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第48話 夜明けの試験

ヴァレンが宰相府の門を潜ったのは、朝の光が石畳を白く照らし始めた頃だった。


 ラグリスから馬を飛ばしてきた。外套が埃を被り、髪に汗が乾いていた。一晩中、馬の上だった。


 カイルは門で待っていた。一睡もしていない目で、ヴァレンの姿を見た。ヴァレンもカイルの目を見た。カイルが何を経た顔をしているのかを、ヴァレンは一瞬で読んだらしかった。何も聞かずに、懐から布に包んだものを取り出した。


 「試作第一号です」


 布を開いた。灰色の拳大の石。表面はまだ粗い。浄化石に似ているが、別のものだった。ヴェラリオスの手稿の中の構想が、二週間で形を取った最初の一つ。


 「動くかどうかは、触れる者次第です」


 ヴァレンは石をカイルの掌に載せた。カイルは石を受け取った。重かった。想像よりも重かった。掌の中で、石は冷たかった。浄化石を最初に握った時と同じ冷たさだった。だが、何か別のものがその冷たさの奥にあった。


 「ラウルは」


 ヴァレンの声に、一瞬だけ、別の質感が混じった。


「医務室です。ご覧になりますか」


ヴァレンは頷いた。カイルは先に立って、医務室へ向かった。





医務室には、朝の光が窓から入っていた。ラウルは壁際の寝台の上で、上体を少しだけ起こしていた。


右目から頬にかけて、分厚い包帯が巻かれていた。包帯の端から、頬の白い皮膚が見えた。左目だけが開いていた。その左目が、ヴァレンの姿を見た。


ヴァレンはラウルの寝台の横の椅子に座った。ラウルの左側、つまりラウルから見える側に。自然な動作だった。だがカイルはその動作の意味を理解した。これから先、ラウルと話す時、ラウルの左側に座ること——それが、この部屋から出ていく時に、ヴァレンの新しい癖になる、ということを。


ラウルが口を開いた。乾いた声だった。


「紙は」


「全部、保管した」


「ヴェラリオスの最後の束は」


「ある。ルッツが一番奥に」


ラウルは短く頷いた。頷きながら、左手を持ち上げて、包帯の上から右目の位置に触れた。触れて、下ろした。表情は変わらなかった。


「片目の方が、よく見える」


乾いた声で言った。


「前は景色に気を取られていた。今は線だけが見える。かえって楽だ」


ヴァレンは答えなかった。カイルも答えられなかった。二人の沈黙を、ラウルは咎めなかった。


しばらくしてラウルが言った。


「試作は、持ってきたか」


「持ってきた」


「試せ。俺は今日は動けない。ヴァレン、頼む」


ヴァレンは頷いた。ラウルはそれ以上何も言わず、左目を閉じた。カイルとヴァレンは、静かに医務室を出た。


扉を閉めた後、廊下でヴァレンが一度、立ち止まった。壁に片手をついて、少し長く息を吐いた。表情は変わらなかった。だがその長い呼吸の中に、ラウルの目の代わりに背負うものの重さが、一つ入ったのをカイルは感じた。





記録石の試験は、宰相府の一階の広間で行われた。


ヴァレンが見習い四名を集めていた。事前に話をつけていた若い竜人たち。下市街の出身、鍛冶の家系、魔素造形師の見習いとして二ヶ月ほど学んでいた者たち。名前をカイルは全員覚えていた。


四人が広間の中央の卓の前に並んだ。緊張していた。昨夜の襲撃の噂が朝までに広まっていて、宰相府の中に一晩中血の匂いがしていた。広間の床はすでに洗われていたが、若い竜人たちの鼻は、まだそれを感じ取れる距離にあった。


カイルは試作の記録石を卓の上に置いた。


ヴァレンが口を開こうとした瞬間、カイルが先に言った。


「ヴァレン殿。一人、追加で試したい者がいます」


ヴァレンの目が少しだけ動いた。


「誰を」


「昨夜の襲撃で、捕縛された五名のうちの最年少を」


ヴァレンは何も言わなかった。カイルはその沈黙を、同意と受け取った。


ルッツに指示した。拘束房から連れてこさせた。


連れてこられたのは、五十五歳の若い竜人だった。角はまだ細く、頬が痩せていた。名前はクロン。鉱山町オストーフの出身。特需期に第一工場で雇われ、特需終了で解雇され、故郷に戻る金もなく、下市街の救済列に並んでいたところを扇動者に声をかけられた。カイルはその経歴を、夜明けの報告書で読んでいた。


