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幕間 記録者の伝記

白紙の紙が、机の上で薄い光を反射していた。


 アルブレヒト邸の二階、伯父の旧書斎。三十年以上、法典編纂のために使われていた机の上に、カイルは白紙を広げていた。窓の外で、樹齢千年の木の葉が夜の風に揺れていた。幹の太さと枝の広がりは普通の木のものではなく、暗がりの中でも存在感だけが伝わってきた。


 あの夜から数日が経っていた。宰相府の引き出しに預かった鋳鉄の鍵は、今この書斎の机の右側、鍵のかかる小さな引き出しに移していた。掌に残ったオルデンの肘の温かさは消えたが、記憶は消えていない。


 カイルは筆を手に取った。


 伝記を書く。正式な記録ではない。公式の歴史書でもない。個人の記録の紙の延長として、一人の政治家の全体像を、自分の言葉で書き残す作業。誰に読ませるためでもない。ただ、書かなければならないと感じた。





 何を書くか。


 戦略のことは、もう聞いた。先日、下市街を歩いた帰り、宰相は十年分の全てを語った。処刑リストから林檎まで、一本の線として。その夜には四つの託しを受けた。鍵も預かった。


 それらは歴史書に残るだろう。いつか誰かが、オルデン・ドレーヴェンの政治的功績を体系的に記述する。あの人の五十年の設計図は、それ自体が歴史になる。


 カイルが書きたかったのは、歴史書に載らないものだった。





 十年の間、カイルは密かにこの人のことを調べていた。


 公的な仕事ではなかった。誰にも頼まれていない。記録者としての癖のようなものだった。目の前にいる人間の来歴が分からないまま横にいることが、不誠実に感じられた。


 調べる手段はあった。王族の末弟として、宰相府の人事記録を閲覧できる立場にあった。旧貴族の系譜は王宮の書庫に残っていた。戦前の外交使節団の報告書も、焼却を免れた分が監督府の下の層に眠っていた。カイルは年に数度、夜に一人で書庫に降りた。目的は決して口にしなかった。十年かけて、断片を集めた。





 「ドレーヴェン家は、外交貴族の家系だった。


 軍事貴族ではない。旧貴族の中でも珍しい系譜で、四代前から他国との交渉を生業にしてきた。高祖父の代にはレガリオンとの国境画定交渉を担い、曾祖父の代にはコヴァルドの鉱石協定を締結している。書庫に残っていた古い文書の筆跡は、全て落ち着いた細い筆致だった。激情で筆を走らせない家だった。


 家訓は『竜の誇り』だった。しかし軍事貴族のそれとは違った。ドレーヴェン家の誇りは『頭を下げられる誇り』だった。頭を下げるのは、下げた先にあるものを取りに行くためだ。屈辱は手段であって目的ではない。——家訓を父から息子へ口伝で伝える家で、紙には残さなかった。宰相が二度、別々の場面で同じ言葉を口にしたのを私は聞いた。あれは家訓だった、と後で気づいた。


 父の名を、公的な記録の中に見つけた。アルダン・ドレーヴェン。大戦前の宮廷外交官。功績は地味だが、一度も失策がなかった。宰相が百六十代の年に死去している。病名は記録に残っていない。父の葬儀の記録にも、宰相は一行も感想を残していない。


 母の記録は、ほとんど見つからなかった。名前だけが一度、ドレーヴェン家の系譜の端に書かれていた。没年は不明。


 若い頃の記録は、使節団の報告書の中に残っていた。六十代後半でレガリオンへの随員。九十代でコヴァルドの鉱石交渉に随行。先代の使節団長の回想録に、一行だけ書かれていた。『議場で一度も口を開かなかった。しかし議場を出た後で、議論の構造を全て分解して私に説明した。あの年齢でそれができる者を、私は見たことがない』。


 宰相府に入ってからの人事記録には『有能』の評価が並ぶが、同僚からの推薦状は一通もない。評価欄には『冷たい』『近寄りがたい』が繰り返される。それでも昇進した。実務の圧倒的な質で押し上げた。


 軍部の連絡会議の議事録に、『宰相府代表・ドレーヴェン』の署名が残っていた。相手方の署名は、今の抗戦派の代表の名前だった。議事録の余白に、誰かが鉛筆で『この二人は話が合うらしい』と走り書きしている。三十年をかけて、二人の間の何かが決定的に裂けた。あの裂け目の瞬間は、どの記録にも残っていない」





 カイルは筆を止めた。


 書庫で、一つだけ、どうしても書けなかったことがある。


 結婚の記録。旧貴族の婚姻は公的な文書に残る。ドレーヴェン家の系譜の宰相世代の婚姻欄を、カイルは何度も確認した。欄は空白だった。婚約の記録も、破談の記録も、ない。子供の記録もない。次の代の名前は系譜に書かれていない。


