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第46話 焦る手

ヴェラリオスの手稿が運び込まれた翌日から、ラウルの作業場は朝も夜もなくなった。


 三日間、ラウルは寝ていない。床に紙束を広げ、四つん這いで紙の上を移動し、読んでは唸り、唸っては別の紙に飛び、その紙の余白に炭筆で自分の設計を描き殴っている。


 カイルが朝に差し入れた握り飯は、手をつけられないまま机の端で乾いていた。


 ヴァレンが部屋の隅に座り、三百年前の書体を読み解いていた。古い文法、三百年で意味が変わった技術用語、当時の魔素運用の前提条件——ラウルが一人では見落とす層を、ヴァレンが一枚ずつ剥がしていた。ラウルが紙を指差すと、ヴァレンが静かに補足する。二人の間に無駄な言葉はなかった。


十日目、ラウルが初めて顔を上げた。


「——この人は、全部描いてる」


目が充血していた。だが、その目の中に、カイルが見たことのない光があった。


「小型化。安全化。伝達化。三百年前に全部構想してる。俺が三年かかっても解けなかった問題の答えが、この三枚にある」


カイルはラウルの手を見た。震えていた。長い間一人で見ていた夢を、三百年前の誰かが同じように見ていたと知った人間の震えだった。


「ヴァレン。あんたの言った通りだった」


ヴァレンは静かに頷いた。


「ラウル。だがヴェラリオスには、お前の手がなかった。三百年間、この手稿は形にされるのを待っていた」





 手稿の七割が解読されるのに、三週間かかった。解読の過程で、新しい設計が次々に浮かび上がった。


成長畑具の改良型——従来の三倍の面積に作用する。浄化石の新型——村の水路全体に作用する。魔素造形炉の小型版——片手で持てる。


ルッツが数字を出した。


「殿下。手稿の設計を取り入れた新型であれば、全品目の月産が従来の五倍から十倍に跳ね上がります。しかも品質が上がる。ヴェラリオスの微細構造設計を使えば、魔素の効率が三割改善される」


五倍から十倍。カイルの手が止まった。一年目の年間生産が、月産に変わる。


「問題は——」


「技術者です。設計が新しくなっても、作れる人間がヴァレン先生とラウルしかいない。二人の手が届く範囲が、生産の天井です」


天井。カイルはその言葉を覚えていた。陳情百十件のうち三十九件しか配れなかった先月の数字も覚えていた。五倍から十倍に跳ね上がっても、二人の手が届く範囲でしか作れないなら、届かない家の数は変わらない。





四つ目の製品は、手稿の中から生まれた。


保存具。


ヴェラリオスの手稿の中に、空間系の魔素を使った「時間遅延」の構想があった。ラウルが二週間で形にした。木箱の蓋の裏に取り付ける薄い魔素板。蓋を閉じると、箱の中の空間に作用し、中身の時間の進みを大幅に遅らせる。


試験の日、ラウルが木箱に肉片を入れて蓋を閉じた。翌朝、蓋を開けた。匂いがなかった。三日後、五日後、まだ食べられる状態だった。通常なら二日目には腐り始める夏の肉が、五日間保った。