クロンは手を後ろで縛られたまま、広間の中央に連れてこられた。両脇を警備兵が支えていた。顔を伏せていた。目を上げる気力がなかった。


カイルはクロンの前に立った。


「お前に試してほしいものがある」


クロンは顔を上げた。目の中には、何も期待していない色があった。拘束房から連れ出された理由が「試されるため」だとしか思っていない。拷問か、取り調べか、どちらでも覚悟している顔だった。


警備兵がクロンの後ろ手の縛めを緩めた。両手が自由になった。


「これを握れ」


カイルは記録石を差し出した。


クロンは一瞬、石を見た。その後、カイルの目を見た。意味が分からない。顔に、その戸惑いがはっきり出ていた。


「握って、何をしろと」


「握るだけだ。何も答えなくていい。何も言わなくていい」


クロンは伸ばしかけた手を一度引っ込めた。それから、ゆっくりと、両手で石を包んだ。





最初の数秒、何も起きなかった。


ヴァレンが広間の壁に背を預けていた。じっと見ていた。


それから、クロンの肩が動いた。


両手の中の石から、何かが流れ込んでいた。クロンの目が見開かれた。瞳孔が動き、焦点が石の上に固定された。その焦点の奥で、何かが再生されていた。知識。構造。手の動き。見たことのない工程が、頭の中に直接流し込まれていた。


クロンの膝が崩れた。


両手で石を握ったまま、広間の床に膝をついた。頭を下げた。肩が震えた。泣いていたのかもしれなかった。だが声は出なかった。泣く声を出す余裕がなかった。体が、入ってきた情報の量を受け止めるのに精一杯だった。


「何が——」


クロンが掠れた声で言った。


「何が、頭の中に——」


「魔素造形炉の操作だ」とヴァレンが言った。「壁を直す手順。ベッドを広げる手順。壊れた物を元に戻す手順。俺が三ヶ月かけてお前と同じ年齢の若者に教える内容が、今、お前の中に全部入った」


クロンの呼吸が浅くなっていた。


「俺に——これを——」


「お前の手で、壁を直せる。俺が隣にいなくても」


クロンは顔を上げた。左目にも右目にも、涙はなかった。涙が出る前の段階だった。あまりに多くのものが短時間に入ってきた時、人の目は涙を作るより先に、乾く。クロンの目は乾いていた。カイルを見上げていた。


カイルは石を受け取ろうとはしなかった。クロンの両手の中に、石はそのままあった。


「俺が昨夜、宰相府に入ってきた時——壊そうとしてた」


クロンの声が掠れていた。


「この石を、壊そうとしてた。俺の家に届かなかった魔素造形炉のことで、俺は宰相府を憎んでいた。だから壊せば、少しでも溜飲が下がると思ってた。——でも俺が壊そうとしてたのは、俺の手の中に今入ったものだった」


カイルは答えなかった。答える言葉を、まだ持っていなかった。


ヴァレンがクロンの横に立った。


「お前の手で、壁を直せるようになった。今度は、お前がお前の町に戻って、お前の町の壁を直す番だ」


クロンは記録石を両手で抱えたまま、しばらく動かなかった。やがて、石を広間の卓の上にそっと戻した。戻した後、両手が膝の上で震えていた。


カイルは警備兵に向かって、小さく頷いた。警備兵はクロンを連れて広間を出た。出る直前、クロンはもう一度振り返った。カイルを見なかった。ヴァレンを見なかった。卓の上の記録石を見た。短く、深く、頭を下げた。


