第57話 研究機関の構想
初夏の早朝の書斎に、紙の上を走るペンの音だけがあった。
窓は少し開いていた。外から湿りを含んだ風が入り、机の上のインクの匂いと、中庭の若葉の匂いが混ざっていた。カイルは昨夜から寝ていなかった。机の上には、ルッツの引継ぎの一の巻が開かれたままだった。国営工場の生産記録。品目ごとの月産量。工員の名簿。記録石の配布先。どの頁も角が揃っていた。
三日前に頁を開いた時は、数字の線を目で追いかけていた。昨日の夕方、その線が途切れていることに気づいた。
途切れている、と言うのは正確ではない。月産量は上向き、記録石の配布先は増え、工房街の炉の数も増えている。しかし——その数字を作っている側の、人の数が増えていない。
ヴァレンの名前は一つだけだった。ラウルの名前も一つだけだった。二人の手から、数千の手が生まれている。数千の手が増えても、二人は二人のままだ。
東の離れの方角から、鉛筆の音が微かに届いてきた。ラウルが設計図を引いている音だった。夜通し引いていたのか、早朝に起き出したのか、どちらかは分からなかった。カイルは鉛筆の音を一度だけ聴き取って、それから自分の机に戻った。
新しい紙を一枚、手前に引き寄せた。文案の紙ではない。自分の考えを整理するための紙だった。真ん中に一本、縦の線を引いた。線の片側に「操作」、もう片側に「設計」と書いた。
操作の側には、一の巻から拾った数字を書き写した。形成術師の人数、記録石の配布枚数、稼働中の炉の数——線の下にどんどん数字が並んだ。
設計の側には、二つの名前だけが書けた。ヴァレン。ラウル。
それ以上は書けなかった。
筆を置いた。線の片側は重く、もう片側は軽かった。——この二人が、何かの拍子に手を止めたら、線のこちら側の数字は翌月から止まる。
数字を見ていて初めて、体で分かった。
もう一枚、新しい紙を引き寄せた。設計の側だけを写した。ヴァレンの名前を左、ラウルの名前を右。真ん中に縦線を引いた。同じ「設計」の中にも、二つの違う種類があるように思えた。
ヴァレンの側の余白に、一言だけ書いた。——「継げる」。旧貴族の家系、少年期の徒弟、マルゴからルッツ、そしてオルデンへ渡ってきた半世紀近い継承。その全てが、筋という一つの言葉に畳まれていた。畳まれているものは、解けば誰かに渡せる。
ラウルの側には、長く筆が止まった。ラウルの筋がどこから来たのか、カイルは知らなかった。昨年の春、ラグリスで村の子供たちの中から見つけ出した数日の記憶が、浅く浮かんだ。村を一軒ずつ当たった。筋の良さそうな子を、二十人ほど見た。その中に、一人だけ、違う子がいた。
ラウルの側の余白にも、一言だけ書いた。——「発掘」。
継げるものと、発掘されるもの。同じ「設計の手」でも、増やし方はまったく違う。——そして、発掘は続けても、発掘される者の数そのものは、今の国の姿のままでは増えない。眠っている十人を早く見つけるだけで、十一人目は別のところから生まれなければならない。
その考えが机の上に落ちた時、カイルは紙の下の余白に、もう一言、小さく書き添えた。
——「学校」。
今日の話ではない、と自分で分かっていた。しかし、今日の紙の隅に置いておかなければ、後で思い出せなくなる種類の一語だった。
中庭の方で、水を汲む音がした。エリアだった。朝の観察の前に井戸で顔を洗う習慣が、最近できていた。カイルは一度だけ窓の外を見下ろした。千年の木の下で、エリアが屈み、地面の何かを指でつついていた。急がない人だ、と思った。急がないのに、毎朝同じ時刻に外にいる。
カイルは机に戻り、紙の上辺に一行だけ書いた。——「魔素研究機関、設立の要」。
一行書いたところで筆が止まった。書き進めるには、もう一度オルデンと話さなければならなかった。
四の刻。カイルは宰相府の廊下を、自分の執務室からオルデンの部屋に向かって歩いていた。朝の巡回はまだ始まっていない時間だった。廊下の端で、掃除夫の老人が一人、ほうきを止めて壁際に寄った。カイルが軽く会釈すると、老人は深く頭を下げて、そのまま壁に身体を寄せていた。——補佐官の辞令が通ってから、廊下の人々の動きが少しだけ変わった。その変化を、カイルはまだ体で受け止めきれていない。