カイルは箱の中を覗き込んだ。匂いがない。その「ない」という感覚が重かった。





メルケンの提案で、保存具の最初の実地試験が行われた。


マルカ諸国の南端、海沿いの町ペスカルから来る行商人。ペスカルからヴェルデンまで、馬車で五日。通常、海の魚が高原に届くことはない。


保存具を渡した。行商人が木箱に魚を詰め、蓋を閉じた。五日間の旅に出た。


五日後、ヴェルデンの市場の広場に、馬車が到着した。カイルはメルケンの横で待っていた。行商人が馬車から木箱を降ろし、蓋を開けた瞬間——


カイルの鼻に海の匂いが届いた。


高原にはない匂い。塩と潮と、冷たい水の底にあった何かの匂い。乾いた山の空気の中に、突然、海が現れた。


箱の中に、魚があった。銀色の鱗が朝の光を反射していた。五日前にペスカルの港で揚がったものが、五日後の高原の市場で、まだ光っている。


最初に手を伸ばしたのは、白髪の老女だった。皺だらけの指先が、銀色の鱗に触れた。


「——本物だ」


老女の後ろから、「海の魚?」「嘘だろう」「五日もかかるのに腐ってないのか」という声が上がった。子供が走ってきた。「お母さん、光ってる魚がある!」


カイルは市場の端に立っていた。百六十年間海を見たことのない老女が、生まれて初めて海の魚に触れている。帳簿では「保存具一個の試験成功」と書ける出来事が、目の前では、一人の老女の指先の中に起きていた。


メルケンが後ろで低く言った。


「殿下。商圏が五倍になります。これはこの国の経済の形が変わる話です」


カイルは頷いた。だが、頷きながら、頭の片隅で別の数字が動いていた。五倍。——だが月産は二人の手に縛られている。五倍の商圏に対して、五倍の生産が追いつかなければ、この魚は一度きりの奇跡で終わる。





その日の午後、宰相府に戻ると、トーヴァが執務室の外で待っていた。顔色が悪い。


「殿下。エテルネアから二通目の報せが届きました」


カイルは書簡を受け取った。エテルネアの学士院の名で、封は蝋で閉じられていた。中は簡潔だった。


——レガリオン本国元老院の強硬派、密使と思しき者が先週ヴェルデン入りした形跡あり。下市街の集会三箇所を確認。旧貴族派の過激分派、失業工員の集会、そしてもう一箇所、場所は特定できず。下市街のどこかで、三つ目の集会が行われている可能性。


カイルはオルデンに書簡を渡した。オルデンは黙って読んだ。右手の震えが、今日はより頻繁だった。隠そうとしていない。カイルに見せている。


「強硬派は、不況を材料にしてこちらを崩しに来ている。旧貴族派と工員の怒りに火をつけ、制御を失わせる算段だ」


「どう対処しますか」


「今は守ることしかできぬ。下市街の巡回を増やす。護衛の配置を見直す。——だが、根本の対処は別にある」


「別の——」


「生産の天井を、今、砕かねばならぬ。魔素製品の配布速度が不況と暴力を上回れば、火の元は消える。燃やす材料がなくなる」


カイルの目が、机の上に置かれた書簡から、窓の外に動いた。


「天井を、砕く方法が——」


「あるはずだ。ヴェラリオスの手稿の中に。ラウルとヴァレンが、まだ全てを読み切っていない」





夕刻、カイルはラウルの作業場に戻った。


「ラウル。問題は、お前とヴァレン殿の二人の手だ。他の人間が同じ品質で作れない。それが今の天井だ」


ラウルは紙から顔を上げた。目が赤い。


「……分かってる」


「手稿の中に、これを解く設計はないか。一人の手の中にある知識を、他の人間に移す方法」


ラウルはしばらく黙った。それから、床の紙の山の中から、一枚を取り出した。解読の途中でヴァレンと一緒に読み、当時は「今すぐ作る物ではない」と後回しにしていた頁だった。


「ヴェラリオスは『記録石』と呼んでいる。空間と情報の複合系。魔素に知識を『構造』として記録して、触れた者の頭の中に流し込む。読み書きができなくても、触れれば分かる。——三百年前の構想だ。ヴェラリオスは実物を作れなかった。作れなかったから、三百年、大陸の技術は血筋と徒弟制の中に閉じ込められてきた」


ラウルは紙の上の線を指でなぞった。指先が震えていた。


「俺はこれを、ただの道具の設計図だと思ってた。違った。——これは、技術を血筋から切り離す道具の設計図だ。世に出せば、魔素造形師の育て方が変わる。いや、育て方だけじゃない。どの国で、誰の手に、どんな技術が宿るかの順番が、全部ひっくり返る」