それから部屋を出た。





残った四名の見習いも、順番に石を握った。四人とも、クロンと同じ反応だった。目が見開かれ、膝が震え、言葉が出なかった。四人分の沈黙が広間に広がった。


試験は成功した、という事実が、その沈黙の中で形を取った。


ルッツが広間の隅からカイルに近づいた。事務的な顔だった。だが声だけが、いつもより僅かに震えていた。


「殿下」


「……何だ」


「これで、天井が消えました。ヴァレン先生とラウルの手が届く範囲の外でも、魔素造形師が育ちます。魔素造形炉で修繕できる家の数が——この石の数だけ、広がる」


カイルは頷いた。頷いたが、それ以上の言葉は出なかった。


壁際のヴァレンが、卓の上の石をじっと見ていた。広間の沈黙が、彼の方へと流れた。やがて、ヴァレンが口を開いた。


「——三百年だ」


声は低かった。いつもの講義の声ではなかった。


「形成術は三百年、限られた血筋と徒弟制の中にあった。ヴェラリオスはそれを解放する道具を構想した。構想したが、作れずに終わった。大陸のどの国でも、知識を誰かから誰かへ『構造ごと』渡せる手段は、存在しなかった。文字を読めぬ者は、技術から遠ざけられていた。——今朝、それが動いた」


ヴァレンは卓の上の石を見たまま、動かなかった。


「殿下。ルッツ殿は『月産の天井』と言われた。事実です。しかしそれは、この石が世に出た時に起きることの、ほんの一番手前の話です。この石が大陸に広がれば——竜人国だけの話ではない。全ての国で、技術を持つ者と持たぬ者の境界が引き直される。血筋と徒弟制の上に三百年積み上がった大陸の技術史の、地層そのものが動きます」


ヴァレンの声は震えていなかった。だが一言一言の間に、講義では聞いたことのない長い間があった。


「私は、これを自分の生涯のうちに見るとは、思っていませんでした。——朝の光の中で、こんな試験に立ち会うとは」


カイルはヴァレンを見た。壁に背を預けた老形成術師の肩が、ほんの僅かに下がっていた。三百年分の重さが、今朝、一人の老人の肩の上に降りてきていた。





広間を出て、執務室に戻った。


オルデンが机の向こうで待っていた。右腕の包帯は乾いていた。茶碗が机の上に置かれていた。左手で淹れられた茶だった。カイルはそれを見て、一度、目を逸らした。


「試験は」


「成功しました。四名と、捕縛された者一名。全員が石に反応しました」


「分かった」


オルデンは短く言った。それから、机の端の書類の束を手に取り、一番上の紙を抜いて、カイルに差し出した。


「お前はもう今日の仕事に復帰しなくていい。自室に戻れ。寝られぬだろうが、部屋にいろ。今日一日、報告は上げるな。受けるな」


「宰相閣下——」


「今朝のお前は、記録を書ける手ではない」


カイルは抗弁しなかった。抗弁する余地がなかった。オルデンの言葉は、カイルの今朝の手の震えを正確に読んだ上での命令だった。


「一つだけ」


「はい」


「昨夜、お前が斬った男——ヤクブと言ったな」


カイルの体が止まった。


「その名は、今朝の身元確認の報告書で私も見た。お前の目の中で、その名が何かと繋がったのを、昨夜、私は見た」


オルデンは顔を上げた。右手は机の上に置いたままだった。震えていた。


「繋がったものが何かは、私は聞かぬ。聞けば、私もその重さの一部を負うことになる。お前は今、私にその重さを負わせてよいかどうか——自分で決められる年齢ではない。だから私が決める。聞かぬ」


カイルは答えられなかった。頷くことさえできなかった。


「部屋に戻れ」


オルデンの声は静かだった。


カイルは一度だけ頭を下げ、執務室を出た。





自室の扉を開けた時、リーネが窓辺にいた。


昨夜、門で倒れかけた妹の髪は、もう整えられていた。外套も替えられていた。だがリーネの顔は、昨夜のそれと同じだった。大人の顔の影が、少しだけ増えていた。


「おかえり、カイル兄」


「ああ」


カイルは上着を脱いで、椅子の背にかけた。上着の袖口に、茶色い染みが一つあった。昨夜、男の血が飛んだ場所。洗っても落ちていなかった。朝までの間に、侍女が洗濯に出してくれたはずだった。だが染みは残っていた。布の繊維の奥に、乾いた血が沈着していた。


