第56話 補佐官の朝
春の光が、机の上の書類の山の角を斜めに照らしていた。
宰相府の北向きの執務室。石の床はまだ朝の底冷えを残していた。カイルは窓を開けた。風は少し湿りを帯びている。高原の雪解けが始まっていた。
机の上の書類は、昨夜のうちにルッツが運び込んだものだった。一番上の束には紙紐が掛けられ、薄い木札にルッツの角張った筆跡で一言——「殿下、引継ぎ一の巻」。
一の巻、ということは二の巻も三の巻もあるのだろう。カイルは束の側面を指先でなぞった。二十冊近い帳面の背が、横に並んでいた。実際の重さは伝わらなかったはずだった。だが、木の机の縁を通じて、紙の厚みが指の腹に重さとして届いてくる気がした。
「殿下」
扉の方からルッツの声がした。返事を待たずに入ってくる。その権利を持つのは、宰相府で今やルッツとトーヴァの二人だけだった。
「八の刻に閣下が下りられます。正式の辞令をここで渡される、と」
ルッツは机の端に新しい束を置いた。角が揃っていた。
「一の巻が工場と生産、二の巻が四ヶ国との実務引継ぎ、三の巻が国内の予算執行。四の巻以降は、本日の昼までに順次運びます」
「ルッツ」
「はい」
「——この量を、閣下は一人で」
ルッツは一瞬だけ間を置いた。それから、いつもの事務的な声で答えた。
「閣下は永きにわたり、一人で運ばれました。本日よりは、殿下の机の上にあります。それだけのことかと」
それだけのこと、と言われて、カイルは小さく頷いた。そういう言い方でしか気遣いを伝えないルッツを、七年かけて読めるようになった。
八の刻。オルデンが廊下を歩いてくる足音がした。以前より少し遅い。以前より少し重い。カイルは扉の前に立って待った。
扉が開いた。オルデンは机の上の書類の山を一目見て、目を細めた。
「積み過ぎだ」
「ルッツの仕事です」
「ルッツにしては控えめのほうだ。——辞令だ」
オルデンは懐から薄い紙を一枚取り出し、机の上に置いた。正式な辞令用紙。国印が押されている。本文は三行だけだった。アストラード宰相府補佐官にカイル・ヴァルドラークを任ずる。実務の委任の範囲は別紙による。
別紙はなかった。
「別紙は」
「ない」
「範囲は」
「全てだ」
オルデンはカイルを見た。朝の光の中で、その目は昨夜よりも少し明るかった。
「名目上の宰相は私だ。決裁は私の名で出す。それ以外は、お前が動かせ。線を引けば、引き直す手間が増える」
カイルは辞令を両手で受け取った。紙は軽かった。軽すぎる、と思った。三行の文字と一つの印だけで、机の上の二十冊が正式に自分のものになる。昨日までは閣下の書類だった紙が、今朝からは自分の手で動かすべき紙になっていた。境界は一晩で引かれた。——境界の、あちら側に立っている自分の体を、まだ自分で確かめきれていない。
「……承りました」
カイルは短く答えた。その場に相応しい言葉が他に出てこなかった。正式の辞令に「承知しました」で返すのは違うと、体のどこかが言っていた。承るという言葉の古い重みが、今朝の紙の軽さと釣り合う気がした。
オルデンは頷いただけで、何も言わなかった。だが一瞬、目尻に微かな皺が増えた。笑ったのかもしれない、と後でカイルは思った。今朝の時点では、まだ判断がつかなかった。
「——もう一つ、今日来る者がある」
オルデンは窓の方を見ていた。
「エテルネアの学術院からだ。植物学の若い研究者。名はエリア。お前のほうで迎えてやれ」
「共同研究の名目で、と」
「それで通す。実際、彼女はそれを仕事として来る。嘘にはならぬ」
声の底に一瞬だけ別の音が混じった気がした。カイルは聞き逃さなかったが、問わなかった。
「昼過ぎに着く。北門で迎えろ。そのまま中市街のお前の家に連れていけ。部屋はミレナが整えている」
