第49話 引越の日
襲撃から五日が経った頃、ミレナからカイルに伝言があった。——リーネが、ミレナのところに住みたいと、ずっと言っている、と。
カイルにではなかった。ミレナに直接、しかも一度ではなく、何度も。最後にミレナが「もう本気だね」と判断して、カイルに伝えた。
ある夕方、カイルがアルブレヒト邸を訪ねた時のことだった。ミレナは食堂の机に書類を広げたまま、顔も上げずに言った。
「リーネがね。ここに住みたいって。ずっと言ってる」
「いつから」
「最初は半年前。最近は週に三回」
「仮にもリーネは王族だぞ。形骸化したとは言え、王宮から簡単に離れられるわけが」
「独立前ならね。でもここはあんた達の母親の実家の伯爵家でもある。それなら過去にも例はたくさんある」
カイルは茶碗を手に取った。茶は冷めていた。
「お前は」
「賛成。あの子の好きにさせてあげなさい。二階の、母さんが使ってた部屋、空いてる」
カイルは少し考えた。それから頷いた。
ミレナがふと、カイルを見た。丸メガネ越しの目に、いつもの少しの笑いがあった。
「カイル、あんたもどう」
カイルは茶碗から目を上げた。
「俺?」
「あんた、最近三日に一度、ここに来てない? 夜じゃない時もあるよね」
「……二日に一度かもしれない」
「ほぼ毎日ね」
ミレナは書類の山から一枚を抜き出して、その裏に何かを書き始めた。
「家賃の試算。リーネの部屋代を加えて、まだちょっと足りない。あんたが住めば、四人でトントン。悪い話じゃないでしょ」
「……考える」
「考えるな。決めろ」
その夜、カイルは王宮の自室に戻った。机の上には何もなかった。記録帳もインク壺もペンも、もうずっと執務室にある。一年半前まではここで毎晩何かを書いていた。今は、寝る前に荷物を置くだけの場所だった。
リーネを一人でミレナのところに住まわせるのは、少し気がかりだった。だが、自分も同じ屋根の下に住めば、その心配は消える。一つの問題が、別の決断によって解ける。考えてみれば、それは悪い選択ではなかった。
翌朝、ミレナに「住む」と返事した。ミレナは「言うの遅い」とだけ言った。
休日が来た。
ミレナとラウルが王宮の門の前に立っていた。馬車を一台借りてきていた。
ラウルが立っているのが、カイルには予想外だった。
「お前、何しに来た」
「紙、置いてきた。今日は手伝う」
「……手伝えるのか」
「うん」
ラウルは妙に真面目な顔で頷いた。眼帯はまだ着けていなかった。包帯が右目を覆ったままで、長い前髪がその上に落ちていた。
リーネの部屋から始めた。
リーネが古い木箱の蓋を開けて、中から布の人形を取り出した。
「カイル兄、これ覚えてる? 八歳の時に——人間で言えばまだ三つの頃、お母様が縫ってくれた」
「……覚えていない」
「これも! 十四歳の誕生日——人間で言えば五つの頃、レイグ兄様が持ってきてくれた木の馬」
「……覚えていない」
「これも、これも、これも」
リーネが次々と古い物を引っ張り出してきた。ミレナが一つずつ手に取って、丁寧に布で包み、木箱に戻していった。
「全部持っていくの?」
「全部」
ミレナは何も言わず、頷いた。
次にカイルの自室に移った。
ミレナが入ってきて、しばらく無言だった。それから、机の上の書類の山を指差した。
「これ、何」
「宰相府の古い報告書の写しだ」
「持っていくの?」
「要る」
「全部?」
「全部」
ミレナは、小さくため息を吐いた。
「カイル、あんたね……」
ラウルがそのとき、カイルの自室の書架の前に立っていた。手で書架の縁を撫でていた。誰の目も書架を見ていなかったが、ラウルの目だけが書架を見ていた。
「これ、木目が——」
「ラウル」とカイルが言った。
「ん?」
「荷物」
「……ん」
ラウルは書架から目を離した。だが離れる前に、もう一度、書架の右下の継ぎ目を撫でた。
リーネが笑いを噛み殺していた。
「ラウルも王宮、初めてでしょう?」
「うん」
「どう?」
「狭い」
リーネが噴き出した。
「王宮が、狭い?」
「うん。書斎としては」
カイルとミレナは顔を見合わせた。それから、二人とも、少しだけ笑った。
書類の山と、リーネの古い木箱と、カイルの服と、本の数冊が、馬車に積まれた。
馬車が動き始めたとき、リーネがカイルの隣に座った。
「カイル兄」
「ん」
「最近、王宮の自室にいないでしょ」
「……」
「執務室にいるか、ミレナ姉さんのところにいるかのどっちか。私、気づいてた」
カイルは答えなかった。リーネは答えを待たなかった。馬車が中市街への坂を下り始めた。