 ドレーヴェン家は、四代の外交貴族の系譜を、現宰相の代で閉じる。五十年の設計図を国に残す代わりに、自分の家系を閉じる。


 空白の婚姻欄を見つけた夜のことを覚えている。宰相府に戻る廊下が長かった。その夜、宰相は執務室で茶を淹れていた。いつも通りの所作だった。カイルは何も言わず、記録を机に置いて部屋を出た。以降、あの空白のことを一度も口にしていない。書庫で調べたこと全てを、「閣下に提出しない記録」の奥に封じた。


 今夜、その封を初めて開いた。





 カイルは書き続けた。


 「この人の朝は、茶から始まる。


 高原の薬草茶を、自分の手で淹れる。七年間、いや、恐らくそれよりずっと前から、一度も例外がなかった。湯沸かしを手に取り、茶葉を量り、湯を注ぐ。交渉の前に一杯。決断の前に一杯。誰かを切り捨てた後にも一杯。


 茶碗を両手で包む時の指の角度が、いつも同じだった。何千回と繰り返した所作が、体の奥に刻まれていた。あの夜、湯がこぼれた。湯沸かしの口から机の上の紙に落ちた。紙が滲んだ。『今夜は、茶は諦めるか』と言った。


 十一年間の記録者として、あの所作が崩れたのを初めて見た」





 「交渉中に目を閉じる癖がある。相手の言葉を咀嚼している時。目を閉じている間に、相手の主張の三手先まで読んでいる。目を開けた時には、もう答えが決まっている。


 不快な時に顎を微かに引く。満足している時は顎が上がる。この差は、ほとんど誰にも見えない。十年かけて、私はこの差を読めるようになった。


 立っている時に左手を背に回す。旧貴族の立ち姿の名残。本人はもう無意識だろう。旧貴族の財産を全て接収し、門閥を解体し、貴族の誇りを否定した人間の体に、あの所作だけは消えずに残っている」





 「怒りは声に出ない。激怒した時、声は低くならず、逆に丁寧になる。『なるほど。大変結構なことだ』と言い始めたら、室内の空気が凍る。七年間で三度だけ聞いた。一度目は占領二年目、レガリオンの将校が書庫の焼却命令を出した時。二度目は、エマヌが殺された翌日、ヴァレンに『やめられないのです』と言われた後。三度目は——書かない。あの場面は、公的な部屋ではなかった」





 「この人の孤独を、私は十年間の記録の中に見ていた。見ていたが、言葉にしたことはなかった。


 七本の綱を一人で握り、五十年の設計図を一人で抱え、家系を自分の代で閉じる選択をした。私が側にいたのは十年だ。だが十年の側近は、五十年の孤独に触れることができなかった。


 あの夜、宰相は言った。『私が受け入れられた相手もお前だけかもしれぬ』と。あの言葉を聞いた時、私の体が理解したことがある。この人は五十年間、誰にも全てを見せなかった。見せる相手がいなかった。十年間、一人で毒杯を飲み続けていた。


 竜人族歴代最高の政治家。


 その言葉が正確かどうか、私には判断する資格がない。竜人族の歴史は三千年を超える。その全てを知る者はいない。だが、十年間この人の横にいて、この人の茶碗と、目の閉じ方と、顎の角度と、筆圧と、空白の婚姻欄を見てきた者として——私はこの言葉を使う」





 廊下の奥から、軽い足音が聞こえた。


 隣室——かつて伯母の居室だった、中庭に面した明るい部屋——の扉が開いて、リーネが顔を出した。寝間着の上に薄い外套を羽織っている。右手の中指と薬指の間に、インクの染みがあった。最近、リーネは絵本の翻訳に加えて挿絵を自分で描くようになっていた。


 「カイル兄、まだ起きてるの」


 「ああ」


 リーネはそのまま書斎に入ってきた。王宮の頃とは違って、扉を叩く習慣がこの家にはなかった。ミレナが「家族の部屋の戸は開けたまま叩くものじゃない」と一度言ってから、誰も叩かなくなった。





 リーネはカイルの机の上の紙を見た。見たが、内容までは読まなかった。兄が書いているものを覗き込むのは無作法だと、リーネは小さい頃から知っていた。代わりに、窓の外の千年の木を見た。


 「変な仕事を頼まれたの」


 「仕事」


 「うん。宰相が、直接、私のところに来たの」


 カイルは筆を止めた。オルデンがリーネに直接会いに行く。通常はカイルを通す。直接行くということは、カイルを介さない意図がある。


 「何を頼まれた」


 「秘密」


 リーネは少し笑った。笑い方が、四年前よりも大人びていた。


 「カイル兄に教えちゃいけない、って宰相に言われた。『カイルには言うな。いずれ分かる』って」


 カイルはそれ以上問わなかった。オルデンが「カイルには言うな」と指定した以上、聞き出すべきではない。十年の間に、その判断は身体に染みついている。





 「ひとつだけ聞いていい? 仕事の中身じゃなくて」


 「ああ」


 「カイル兄は——十年の間で、何を一番覚えてる?」


 カイルの手が止まった。


 処刑リストの清書。角を布で隠して下市街を歩いた日々。監督府の検問で頭を下げた感触。オルデンの茶の苦い匂い。バルトに「小僧」と呼ばれた夜。アルマンの善意の重さ。トーヴァが差し出した息子ヨアンの名前。二年前の春の夜、壁の儀礼剣の重さ。