リーネの目は、その染みを見ていた。


カイルの手が止まった。上着をかけ直そうとして、止まった。リーネの視線の先にあるものを、カイルも認めた。


「兄さん」


リーネの声は静かだった。


「この血は、誰の血?」


カイルは答えられなかった。


答えが一つではなかった。ヤクブの血だと答えることもできた。だがその答えは半分だった。残りの半分は——九年前、カイルが印を押した徴用名簿の一行の血だった。そして更にもう半分は——昨夜、リーネが下市街の路地で見逃された父親の、その隣にいた誰かの血だったかもしれなかった。三つの答えが、一つの染みの中にあった。


どれを答えても、嘘になる。どれを答えなくても、嘘になる。


カイルはリーネを見た。妹の目は、答えを求めていなかった。答えがないことを知っていて、それでも問うている目だった。


リーネは立ち上がり、カイルの横に来た。椅子の背の上着には触れなかった。代わりに、カイルの右手を取った。


カイルの右手は震えていた。ペン用の震えでも、剣用の震えでもない震えだった。名前のない震えだった。リーネはその震えを、両手で包んだ。何も言わずに。


少し経って、リーネが言った。


「カイル兄の手、宰相の手と、同じ震え方をしてる」


カイルは答えなかった。


「気づいてたよ。最近、宰相の手が震えてること。昨日、廊下ですれ違った時に見た。私は何も言わなかった。言わない方がいいと思ったから。——今朝、カイル兄の手も、同じ震え方をしてる」


リーネはカイルの手を握ったまま、もう一度、言った。


「この血が誰の血か、私は聞かない。もう聞かない。カイル兄が話したくなったら話して。話したくなかったら、ずっと話さなくていい」


カイルの目が、少し熱を持った。


「——リーネ」


「ん」


「ありがとう」


その一言だけ、カイルは言えた。他の言葉は、今日は全て、喉の奥で詰まっていた。


リーネは少し笑った。大人の顔の影の下で、子供の時と同じ笑い方をした。


「私、下の階に行くね。トーヴァさんが今朝から何も食べてないって聞いた。一緒にお茶でも飲む」


リーネは部屋を出た。扉を静かに閉めた。足音が廊下の向こうに消えた。





一人になった。


カイルは机の右側の引き出しを開けた。鍵のかかる引き出し。中に、夜明けに入れた紙が二枚あった。ヤクブの身分票の写しと、新しい帳面。


帳面を取り出した。表紙は白いままだった。何か名前を付けるべきかとふと思った。「記録できないことの記録」。「言葉のない頁」。「三冊目」。どれも違った。


名前は付けなかった。


最初の頁を開いた。夜明けに書いた日付が、インクの滲みと共に残っていた。その下に何も書かれていなかった。昨夜から今朝までの出来事を一行も書けなかった。書こうとするとペンが止まった。


今日、もう一度ペンを取った。二頁目を開いた。


二頁目にも、日付だけを書いた。今日の日付。その下に、やはり何も書かなかった。


書く言葉は、まだ自分の中に育っていなかった。何年経てば育つのか、分からなかった。この帳面が、いつか埋まる日が来るのか、それとも空白のまま生涯を終えるのか、それも分からなかった。


ただ、日付だけでも刻む意味があった。今日、ここで、この頁に、自分の名前でもない名前が一つ沈んでいる。名前は書かない。だが日付が、その名前の存在を指している。


帳面を閉じた。鍵をかけた引き出しに戻した。





窓の外で、ヴェルデンの街が昼を迎えていた。


下市街の方角から、微かに、新しい音が聞こえた気がした。昨夜まで聞こえていた怒号ではない。もっと別の音。金槌の音。鉄を打つ音。工房の音だった。昨日までの下市街には、あまり聞こえなかった種類の音。


記録石を握ったクロンの顔が浮かんだ。オストーフに戻る若者の顔。戻って、自分の町の壁を直す若者。月産の天井が広がる始まりの朝だった。昨夜の惨事と、今日の新しい音が、同じ空の下で、同じ時刻に起きていた。


カイルは机に戻った。公式の報告書には何も書かなかった。個人の記録帳にも何も書かなかった。代わりに、窓の外の街を、ただ長く見ていた。


右手の震えは、昼を過ぎても止まらなかった。

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