執務室の扉を叩いた。
「入れ」
低い声。朝の声だった。
オルデンは窓の前に立っていた。茶は淹れていなかった。机の上には昨夜の書類がそのままになっていた。
「早いな」
「朝のうちに、ご相談したいことが」
「座れ」
カイルは机の前の椅子に座った。手の中には、昨夜書いた数字の図と、設計側を二つに割った紙と、提案書の一行だけ書かれた紙——三枚の紙があった。
「一の巻を読みました」
「全部か」
「三割ほどです。数字の続きが、私には見えません」
オルデンは窓から向き直って、机の向こう側の椅子に腰を下ろした。座るまでの動作は先日と同じ三段階だった。——三段階の間の呼吸の間合いが、先月より半拍だけ長かった。カイルは気づかないふりをした。
「見えぬ、とは」
カイルは三枚の紙を机の上に、順番に並べた。オルデンは数字の図の方を先に見た。操作と設計の線。片側に並んだ数字。もう片側の二つの名前。
しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「——お前が自分で描いた図か」
「はい」
「続けろ」
カイルは、一度だけ口に出した。
「生産の手は、記録石で増やせます。設計の手は、増やせません。今の数字の天井は、記録石の枚数ではなく、ヴァレン殿とラウルの疲労の量です。このままいけば、数字は二人の体力が尽きた日に止まります。——止まった日にこの国が何を持っていないかで、次の十年が決まります」
オルデンの目尻の皺が、少しだけ動いた。先日の辞令の朝と同じ動き方だった。
「それで、お前は何を提案する」
カイルは、二枚目の紙——設計の側を二つに割った紙——を前に押し出した。
「設計の手は、一つではありません。二つあります」
オルデンの視線が、二枚目の紙の上で止まった。
「ヴァレン殿の筋と、ラウルの筋。この二つは、同じ『設計』の側にいますが、増やし方がまったく違います」
カイルは指を、紙の左側——ヴァレンの名前——の上に置いた。
「ヴァレン殿の筋は、旧貴族が数百年かけて積み上げた魔素運用の知識が、一つの身体に結晶したものです。筋を解いて紙にすれば、継げる者は育てられます。——そしてヴァレン殿自身、この十年、国営工場や民間の工房に、非公式に筋を渡してこられた、と聞き及びます。数は分かりません。しかし、ゼロではない。あの非公式の継承を、正式な徒弟制度にし、紙の上に残す場所が要ります」
指を、紙の右側——ラウルの名前——へ移した。
「ラウルの筋は、違います。あれは家系や徒弟の筋ではなく、偶然の発生です。探して見つけるものです。探し方は、組織化できます——私が昨年ラグリスで村を一軒ずつ当たった数日のやり方を、全領に広げ、毎年続ける形にすれば、見つかる速度は上がります。今は私一人の記憶の中にしかないやり方を、紙と組織の上に置き直します」
「何人増える」
「見つかる速度は上がります。しかし——母集団は変わりません」
カイルはそこで一度、言葉を切った。オルデンの視線がラウルの名前の横の余白に落ちていた。そこにある「発掘」の一語を、オルデンは指でなぞるようにして見ていた。
「仮に今、この国の中にラウル級が十人眠っているとして、組織的な発掘はその十人を早く見つけるだけで、十一人目は生まれません。十一人目を生む方法は、別の紙にあります」
カイルは三枚目の紙——「魔素研究機関、設立の要」と一行だけ書かれた紙——の下に、昨夜書き添えた一語を、指先で示した。
「学校」、とそこに書いてあった。
オルデンは、その一語を見て、眉を少しだけ動かした。
「学校」
「はい。——ラウル級を発掘しても、母集団は変わりません。母集団を増やすには、子供のうちに魔素に触れる場所が要ります。読み書きと同じ順番で、魔素を学べる場所です。——中等教育に相当する、魔素の学校です」
オルデンはしばらく何も言わなかった。机の上の三枚の紙を、視線だけで順番に見渡した。それから、椅子の背に身を預けた。
「——それは、今日の話ではあるまい」