 「……音だ」


 「音?」


 「紙の上でペンが走る音。夜の執務室で、一人で記録を書いている時の音。外の世界がどれだけ動いても、紙の上の音だけは変わらなかった」


 リーネは黙って聞いていた。それから、机の右側の鍵のかかる引き出しに、一瞬だけ視線を向けた。リーネはあの中に何があるかを知らないはずだった。だが妹の視線は、その引き出しの位置を正確に覚えていた。二年前の春の朝、リーネが兄の外套の袖口に落ちない血の染みを見つけた日。その日から、リーネの目はこの兄が何かを封じる場所を覚えていた。


 リーネは引き出しについて何も言わなかった。代わりに、別のことを言った。





 「カイル兄は、自分が思ってるより、もっと大きい人だと思う」


 カイルは筆を置いた。


 「……なぜ、急に」


 「急じゃない。ずっと思ってた」


 リーネの声は静かだった。笑っていなかった。


 「宰相もそう思ってる。カイル兄が歯車だなんて、宰相は思ってないよ」


 カイルの指先が、紙の端で止まった。歯車。その言葉を、今夜の伝記の草稿に書こうとして、まだ書いていなかった。リーネには見せていない。オルデンにも見せていない。


 リーネが宰相との「秘密の仕事」の中で、何かを聞いたのだろう。オルデンがカイルについて何かを語ったのだろう。その内容は分からない。分からないが——リーネの目の中にある静かな確信は、読める。


 「秘密か」


 「秘密。でも、いつか分かる」


 リーネはカイルの肩に一度だけ手を置いた。レイグがかつてしていた仕草だった。本人は気づいていなかった。それから、廊下の奥に戻っていった。扉は開けたままだった。





 書斎の中で、カイルはもう一度、筆を手に取った。


 書き残した一節があった。


 「正確に書けているかは分からない。


 宰相の十年を文字にしようとしている私の手は、処刑リストを清書したのと同じ手であり、年次報告書を書いたのと同じ手であり、セノンの弟の名前を聞いて震えたのと同じ手だ。


 そしてもう一つ——二年前の春の夜、壁の儀礼剣を取り、三度刃を人に刺した手でもある。あの夜のことを、この伝記には書けない。宰相の伝記の中に書き込めば、それはこの人の負い目を書く行為になり、あの人の五十年の線の上に、余計な染みを載せることになる。だから書かない。


 だが、私の中には、この伝記には書けない夜がある。机の右側の鍵のかかる引き出しの中に、本文のない帳面がある。日付だけが刻まれた頁が二つ、その帳面の最初にある。いつか、その頁に言葉を載せられる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでも構わない。その帳面の存在を、ここに一行だけ記しておく。


 書くことしかできない手が、書くことで、この人の存在を紙の上に残そうとしている。書けないことの存在を、書けない形で残そうとしている。どちらもこの手の仕事だ。


 正確であろうとしている。それだけが、十年間の記録者としての、唯一の自負だ」





 リーネの言葉が頭の中で反響していた。歯車ではない。あの一節は、歯車の自負として書いた。だがリーネは——オルデンは——それを歯車の自負だとは見ていないのかもしれない。


 理解はできない。理解できないまま、カイルはその言葉を頭の片隅に置いた。無理に理解しようとはしなかった。ただ、その言葉の中にあった温かさは、確かにそこにあった。





 伝記は、その夜のうちに書き上がった。十数枚の紙。


 カイルはそれを個人の記録の紙の束の一番奥に挟んだ。公開するつもりはなかった。


 筆を置いた時、掌にインクの匂いが残っていた。数日前、オルデンの肘に触れた時の温かさは、もう手の上にはなかった。代わりに、インクの匂いがあった。


 窓の外で、千年の木の枝が、夜の風の中でゆっくり揺れていた。屋敷が建てられる前からこの場所に立っていた木だと聞いた。幼少期、母に手を引かれてこの庭を歩いた記憶が、手の平のどこかに微かに残っている。顔も声も思い出せない。だが手の感触だけは残っていた。


 東の離れの方角から、微かに鉛筆の音が聞こえた。ラウルがまだ描いている。眼帯の下の片目で、迷いのない線を引いている。下の階からは、ミレナの代書屋の仕事机の上で、客の陳情書を清書する筆の音がしていた。


 屋敷の中に、三つの書く音があった。


 カイルは窓を閉めなかった。夜の冷たい空気を、もう少しだけ、部屋に入れておきたかった。

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