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第58話 工房街の朝

夏の朝の工房街は、音と匂いで満ちていた。


 炉の赤い光が通りの両側から漏れて、石畳の上に細長い帯を作っていた。鎚の音。鞴の風の音。金属を冷やす水の蒸気の立ち上る音。焦げた油の匂い。湿った石の匂い。鉄の匂い。カイルは通りの入口で一度立ち止まり、それらを体に入れた。


 春に宰相府の窓越しに見ていた煙突の列の下に、今朝は自分の足が立っていた。冬の間は火を落としていた工房街の炉が、今朝は全て動いていた。


 隣でルッツが帳面を広げていた。


 「殿下。この二月で、稼働中の工房は百四十七から百八十六へ。新規に火を入れた炉は三十九。うち二十一は旧主が戻ってきたもの、十八は新規参入です」


 「新規参入の十八は」


 「十三が下市街の元工員の共同出資。三つが地方から流入。二つが——」


 「商家から」


 「そうです」


 先を引き取ったのはカイルの声ではなかった。少し後ろから歩いてきたメルケンが、軽い笑いを含めて言った。麻の外套の裾に、街道の埃がついていた。





 メルケンはカイルと並んで歩き始めた。


 「その二つの商家、私の知らない家です。中市街の北の古い木材商家と、南の穀物商家。どちらも息子の代に代替わりして、炉に金を回し始めました」


 「昔なら」


 「考えられなかったことです。商家が炉を持つのは身分違いだった。旧貴族の工房だけが熱を使っていい、という不文律がありました。殿下のご尊父の時代までは、ですが」


 メルケンは通りの奥を顎で示した。低い石造りの工房が連なっていた。どの入口も開け放たれていた。中で動いているのは、老いた職人ではなく、若い手ばかりだった。


 「ここの若い手の八割以上が、昨年まで記録石を持っていなかった者です。記録石を手にした瞬間、彼らの前に新しい世界の門が開いた。——その門を開けたのは、殿下のご決断です」


 「決めたのは私ではありません。閣下です」


 「閣下はもう決裁の紙に印を押すだけです」


 メルケンはそこで、少しだけ歩みを緩めた。


 「動かしているのは殿下です。——商人はそれを、鎚の数で数えます。私のところにも、この半年で五つの工房から取引の相談が来ました。メルケン商会の名前で穀物と織物を運んできた経路を、今度は造形サービスの仲介に使いたいという話です。——商家が商家を呼ぶ時代が来ています」


 メルケンは歩きながら、通りの左右を一度だけ見た。成長畑具で変わった周辺農村からの荷馬車が、以前よりも多く石畳の上を軋んでいた。記録石の配布が増えるごとに、工房街の鎚の数も、農村から入ってくる作物の量も、同じ速度で動いていた。


 カイルは反論しなかった。体の中で何かが少しだけ重くなった。それだけだった。





 通りを進むと、一つの工房の前に人だかりがしていた。


 十数人の工員と、近所の家人らしい女たちが、入口の前に集まっていた。誰かが手を差し出し、別の誰かがその手に何かを押し当てていた。カイルは人垣の肩越しに覗き込んだ。


 工員の右の掌に、赤い線が一本走っていた。深い切り傷だった。鎚の滑りで刃物の背に当たったものらしかった。血が滲んでいた。


 その傷の上に、小さな石が置かれていた。


 石は魔素造形炉の部品でもなく、記録石の形でもなかった。掌に収まる大きさの淡い乳白色の石。表面に細い線が幾筋も走っていた。ヴァレンの筋だ、とカイルはすぐに分かった。ラグリスで見た手が描く線と、同じ角度だった。


