第51話 変わった国
朝、アルブレヒト邸の食堂に四人がいた。
夏の朝の光が、古い石の窓枠から斜めに差し込んでいた。中庭の千年の木の葉が、その光の中で揺れていた。
ミレナがパンを切っていた。リーネが二階から降りてきたばかりで、髪が少し乱れていた。ラウルが渡り廊下の向こうの離れから歩いてきた。眼帯の灰色が、夏の日に少しだけ褪せていた。カイルは既に席についていた。今日は午後から下市街を歩くつもりだった。
「カイル兄、今日も外?」
リーネが椅子を引きながら聞いた。
「ああ。下市街を一日歩く」
「お一人?」
「護衛なしだ」
ミレナがパンを四枚、それぞれの皿に置いた。
「今日は、井戸の青さを見てきて」
「井戸?」
「下市街の。ほとんどの井戸に浄化石が入った。青い光が見える。私の客が言ってた」
「……分かった。見てくる」
ラウルが「ふうん」と言った。何に対する「ふうん」かは、誰にも分からなかった。
リーネがパンを一口かじった。
「今日、私も下市街に行く。子供たちに新しい絵本を渡しに」
「どこの家だ」
「西の路地。襲撃の夜にお父さんが走って消えた家じゃないけど、その近所」
カイルは少しだけ目を上げた。リーネがあの夜の話をしたのは、今日が初めてではなかった。最近、リーネは時々その話を口にする。話せるようになってから、口にする回数が少しずつ増えていた。
「気をつけて行ってこい」
「うん」
ミレナが茶碗を四つ並べた。
「ラウル、今日も離れにいるの?」
「……うん」
「夕飯までには出てきて」
「ふうん」
「『ふうん』じゃなくて『はい』」
「はい」
リーネが笑った。
夏の朝の光が、食堂の床にゆっくり伸びていた。窓の外で、千年の木の葉が一度大きく揺れて、また静かになった。
カイルは茶を飲み終え、立ち上がった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
三人の声が、少しずれて重なった。
独立三年目の夏。
カイルは久しぶりに宰相府の仕事を離れて、ヴェルデンの下市街を歩いた。護衛なし。外套は地味な灰色。記録の紙だけを懐に入れて。
二年前——独立直後——にこの通りを歩いた時、下市街は疲れていた。戦災で壊れた壁。泥水のまま放置された井戸。市場には高原の野菜と穀物しか並ばず、仕事を求める人の列が宰相府の前まで伸びていた。
今日の下市街は、別の場所だった。
だが、完全に別ではなかった。カイルは北棟の外壁の前を通り過ぎる時、一瞬だけ目を上げた。襲撃の夜、警備兵が二人、この外壁の下で倒れた。壁の石が一部だけ、他より薄く色が違っていた。雨に洗われ、通行人の外套に擦られ、それでも色の跡が残っていた。二ヶ月前の傷。街が前へ動き始めても、消えない跡。
カイルはその壁を見て、そのまま歩き続けた。
井戸の前を通った。
井戸の底に青い光が見えた。浄化石。二年前にはなかった光。今は下市街の主要な井戸の九割に浄化石が入っている。新型の浄化石——ヴェラリオスの手稿から設計を取り入れた改良版——は、従来型の三倍の範囲に作用する。井戸一つで、周囲十軒の家庭の水を浄化できる。
子供たちが水を汲んでいた。汲んだ水をそのまま飲んだ。二年前なら「お腹を壊す」と叱られる。今は平気だった。子供の顔に、水を疑う表情がなかった。この子供たちは、汚い水を知らずに育つ最初の世代になるかもしれない。
井戸の横で、女性が二人、衣服を洗っていた。木桶の中に浄化石を沈め、汚れた衣服を入れる。汚れが水に浮き上がり、布が白くなっていく。二人は洗濯をしながら、笑い声を立てていた。川辺で半日かけていた洗濯が、井戸端で済む。余った時間で、女性たちは話をしている。笑っている。
洗濯を終えた一人が、木桶を脇に置いた。隣に座っていた幼い子供を抱き上げた。朝の早い時間。二年前のこの時間帯、この女性は川辺にいたはずだ。洗濯に追われて、子供を抱く暇はなかった。
今、この女性の腕の中に、子供がいる。
カイルは立ち止まった。足が止まったのは、自分の判断ではなかった。目が、その場面を離せなかった。浄化石一つが、この女性の朝を変えていた。半日の洗濯が一時間になった。五時間が浮いた。その五時間の中に、子供を抱く時間がある。
市場に向かった。
市場は、二年前と別の場所になっていた。
以前は地元の農産物と近郊の町からの物資だけが並んでいた。高原の野菜、穀物、羊毛、蜂蜜。全て馬車一日以内の範囲のもの。市場の大きさも、石畳の広場の半分程度だった。
今、市場は広場全体に広がっていた。露店の数が倍以上に増えている。そして並んでいるものが違う。
保存具入りの木箱が、通りの両側に積まれている。マルカ諸国の南端ペスカルから来た海の魚。北部の山岳地帯から来た乳製品——バター、チーズ、ヤギの乳。南の丘陵地帯から来た果物——林檎、梨、葡萄。東部の農村から来た乾燥香辛料。
一年前は魚一箱が珍しかった。今は、毎日、複数の行商人が保存具入り木箱を積んだ馬車で到着している。ヴェルデンの市場は、高原の内側の市場から、国境を越えた流通の結節点に変わりつつあった。
老女が果物の前で立ち止まっていた。林檎を手に取った。嗅いだ。
「これはいくらだね」
「二銅貨です、おばあさん」