中市街の石畳の上で、馬車の車輪が小さく揺れた。古い貴族街が静かに通り過ぎていった。アルブレヒト邸の錆びた鉄門が見えた時、リーネが少しだけ前のめりになった。
「ミレナ姉さんの家、何度も来てるけど、自分の物を運ぶのは初めて」
「そうね」とミレナが答えた。「今日からあんたの家でもある」
馬車から荷物を降ろした。
リーネはミレナに連れられて二階に上がった。伯母——ミレナの母であり、リーネの母の姉——の旧居室の扉が開いた瞬間、リーネが立ち止まった。
「ここ」
「ええ」
「昔、私、ここでかくれんぼしたよね」
「したね。あなたはいつも簡単に見つかった」
リーネが少し笑った。
カイルは伯父——ミレナの父——の書斎に入った。古い机が窓辺にあった。アルブレヒト家が代々、法典編纂のために使ってきた机だった。窓の外に、千年の木の枝が広がっていた。
執務室から運んできた記録帳二冊と、無地の三冊目を、机の上に置いた。
三冊目はまだ開かない。表紙に何も書かれていない、白い紙だった。
窓の外で、千年の木の葉が午後の風に揺れていた。その葉の動きを、カイルは少し長く見ていた。
離れで、ラウルが鏡の前に座っていた。
ミレナが入口に立って、そっと見ていた。ラウルは鏡の中の自分を見ていなかった。机の上に置いた、灰色の眼帯を見ていた。
ラウルがそれを手に取った。包帯を解いた。右目から頬骨にかけての赤い裂傷が見えた。傷はまだ新しかった。
ラウルは眼帯を着けた。位置を少しずつ調整した。何度か微妙に動かして、それから、止まった。
「見える」
ラウルが言った。
「何が」
「左目で。線は引ける」
ミレナは少しの間、沈黙していた。それから、
「それならいい」
とだけ言った。
ラウルは机に向かった。紙の束が床に散らばっていた。鉛筆を取った。そして、線を引いた。一本の、迷いのない線だった。
夕方、母屋の食堂で四人が茶を飲んでいた。
ミレナが先に椅子に深く座った。
「疲れた」
「俺」
離れの方から、ラウルの声がした。渡り廊下を歩いてくる足音が聞こえた。ラウルが食堂の入口に顔を出した。
「俺、何もしてない」
リーネが噴き出した。
「最初の一箱だけは運んだじゃない」
「あれだけ」
「うん、あれだけね」
ラウルは食堂の隅の椅子に座った。茶碗が四つ並んでいた。ミレナがそれぞれに茶を注いだ。
「カイル」とミレナが言った。「あの書類の山、明日また見直そう。半分は要らないと思う」
「全部要る」
「半分は要らない」
「全部要る」
「カイル」
「……検討する」
ミレナはふっと笑った。
「言うのが早くなったね、あんた」
「ありがとう」
「ほら、その『ありがとう』だって、今日は早かった」
カイルは黙った。それから、茶碗を持ち上げて、一口飲んだ。茶の温度が、掌の中に伝わった。
窓の外で、千年の木の葉が夕方の光を受けていた。
リーネが立ち上がった。
立ち上がっただけで、座っている時より、明らかに体が軽そうだった。窓辺に行って、窓を開けた。少し開けるのではなく、思い切り開けた。中市街の石畳の音と、遠くの工房街の槌の音と、それから、もっと遠くの下市街の喧噪が、一斉に食堂の中に流れ込んできた。
リーネは窓枠に手をついて、外を見た。
「カイル兄」
「ん」
「私、今日から、毎朝この窓を開けるよ」
「そうか」
「生まれてから、王宮の窓は開けても、外の音はあそこまで届かなかった。ここは違う。ここの窓は、街の中にある」
声に、いつもより少しだけ高い音が混じっていた。独立してから一年と少し、リーネはやっと裏道を捨てて表通りを歩けるようになった。今日、リーネはやっと、自分の窓から街を聞ける場所に来た。
「カイル兄。今夜は何の音が聞こえると思う」
「分からない」
「楽しみ」
リーネは振り返って、笑った。子供の頃と同じ笑い方ではなかった。子供の頃よりも、もっと自由な笑い方だった。
ミレナがもう一杯、茶を注いだ。
ラウルは茶を一口飲んでから、また「俺、何もしてない」と呟いた。
誰も答えなかった。三人とも、もう疲れていた。だが、誰も席を立たなかった。
夕方の光が、食堂の床にゆっくり伸びていった。
【豆知識:鉱人族の国コヴァルド】
アストラードの国境に接する鉱人族の国コヴァルド——人口約千五百万、寿命百五十〜二百年の地下都市群の階級制国家です。彼らは魔素を「使う」より「加工する」のに長け、精製・鍛造の技術では他種族の追随を許しません。
大戦中は両陣営に魔導具の部品を密売していたと、メルケン家の百五十年前の記録に残っています。「閉じた鉱」の独占も含め、大陸の物理的な足元を、彼らが静かに握っているのが国際情勢の基本構図です。