「ミレナには既に」
「昨日のうちに私から話した。驚かせたが、怒りはしなかった」
ミレナが怒らなかったというのは、受け入れた、ということだ。カイルは頷いた。
午前の残りは、引継ぎ三の巻の穀物と記録石の数字を追って過ぎた。数字の列の合間に、先月届いた四ヶ国の実務報告の束が差し込まれていた。コヴァルドの穀物取引は順調、マルカからの医術者が先週到着、エテルネアとの書物交換は夏までに成立見込み、レガリオンとの現地協議は来月——どれも昨日まではオルデンの机にあった紙だった。今朝、それらは全て自分の机の上に移っていた。
昼少し前、メルケンが一人で訪ねてきた。外套の裾に中市街の砂埃がついていた。
「殿下、おめでとうございます」
「メルケン殿。今日はどうされました」
「用があって来たのではありません。——朝一番の顔を、どの役人が見るかを、見に来ました」
メルケンは軽く笑った。商人の笑い方だった。
「数字は三の巻に入れておきました。穀物と記録石と、工房街の新規工房数。昨夜のうちにルッツに預けました」
「……三の巻」
「四の巻ではありません。三の巻です。三番目に読んでください、という意味です」
メルケンは窓の外の市街を見下ろした。遠く、中市街の方向に煙突の列が見えた。冬の間は止まっていた工房街の炉が、春の再起動を始めていた。
「特需の尻拭いは去年で終わりました。ここからは、民需の水がどれだけ深くなるかの話です。数字はまだ浅い。しかし、浅いなりの形が見え始めています」
「浅いなりの形、とは」
「それは三の巻で」
メルケンは頭を下げて、出ていった。
昼過ぎ、カイルは北門に立っていた。
北門は古い貴族街と王都の街道を結ぶ門で、外交使節が使う正門よりも地味だった。オルデンは正門を使わせなかった。エリアが「外交使節」ではなく「一人の研究者」として来ることの、最初の印だった。
馬車が門をくぐってきた。紋章のない二頭立ての乗合馬車。中から長身の女が一人、荷物を抱えて降り立った。
銀に近い淡い金の長髪が背に流れていた。角がなかった。手の甲に鱗の名残もなかった。服は簡素で、深い緑と灰の布地。ポケットが多かった。片手に小さな革の観察ノートを持っていた。旅の最後の一行を書いていたのか、ノートは開いたままだった。
エリアはカイルを見つけると、軽く会釈した。大げさでない、丁寧な所作だった。
「カイルさんでいらっしゃいますか」
「はい。カイルと申します。遠いところ、ようこそ」
「エリアです。エテルネア学術院の植物学研究科、オルデン宰相閣下のご紹介で参りました」
声は落ち着いていた。少しだけ低い。急がない声だった。
エリアはカイルの視線が自分の観察ノートに一瞬留まったことに気づいて、ノートを閉じた。開かれた頁には、馬車の中で揺れながら書いたらしい細い字が三行並び、隣に街道沿いで見たらしい小さな植物の素描があった。
「今朝、街道の石の隙間に、根の張り方が面白いものを見つけました。——失礼、まだ挨拶の途中で」
「構いません」
カイルは少しだけ、本当に少しだけ、口角が動くのを感じた。それが笑いと呼べるものかは、自分でも分からなかった。
中市街への道を、二人で歩いた。
エリアは歩きながら街並みを見ていた。王都の石畳が上市街で整い、中市街で崩れ、崩れたままの石畳のほうが歴史の層を見せていること——それを、彼女は説明されなくても気づいていた。
アルブレヒト邸の錆びた門の前に着いた時、エリアは門の蝶番を見て、少しだけ頭を傾けた。
「この門は、もう閉まらないのですね」
「閉まりません」
「……素敵ですね」
素敵、という言葉をしばらくぶりに聞いた気がした。どう返していいか分からずに、カイルは門を押した。