「はい。今日の話ではありません。今日は、機関の話です。しかし機関が知識を体系化し終えた頃——三年、あるいは五年先——その次に要るのは、学院です。順番は、機関が先、学院が後。機関の中で体系化された知識が揃ってから、学院を始めます。学院が育てた子供たちの中から、また新しい発掘の対象が生まれます。機関と学院は、別の時間軸で、同じ一つの国の手を育てます」
オルデンの指が、三枚目の紙の「学校」の一語の上に止まった。
「——今日は、この一語を紙の隅に置くだけでよいのか」
「はい。今日はこの一語を、紙の隅に置くだけです。紙の中央には、機関の話を置きます」
オルデンは一度、短く息を吐いた。——吐いてから、頷いた。
「よい。今日、私はこの紙の中央と、紙の隅の一語と、両方を一緒に引き受ける」
カイルは深く頭を下げた。昨夜から胸の奥に畳んでいたものが、ひとつだけ動いた。
顔を上げて、もう一言だけ付け加えた。
「——機関は、三つの仕事を同時に持ちます。ヴァレン殿の筋を紙に残し継がせる仕事。ラウル級の発掘を組織化する仕事。そして三つ目は、魔素そのものを学問の形に整える仕事です。三つ目は、前の二つから自然に落ちてくる残滓のようにも見えますが——後日の学院のための、土台です」
オルデンはもう一度、深く頷いた。
「——お前は、今日の一枚の紙で、十年先までを引き受けるつもりか」
「十年先までを、今日の一行目に書き込んでおくだけです。引き受けるのは、今日の機関の話です」
オルデンは机の上の紙を、指で一度だけ叩いた。先日の辞令の朝と同じ叩き方だった。
「名は」
「魔素研究機関。仮称です」
「責任者を誰にする」
「ヴァレン殿を」
オルデンはその名前を聞いて、少しだけ目を閉じた。長くはなかった。だが、昨夜までカイルが知らなかった種類の沈黙だった。
「——あの男は、手を動かしたい男だ」
「存じております」
「手を止めて人を育てろ、と言うのか」
「止めろとは申し上げません。動かしながら育てる形を、ヴァレン殿と一緒に考えさせてください」
オルデンはもう一度、数字の図を見た。操作の側の数字を指で追い、設計の側の二つの名前のところで指を止めた。
「——いい。進めろ。呼べ。私も同席する」
カイルは一度だけ息を吐いた。吐いてから、吐いたことに気づいた。
ヴァレンがラグリスから宰相府に着いたのは、三日後の夕方だった。
宰相府の小応接室。窓の外では中市街の煙突に夕の煙が細く立っていた。オルデンが奥の席に座り、カイルがその隣に座り、ヴァレンは向かいに座った。眼鏡の奥の目は、旅の疲れで少し赤かったが、視線は落ち着いていた。
「呼ばれて参りました」
ヴァレンは一言そう言って、膝の上に手を置いた。職人の手だった。指の節が太かった。
カイルは昨夜書いた提案書を、伏せた状態で机の上に置いた。読まなくてよい、という意味だった。
「ヴァレン殿。宰相府は、独立した研究機関を作る方針です。魔素の設計を担える者を、国として組織的に育てる場所を。——その機関の初代の責任者を、貴殿にお願いしたい」
ヴァレンは少しだけ顎を引いた。言葉の意味を頭の中で一度ほどいてから、もう一度組み立て直すような間があった。
「——責任者、というのは」
「人を選び、育て、成果を残す側です」
「私は、手を動かす側の人間です、カイル殿」
声は低かったが、拒絶の声ではなかった。ただ、自分の形をカイルに差し出して、その形とこの話の形が合っていないことを正直に見せているだけの声だった。
オルデンは何も言わなかった。椅子の背に身を預けて、ヴァレンの顔を見ていた。カイルに任せる、という目だった。
カイルは、昨夜からもう一つ用意していた問いを出した。
「ヴァレン殿。この十年で、貴殿の周りで手を動かしてきた若い者の中に、貴殿の筋を継げる芽を、何人、見てこられましたか」
ヴァレンは、その問いに一瞬だけ目を上げた。それから、少しだけ長い沈黙が落ちた。夕の光が窓から斜めに入って、ヴァレンの眼鏡のレンズの端に小さな円を作った。
「——三人、おります」
カイルは頷きも急かしもしなかった。ヴァレン自身が一番、この三人の名前を自分の口で並べることを必要としている、と体で分かった。