 傷の上の石が、ほんの微かに温度を持っているらしかった。表面の色が、一呼吸の間にゆっくり変化した。乳白から、ごく薄い淡紅へ、そしてまた乳白に戻った。


 工員が右の掌を開いた。赤い線は細くなっていた。完全には消えていなかった。だが血の滲みはもう止まっていた。


 周りの女の一人が、小さな息を漏らした。ため息ではなく、祈りに近い息の仕方だった。





 カイルは人垣から一歩下がって、石の置かれた台の脇に立っている若い男を見た。


 痩せた男だった。若い竜人族——若年期の六十代。顔に疲労が浮かんでいたが、目は覚めていた。手に薄い帳面を持ち、石が色を変えた時間と、戻った時間と、傷の浅さを細かく書き留めていた。


 カイルは男に近づいた。


 「ヴァレン殿の」


 「はい。ヴァレン先生の弟子です。オストーフから先月、呼ばれて参りました」


 若い声だった。素早い会釈。ブランド老人が見つけた三人の芽の二人目——オストーフの工房街から、炉の温度差を肌で覚える若者。先月、カイルはヴァレンの口から名前を聞いていた。名前は知っていたが、顔は今が初めてだった。


 「この石は」


 「軽い傷を、肉の方からゆっくり塞ぐ石です。重症には効きません。浅い切り傷、擦り傷、骨まで届かない打ち身——そのあたりが今の範囲です。ヴァレン先生とラウル様の手で、ここ半年ほど試作を重ねています」


 「今日のこの工員は、試作の被験者ですか」


 「いえ」


 男は軽く頭を下げて笑った。疲れた笑いだったが、嘘のない笑いだった。


 「この工員は、今朝、本当に切ったんです。工房の中で。誰かが叫んで、私がたまたま近くにいたので、試しにこの石を持ってきました。——動くかどうか、ぶっつけでした。動きました」


 男は帳面の端に、今朝の時刻と工員の名前を走り書きで足した。筆の動きは遅くなかった。動く手だった。





 カイルの右手が、無意識に腰の帯に伸びた。


 何も掴まずに、帯の上で指が止まった。昔、剣を吊っていた場所だった。指はそこで一瞬だけ止まり、それから戻った。——何も言葉にはならなかったが、帯のその一点の意味が、今朝、少しだけ変わった。


 カイルは工員の掌をもう一度見た。赤い線の跡。それから石に目を移した。


 「この石は、何と呼ばれていますか」


 男は一瞬迷った顔をした。


 「……まだ名前がありません。ヴァレン先生はただ『塞ぐ石』とだけ」


 「名前は、普及してから決まるものでしょう」


 「そう思います」


 カイルは頷いた。人垣から離れる時、石の周りの女たちの顔を一度だけ見た。誰一人、驚いていなかった。驚きではなく、安心の顔だった。もうこういうことが起こり始めていて、それが日常の一部になり始めている、という顔だった。


 春には、この顔はなかったはずだ。





 工房街の中ほどに、メルケン商会の小さな詰所があった。石造りの二階建て。メルケンはカイルとルッツを二階の小部屋に通した。窓の外に工房の屋根が連なっていた。遠く屋根の隙間から、下市街の方角の地脈の塔が微かに見えた。


 卓の上に、メルケンが一枚の紙を広げた。


 「お見せしておきたい数字が二つあります。一つは、昨年と今年の新規工房の数。ルッツの台帳の通りです。二つ目は、これです」


 紙の上には輸出入の短い表があった。品目、月、量、相手国。一番上の行に、記録石の輸出量が書かれていた。列は二つ。二ヶ月前までは空欄だった。先月と今月、初めて小さな数字が入っていた。


 「記録石が、外に」


 「出始めた、という段階です。量はまだ少ない。試験的な取引だけです。殿下のお耳に入れるまでもない、と閣下は考えておられるかもしれません」


 メルケンの指が、表の次の行に下りた。


 「もう一つ。育成補助の予約数です。家畜の成長を早める試作の品を、ラウル殿が春先から試しておられる。工房街ではまだ見えませんが、郊外の牧の側から、先月、六件の事前予約が来ています。物はまだありません。物のない段階で予約が来る、というのが、数字の奥の動きです」


