街まで歩いた。


 アルブレヒト邸の錆びた門の前で、一度だけ立ち止まった。門は、相変わらず閉まらないままそこにあった。エリアが春に「素敵ですね」と言った門だった。


 門を押した。玄関の扉の前に、エリアが一人、立っていた。外套を手に持っていた。カイルが脱ぐのを手伝うために待っていたらしかった。


 「お帰りなさい、カイルさん」


 声は落ち着いていた。急がない声だった。


 カイルは外套を脱いだ。脱ぐ時、指先がかすかに冷えていることに気づいた。エリアは外套を受け取って、玄関の脇の壁の釘に掛けた。掛け終わってから、カイルの方を一度だけ見上げた。


 「食卓の準備ができています」


 それだけ言って、エリアは先に食堂の方へ歩いた。カイルは三歩遅れてその後に続いた。遅れた三歩の間に、今朝からの時間の重さが、床の石畳に一度だけ降りて、また持ち上がった。





 食堂の扉を開けた時、思いがけず、部屋の中に人が多かった。


 ミレナが鍋の前に立ち、リーネが皿を並べ、ラウルが——今夜はなぜか離れから出てきて——窓際に椅子を寄せて座っていた。左目で卓の上を眺めていた。


 そして、食卓の端に、もう一人いた。


 獅子の髪の男だった。短い上着の上に、布の包みを一つだけ膝の横に置いていた。包みは小さかった。その中身が何かは訊かなくても分かった。今日、家を失った男の荷物の大きさだった。


 レオは、カイルが入ってきた気配に気づいて、立ち上がろうとした。だがラウルが、それを遮るように、椅子の上から雑に言った。


 「カイル。今夜から、こいつここに住む」


 ラウルの声は、普段の「あんた」の調子だった。


 「部屋は、上の東の端の小部屋が空いてる。ミレナが、あそこでいいって言った」


 ミレナは鍋の前で振り向かずに、短く付け加えた。


 「お客の扱いは今夜で終わり。明日から、家の者の一人。——食事の時は、同じ卓に座ること」


 それで終わりだった。議論はなかった。——議論の必要がなかった。この屋敷の受け入れ方は、そういう形をしていた。


 カイルは一度だけ、短く頷いた。


 「レオ」


 「……ああ」


 「よろしく頼む」


 「こちらこそ、カイル」





 六人が卓に着いた。


 ミレナの鍋の湯気が立ち上っていた。高原の冬の根菜と、少しの塩漬け肉の匂い。リーネが椀によそって、一人ずつ配っていった。配る順番は、ミレナ・ラウル・レオ・エリア・カイル・最後に自分。カイルの前に置かれた椀の湯気が、顔の前に立ち上ってきた。


 湯気の湿りが、葬送の朝からずっと掌に残っていた石の温度の上に、静かに重なった。


 石の温度と、湯気の温度。二つの温度が、同じ掌の中で、少しだけ違う高さで鳴っていた。午前の温度は、オルデンの残り。夕方の温度は、今夜ここにいる五人の残り。二つの温度の間に、今朝から今夜までの一日の距離があった。


 レオが椀を持ち上げて、短く言った。


 「いい匂いだな、これは」


 獣人族の太い声だった。場違いに明るかった。しかしその明るさは、今夜の食卓には必要な明るさだった。リーネが小さく笑った。ミレナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。ラウルは卓の一点を見たまま反応しなかったが、椀を取った手だけは少しだけ早く動いていた。エリアは「いい匂い」という言葉の意味を観察するように、湯気の方に一度だけ鼻先を向けた。


 カイルは椀を両手で包んだ。


 両手で包む所作は、オルデンから受け継いだ型だった。十三年の間、あの人が毎朝茶碗に対して繰り返していた所作。今夜、自分の掌の中にその型が降りてきていた。降りてきたことに、自分でもしばらく気づかなかった。


 椀の中の湯気を、一度だけ深く吸った。


 今夜は、六人だった。

老宰相オルデン・ドレーヴェン、ここに退場です。

第一章から物語を支え続けてきた老人を見送り、第二の戦いを背負って歩き出すカイルの最初の章にお付き合いいただき、ありがとうございました。「託す」と「託される」のあいだに立つ重さが、これから先の章を支える芯になっていきます。

ここまで長くお読みいただいた皆様で「この静けさが好きだ」「先が気になる」と感じていただけましたら、ぜひページ下の【★(評価)】や【フォロー】で応援していただけると、執筆の何よりの励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