ヴァレンはゆっくりと、一人ずつ名前を出した。
「一人は、ラグリスの近くの村の若い娘です。粉屋の娘で、紙も満足に読めませんが、形成の筋を指で見ることができます。今は私の工房で石の整形を手伝っています。二人目は、オストーフの工房街にいます。ブランド老人が見つけてきた若い男で、炉の温度差を肌で覚える。——三人目は」
ヴァレンはそこで、一度だけ窓の外を見た。
一瞬のつもりだった、と後から見れば言えた。だがその一瞬は、部屋の時間より少しだけ長かった。
「——エマヌ、です」
室内の空気が、少しだけ止まった。
カイルの手元の紙に、インクが一滴だけ落ちた。筆先を紙から離していなかった。インクは紙の右端に小さな丸い染みを作った。カイルは染みを拭わなかった。
「エマヌ、は、死にました。私の手元で、五年です。五年で、貴族の家系なら十年かけて身につける筋をほぼ持っていました。……私はあの子の筋を、誰にも伝えていません。あの子のやり方を、紙にしていない。頭の中で、もう色が薄くなり始めています」
ヴァレンはそこで、もう一度、膝の手を組み直した。指の節が少しだけ白くなった。
「——あの三人の芽を、組織化する、ということですか。カイル殿のおっしゃる機関は」
「はい。三人のような芽を、この国の全ての村と工房街から見つけ出して、一人ずつ、貴殿の筋を伝える場所です。そして貴殿の筋そのものを、紙の上に残す場所でもあります。——エマヌ殿の筋を、残せる場所です」
ヴァレンは、しばらく何も言わなかった。
オルデンも何も言わなかった。カイルも黙っていた。三人の沈黙の底で、夕の光が少しずつ退いていくのが分かった。
やがて、ヴァレンが短く息を吐いた。
「……分かりました」
声は低く、しかし断ち切られていなかった。
「私の手は、もう一人の弟子を失うには、遅すぎました。——三人の芽を、国が守る形にしてくださるなら、私はそちら側に立ちます」
オルデンが初めて、ヴァレンの名前を呼んだ。
「ヴァレン」
「はい、オルデン宰相」
「お前の手は止めるな。機関の中で、まだ動かしていい。手を動かしながら、三人の芽と、その次の三十人の芽を、育てろ」
ヴァレンは深く頷いた。頷いた後、眼鏡の下で、目元が一瞬だけ濡れていたように見えた。見えた気がしただけかもしれなかった。カイルはそれ以上見なかった。
その夜、アルブレヒト邸の書斎で、カイルは机の上に三枚の紙を並べた。
朝の辞令の紙。数字の図。そして今日の提案書。辞令の紙は、上から誰かに渡されたものだった。提案書は、自分の中から出てきたものだった。
指を辞令の紙の縁に置いた。次に、提案書の縁に置いた。同じ力で触れたはずなのに、指の腹に伝わってくる紙の張りが、二枚で少しだけ違った。辞令の紙は厚く、硬く、他人の熱の残りがあった。提案書の紙は薄く、柔らかく、自分の掌の温度をまだ覚えていた。
重さではない。張りだった。
提案書の下の余白に、朝に書き添えた一語がそのまま残っていた。——「学校」。今日の紙の中央ではなく、紙の隅にある一語だった。その一語は、今日の話ではなく、三年か五年先の話だった。だが、今日の紙の上に既にある。
窓の外から、エリアとリーネの声が微かに届いた。中庭の木の下で、エリアがリーネに何か植物の名前を教えているらしかった。台所の方からはミレナが何かを刻んでいる音。東の離れからは、相変わらずラウルの鉛筆の音。
——鉛筆の音は、朝と同じ場所から聞こえていた。朝からずっと、ラウルは同じ図を引き続けていたのだろうか。それとも、一枚描いて、次の一枚を始めていたのだろうか。
カイルは提案書を、一の巻の隣に置いた。明日からの机の上に、自分で書いた一枚を並べた形だった。
明日、もう一度この紙を開く。ヴァレンの三人の芽の名前を、自分の手で書き留める。エマヌの筋を、紙の上に残す工程の第一行を書く。——その筆運びは、ラウルの鉛筆の音とは別の音で、同じ夜に動き続ける。
そして、その筆運びの終わりに、紙の隅の一語を、毎夜一度、目で確かめる。
窓を閉める前に、初夏の夜の空気を一度だけ部屋に入れた。