玄関でミレナが待っていた。
「お帰りなさい、カイル。——エリアさん、ようこそいらっしゃいました」
ミレナの言い方は、知らない客人に対するものではなかった。近所の人を迎えるのに近かった。
「お部屋は西離れの写本の間を整えました。窓が中庭に向いています。朝の光が入ります」
「十分すぎます。ありがとうございます」
リーネが廊下の奥から駆けてきた。小走りの足音が石の廊下に響いた。
「カイル兄、もう着いたの——あ、あなたがエリアさん」
「エリアです。あなたは」
「リーネ。カイル兄の妹です」
リーネはエリアの前に立って、少しだけ背伸びをするようにして見上げた。この家の説明の仕方を、彼女はもう自分の言葉で持っていた。
夕食の前、カイルは一度書斎に戻った。
机の上には朝の辞令の紙が置いてある。紙紐の掛かった一の巻もある。メルケンの言う三の巻も、ルッツが届けているはずだ。
窓を開けた。中庭の樹齢千年の木の梢が、夕光の中で揺れていた。半分ほどの若葉が広がり始めていた。春の葉だった。
廊下の奥から、リーネとエリアの会話が微かに聞こえた。エリアがリーネの絵本の話を聞いている。ミレナが台所で何かを刻んでいる音。東の離れからは、相変わらずラウルの鉛筆の音。
音が、一つ増えていた。エリアの声は家の中でまだ新しかった。馴染まない音だが、馴染まないからこそ、はっきりと聞こえた。
——この門は、もう閉まらないのですね。
門の前のエリアの声が、夕光の中で一度だけ戻ってきた。閉まらないから素敵なのではなく、閉まらないままそこにある、という状態を、彼女は肯定した。
カイルは机の上の辞令に目を落とした。
範囲は全てだ、とオルデンは言った。あの言葉を、今やっと少しだけ分かる気がした。範囲を引くな、と言ったオルデンの目には、一瞬の明るさがあった。引けないものの中に、今日、知らない人が一人入ってきた。ミレナは怒らずに迎えた。リーネは背伸びして挨拶した。——引けないまま、受け入れる。
掌を一度だけ開いた。昨夜までの震えは、今日はなかった。震えが消えたのではない、と分かっていた。今日はたまたま、震えずにいられる日だった。
食堂の方から、初めて聞く笑い声がした。
男の声だった。太くて、遠慮のない笑い方だった。春の夕方の屋敷の中で、その声は場違いなほど明るかった。リーネが何か言っている。ミレナの声が応じている。エリアの静かな問いの声が、合間に挟まれる。
戸口にリーネが立った。
「カイル兄、ご飯できたよ。——ミレナ姉が、変な医者が門のところに来てるって。ラウルを診にきたんだって」
「獅子の髪の男か」
「そう。食事してく、って。ミレナ姉は、鍋を一つ増やしたよ」
カイルは辞令を机の引き出しに仕舞った。一の巻は机の上に残した。
廊下を歩きながら、向こうの四つの声を聞いていた。引継ぎの二十冊と、三行の辞令と、オルデンの「範囲は全てだ」と、四つの声と、閉まらない門。——今日という一日の輪郭が、廊下の足の裏でやっと、自分の形に落ち着いてきた。
食堂の扉を開けた。
【豆知識:「補佐官」という戦後の新しい役職】
戦前のアストラード王政では、宰相府は王・軍部と並ぶ「三柱構造」の一柱として独立した立法府であり、補佐官という役職そのものが存在しませんでした。宰相の下には十数名の参政官が横並びで配置され、それぞれが独立した管轄を持っていたためです。
占領七年で軍部は解体され、王家は実権を失い、宰相府が事実上の単独統治機関に変わりました。第三章で新設される「宰相府補佐官」は、この一極化した宰相府の意思決定を一人の若い実務家に集約させる役職で、戦前の制度には先例のない位置です。一つの机が国を回す形になったのも、戦後七年の特殊な政治構造の帰結です。




