第52話 国際貿易の萌芽
三年目の秋。保存具の流通が国境を越えて半年。宰相府に他国からの接触が来た。
最初に動いたのはコヴァルドだった。鉱人族の商人が、メルケン商会を通じて面会を申し入れた。
応接室に通した。
鉱人族の商人は壮年の男で、地上での長旅に疲れた顔をしていた。背は低く、肩が広い。鉱人族特有の分厚い指で茶碗を持ち、しきりに窓の外の空を見ていた。山の中から出てきた者が、高原の広い空に慣れない様子。
「魔素造形炉の原理を教えてほしい」
率直だった。飾りがなかった。
「我が国の深鉱議会は、貴国の新しい技術に関心を持っています。物質を再構成する工具——魔素造形炉と呼ばれるもの——の原理を、我が国の技術者に教えていただけないかと」
カイルは茶を勧めた。商人が茶を飲む間に、頭の中が動き始めた。
メルケンの声が蘇った。一年前、保存具の試験が成功した日に言った言葉。「遠距離貿易を始めれば、他国が技術に気づきます。それは商売の話ではなく、国の話になります」。——その通りのことが、今、目の前で起きている。
「商人殿。一つ確認させてください。技術の原理を教えてほしいというのは、深鉱議会の公式な要請ですか」
「公式ではありません。議会の中の複数の議員が、個人的に関心を持っています」
「個人的な関心——」
「はい。商業ルートでの接触です。殿下も、このほうが話しやすいかと」
カイルは頷いた。公式な外交ルートではなく、商人同士の取引として接触してきている。相手国がまだ「公式に動くかどうか」を測っている段階だ。
カイルはこの場で判断を下す必要があった。
魔素造形炉の原理——物質を再構成する魔素の流路設計——は、ラウルがヴェラリオスの手稿から読み取り、自分の手で再設計した技術の核心に近い。ラウルの微細構造設計、ヴァレンの安全化の知見、三百年前の天才の構想——その全てが一つの炉に凝縮されている。これを丸ごと渡せば、コヴァルドは自国で魔素造形炉を量産できるようになる。
そしてラウルは、この設計を守るために、半年前に右目の半分を失った。回復してからラウルは設計室に戻っていた。灰色の眼帯。顔の右半分を斜めに走る白い傷跡。ヴァレンの隣で、以前と変わらない姿勢で紙に向かっている。片目だけで線を引いている。「前は景色に気を取られていた」と笑う男の設計図を、今日、カイルは簡単に手放すことはできなかった。
だが、魔素造形炉の応用の一部——特定の金属の修繕に限定した手法——であれば、渡しても核心は守れる。修繕の手法は、炉の流路設計の表面的な運用に過ぎない。核心の微細構造には触れない。
指先が冷えていた。緊張ではない。判断の重さが指先に出ていた。
「商人殿」
「はい」
「魔素造形炉の原理の全てをお教えすることは、できません」
商人の目が動いた。失望ではなかった。予想していた反応だった。
「ただし、特定の金属——鉄と銅——の修繕に限定した手法であれば、お教えする用意があります」
「限定——」
「はい。限定された応用手法と引き換えに、貴国の精製技術のうち、魔素精製の基本工程を教えていただきたい。コヴァルドの魔素精製技術は、我が国の百年先を行っていると聞いています。その基本工程を学べれば、我が国の製品品質が大幅に上がる」
商人の分厚い指が茶碗の縁を叩いた。小さな音が一つ。考える時の癖らしかった。
「深鉱議会と相談する必要があります」
「もちろんです」
「しかし——殿下、失礼ながら」
「どうぞ」
「貴国のような小国が、コヴァルドに条件を付けるとは、正直なところ——」
「驚かれましたか」
商人は少し笑った。分厚い指で茶碗を置いた。
「驚いた、というより——面白いと思った。山の外に出てきた甲斐があった」
商人が去った後、カイルは応接室に一人で座っていた。
指先がまだ冷たかった。今の交渉で、自分は何を守り、何を差し出したのか。頭の中で整理した。
守ったもの——魔素造形炉の微細構造設計。ラウルの独自技術。ヴェラリオスの手稿から導かれた核心原理。これが漏れれば、アストラードの技術的優位は消える。
差し出したもの——鉄と銅の修繕手法。これは表面的な応用であり、核心には触れない。相手にとっては「魔素造形炉の入口」が見えるだけで、炉を作れるようにはならない。