 「六件」


 「六件です。同じ物が十件に増えた時、百件に増えた時、千件に増えた時——その時の世の中は、今の世の中とは違う世の中です」


 メルケンは一度、窓の外の屋根を見下ろした。


 「私はこの仕事の時、三年先を見るのと同じ目で十年先を見ます。更に同じ目で、三十年先を見るふりをしています。見るふりを止めた商家から店を畳みます」


 「三十年先、見ていらっしゃいますか」


 「見るふりをしているだけです、と申し上げたでしょう。——ただ、殿下のお耳に一つだけ置いておきます。この国は、魔素を外に出す国になります。出さない国に留まることはできません。出せば、外で使われます。使われれば、使った者の手が強くなります。避けられない輪郭です」


 警告の声ではなかった。遠い山の稜線を指す商人の声だった。カイルはその声の調子を記録した。記録しただけで、返事はしなかった。返事ができる声ではなかった。





 その日の午後、宰相府に戻って、カイルはルッツに短く指示を出した。


 「官営工場の民間移管、第二波を開始する。対象は一の巻の末尾に記した二十七工場。期日は三月後」


 ルッツは帳面を開いて、一行書いた。それから顔を上げずに、もう一言だけ確かめた。


 「二十七。殿下、末尾の欄外に鉛筆で追加された二工房は、含みますか」


 「含む」


 「承知しました」


 ルッツの筆が一度だけ帳面を叩いて、話は終わった。それだけのことだった。だが、自分の口から出た短い言葉が、二十七の工場を動かす。昨日まで紙の上の数字だったものが、今日から街の中の音と匂いに変わる。変える側に自分の口がある、という事実が、体の中で一つだけ動いた。重くない動きだった。軽くもない。ただ、昨日までと位置が違うことが、指の感覚でだけ分かった。





 夕方、アルブレヒト邸の書斎に戻る前に、カイルは一度だけ工房街の方角を見た。


 夕の光の中で、工房の屋根から細い煙が幾筋も立ち上っていた。朝よりも数が多く見えた。気のせいかもしれなかったが、気のせいでないような気もした。


 書斎に戻って、机の上の辞令の紙と提案書の隣に、三枚目の紙を置いた。真ん中に一行だけ書いた。——「塞ぐ石」。


 書き終えた時、左の掌の真ん中に、微かな温度の記憶が蘇った。朝、人垣の中で、工員の掌を見た瞬間にその位置に移った何か——乳白色が淡紅になり、また乳白に戻る一呼吸の重みが、自分の掌の同じ場所に残っていた。触ってもいないのに、触った跡だけがあった。


 カイルは左の掌を一度だけ閉じて開いた。


 跡は消えなかった。消えないうちに、紙の上の三文字の隣に、もう一行、小さく書き足した。——「育成補助、六件」。


 名前のない石と、物のない予約と。二つの行が、辞令の紙と提案書の隣に並んだ。


 窓の外で、千年の木の葉が夏の夕の風に揺れていた。葉の擦れる奥に、工房街の鎚の音がまだ微かに混じっていた。

【豆知識:獣人族の医術伝統——戦闘術を内向きに折り返す】


獣人族は本来、魔素を体内で燃やして身体を強化する種族です。戦場では爪・牙・速度・痛覚遮断として外に放たれる力ですが、マルカ諸国の中には**外向きの戦闘ではなく内向きの治癒に転用する伝統**を持つ亜種が古くから存在します。

レオが受け継いだ獅子型の医術はその系統の一つで、按摩・薬草・呼吸法・針・体操・食事療法という「魔素を使わない」表面の下に、身体を燃やすことを最小限の循環として体内に閉じ込める身体観があります。彼が一生かけて書き進めている秘伝書は、戦士の身体強化術を医術の側に折り返した記録で、若い研究者たちにとっての観察対象でもあります。

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