「二銅貨か。去年は三銅貨だったね」
「物が増えましたからね。値段は下がりますよ」
老女は林檎を買った。二年前、この老女は高原の野菜しか知らなかった。一年前、初めて海の魚に触れた。今、林檎の値段が下がったことを知っている。
カイルは市場の端で、人の流れを見ていた。かつてこの市場にいたのは、近郊の農民と下市街の住民だけだった。今は、ランメルトやオストーフから来た商人がいる。マルカ諸国の行商人がいる。市場の中で交わされる言葉に、聞き慣れない訛りが混じっている。人と物が、動いている。
工房街に足を向けた。
「造形」と書かれた看板が、通りに八軒出ていた。半年前は三軒だった。二ヶ月で五軒増えた。
看板だけではない。工房街全体の空気が変わっていた。槌の音ではなく、魔素造形炉の低い振動音が通りの底に流れている。壁を修繕する術師。家具の形を変える術師。農具に機能を追加する術師。それぞれの工房の前に、客が並んでいた。
ある工房の前で、子供たちが見物していた。魔素造形師が壊れた壁を直している。魔素造形炉を当てると、石が内側から再構成されていく。
「お兄ちゃん、壁が生えてるよ」
「魔法だね」
「魔法じゃないよ。造形だよ。おじさんが道具でやってるの」
子供の口から「造形」という言葉が出た。二年前にはこの国になかった言葉が、子供の語彙に入っている。
別の工房の中を覗くと、若い見習いが三人、記録石に手を触れて設計を学んでいた。師匠は横にいるが口頭で教えてはいない。石を介して教えている。三人が同時に、同じ品質の知識を受け取っている。一人の師匠が三人を同時に育てている。
その隣の工房では、魔素造形師が一人、魔素造形炉の小型版——ヴェラリオスの設計をラウルが再現したもの——を背負って出発しようとしていた。出張修繕。ヴェルデンから半日離れた農村に、壁の修繕に行く。一年前は「ヴェルデンに来てもらわないと直せない」だったものが、術師のほうから出向くようになった。
午後、市街を外れて農村方面に歩いた。
ヴェルデン近郊の農村は、一年前とは違う色をしていた。
成長畑具の新型——手稿の設計を取り入れた改良版——は、従来型の三倍の面積に作用する。春の蒔き入れが早く実り始め、夏には既に収穫の気配がある。年に一回だった収穫が、一回半に近づいている。
畑の色が違った。二年前の畑は痩せていた。土が灰色で、作物がまばらだった。今、畑は濃い緑だった。成長畑具が地力を引き出し、作物が密に実っている。
農道で、農民の一人と目が合った。老人の農民。二年前、宰相府の前で「仕事をください」と並んでいた顔の一つに見えた。
「今年は、どうですか」
「ああ——いい年だ」
老人は畑を指差した。
「三年前は、この畑から穫れるのは家族を食わせてぎりぎりだった。余りがなかった。余りがなければ市場に出せない。市場に出せなければ金が入らない。金がなければ——何も買えない」
「今は?」
「今年は、余りが出る。初めて余りが出る。市場に持っていける。金が入る。女房に——」
老人は言葉を切った。少し笑った。
「女房に、市場の林檎を買ってやれる」
カイルは頷いた。声が出なかった。
林檎一つ。それが、この老人の三年間の到達点だった。畑が痩せて、余りがなくて、何も買えなかった三年前。成長畑具が畑を変え、余りが出て、初めて市場に行ける。市場で、保存具に守られて南から届いた林檎を、女房に買える。
全てが繋がっていた。ヴェラリオスの手稿が成長畑具を改良し、手稿が保存具を生み、保存具が林檎を届け、畑具が余りを作り、余りが金になり、金が林檎を買う。三百年前の天才の構想が、一人の老農民の掌の中の林檎になっていた。
夕方、サルデン商店を訪ねた。
セノンが待っていた。
「カイル様」
「セノン殿」
セノンの目は静かだった。前回会った時と同じ静けさだが、底にあるものが変わっていた。揺れが止まった後の静けさだった。
「私は、残ります」
声は短く、揺るぎなかった。
「募兵所への登録はしません。カイル様が仰った『次の時代の仕事』を、引き受けます」
カイルの胸に、何かが込み上げた。安堵ではなかった。もっと重い何かだった。この若者の家族が域外民政局の決定で死んだという事実は消えていない。その事実を抱えたまま、この若者が残ると言っている。
「——感謝いたします」
声が掠れた。
「家族の死の意味を、戦場ではなく、この国の次の時代の中で探します」
カイルは深く頭を下げた。
セノンは宰相府と民間の連絡役の仕事を引き受けることになった。魔素造形師の工房と商家と農村を繋ぐ。カイルが帳簿の側にいるなら、セノンは人の側にいる。
夕暮れ、下市街の出口の石段に腰を下ろした。
足が疲れていた。朝から歩き通しだった。石段の下に、下市街の通りが見えた。井戸の青い光。市場の喧噪。工房街の看板。人の声。夕暮れの光が屋根の上に横たわっている。
この風景を、オルデンに見せたかった。
二人で、この通りを歩きたかった。五十年前にヴァレンと語った夢が、道端の井戸と、市場の木箱と、子供の語彙の中に、動いているのを。農民の掌の中の林檎に、三百年前の天才の設計図が届いているのを。
立ち上がった。重さと軽さが、同じ体の中にあった。