得ようとしたもの——コヴァルドの魔素精製技術。百年の蓄積がある技術。これが手に入れば、魔素造形炉の原料の品質が上がる。製品の耐久性が上がる。品質が上がれば、さらに他国が欲しがる。
——売るものが増えれば、この国の立場は強くなる。強くなれば、対等な条件で完全独立を交渉できる。
カイルはそこまで考えて、自分の頭の中にオルデンの声が聞こえた気がした。五十年前にオルデンが描いた設計図——技術で国を立て、必要とされる国になってから、完全独立を取る——その設計図の上に、今日の交渉が乗っている。
メルケンが来た。待っていたらしい。
「殿下」
「はい」
「限定された応用と核心の区別。そして、相手の技術との交換条件。——それは私が教えた範囲の外です」
カイルは黙った。メルケンは続けた。
「一つだけ申し上げる」
メルケンの目が鋭くなった。商人の目。利益を嗅ぐ目ではなく、時代を嗅ぐ目。
「殿下が今日引いた線——何を売り何を売らないか——その線引きが、今後五十年のこの国の運命を決めます」
五十年。
「正しかったでしょうか」
「正しいかどうかは、五十年後に分かります。今日分かるのは、殿下が線を引けたということだけです。一年前の殿下には、引けなかった線です」
メルケンは少し間を置いた。
「それと、もう一つ」
「何ですか」
「コヴァルドが来たということは、他の国も来ます。マルカは商業的な関心から。エテルネアは学術的な関心から。レガリオンは——政治的な関心から。殿下、これからの一年が、この国の外交の形を決めます。準備をなさってください」
その冬から、カイルは各国を回った。三年目の冬から四年目の秋にかけて、約一年の断続的な旅だった。
最初はコヴァルドだった。保存具の納入先を視察するという名目で、鉱人族の地下都市群に入った。鍛冶場の轟音と、地底の暗さと、階級ごとに分かれた居住区の空気を記録した。取引相手の顔を覚え、彼らが何を欲しがり、何を恐れているかを帳面に書いた。
翌春にはマルカの港湾都市を巡った。獣人族の商人たちは竜人よりも率直で、取引条件を食事の席で決めた。カイルは黙って聞き、食事のあとで条件を書き出して確認した。「あんたは商人じゃないが、商人より正確だ」と言われた。
四年目の夏にエテルネアを訪れた。妖霊族の学術都市では、形成術の理論的基盤について質問を受けた。カイルが答えられたのは実務の範囲だけだったが、彼らが求めているものの輪郭は掴めた。知識そのものではない。知識が実用に変わる仕組みを知りたがっていた。
四年目の秋口、レガリオンにも足を運んだ。かつての占領国の首都は、カイルが知っているどの都市よりも整然としていた。アルマンの紹介状が扉を開いた。応接室の向こう側に座る人間族の官僚たちの目に、かつての被占領国の王子への好奇心と、微かな警戒が混じっていた。
断続的に一年弱をかけて、カイルは四つの国の空気を吸った。外交官としてではない。記録者として。各国の市場の匂い、官僚の言い回し、商人の握手の力加減を、帳面に書き留めた。それがいつ役に立つかは分からなかった。ただ、オルデンが「準備をしろ」と言ったから、準備をした。
夜、宿屋の窓から秋の空を見上げた。
コヴァルドの商人の分厚い指が茶碗を叩く音が、まだ耳に残っていた。あの小さな音の先に、国と国の取引が始まろうとしている。
ヴェラリオスの手稿が保存具を生み、保存具が商圏を国境の外に広げ、国境の外に広がった商圏が他国の目に映り、他国の商人がこの応接室に座った。全てが一つの線の上にある。三百年前から今日まで。
指先はまだ少し冷たかった。だが冷たさの中に、確かなものがあった。今日、自分は線を引いた。この線が正しいかどうかは分からない。だが、引けた。それだけは確かだった。
【豆知識:タルシス特需】
南東部の「タルシス諸国連合」で勃発した代理戦争——通称タルシス紛争。この戦場への需要が、アストラードに思わぬ特需をもたらしました。
両陣営の兵站から軍事魔導具の発注が殺到し、占領下の国営工場は昼夜を問わず稼働、外貨が流入します。戦後復興と外貨獲得の最大の起爆剤が、この紛争特需でした。ただし特需が去った後、深刻な反動不況が始まる転機でもあります。第二章の新世代製品(浄化石・魔素造形炉など)が発明されるのは、独立後、この反動不況への対処としてのことです。