ヴァレンが隅で顔を上げた。ラウルの言葉を聞いて、紙を持つ手が一瞬止まった。


「お前なら作れるか」


ラウルは紙を見ていた。長い間だった。


「ヴァレンが要る。俺一人では、記録する側の構造が組めない。——一週間か、十日か。試作を一個だけ、出せるかもしれん」


ヴァレンが隅の席から立ち上がった。手に別の紙を持っていた。


「ラウル、それの補完設計を、私が昨日から書いている。——明日からラグリスの工房に戻る。試作品を作れる場所は、あそこしかない。出来次第、ここに運ぶ」


ヴァレンは一度、紙の束を見下ろした。それから、カイルに視線を移した。


「殿下。一つだけ申し上げておきます。これが形になれば——竜人国の生産の天井が消えるだけではありません。大陸の全ての国で、技術を持つ者と持たぬ者の境界が、今日までとは違う場所に引き直されます。三百年、誰も作れなかったものが作れる日に、自分の手が関わる。——私の生涯のうちに、こんな日が来るとは思っていませんでした」


ヴァレンの声は低く、いつもの講義の声ではなかった。一言一言の間が長かった。


カイルは頷いた。記録石——ヴァレンとラウルの手の範囲を超えて、技術を他の人間に渡す鍵。これが動けば、月産の天井が消える。配布速度が上がる。不況の火が、技術の届く速度に追い越される。


「頼みます。早く」


ラウルは短く頷いて、再び紙に戻った。ヴァレンは紙を鞄に収めて、部屋を出た。





夜、カイルは執務室でオルデンと向かい合っていた。


「記録石が動けば、天井が消えます」


「いつ届く」


「ヴァレン殿が明日ラグリスに発ちます。試作の第一号は、早ければ一週間か十日後に」


オルデンは頷いた。右手は机の上に置いたまま、動かさなかった。震えは続いていた。


「それまで、下市街の火を燃やさぬように抑える。トーヴァに伝えてある。巡回を強化し、扇動者の動きを監視し、陳情には可能な限り迅速に対応する。——一週間、凌げれば」


一週間。この言葉が、狭い部屋の中で少しだけ広がった。一週間後に記録石が届けば、全てが動き出す。一週間前に火が燃え広がれば、全てが崩れる。


窓の外で、下市街の方角の空が少しだけ赤かった。篝火か、月明かりか。遠くて区別がつかない。





扉が開いた。リーネだった。下市街の翻訳先から、中市街のミレナ姉さんのところを経由して、宰相府に立ち寄ったようだった。外套の肩に春の夜の湿気がついていた。


「カイル兄、ちょっと顔を見に来た」


「リーネ」


「ミレナ姉さんも、忙しそうだった。代書屋の客が、いつもの倍だって。みんな何かに追われてるって、ミレナ姉さんが言ってた」


カイルは立ち上がった。オルデンが軽く頷くのを合図に、リーネを執務室の隅の窓辺に連れて行った。


「今夜はもう街に戻らない方がいい。下市街で集会が増えている」


「知ってる」


リーネは微笑んだ。微笑の中に、少し前までなかったものがあった。大人の顔の影が、笑顔の端に混じり始めていた。


「でも今日は、最後の子の家に行かないといけないの。先週、絵本の続きを約束したから。約束したなら、行かないと」


「場所はどこだ」


「西の路地の奥。三十分で読んで、すぐに戻る。暗くなる前には」


カイルは少しの間、迷った。引き留めるべきか、行かせるべきか。リーネの目には迷いがなかった。自分が行くべき場所を知っている目だった。


「……日が落ちる前に戻ってこい」


「分かってる」


リーネは振り返って微笑み、外套を羽織って執務室を出た。足音が廊下の向こうに消えた。


カイルはその足音を最後まで聞いていた。七年の癖で、音の遠ざかる速さから、歩幅と背筋の状態を読んでいた。リーネの歩幅は、一年前より少しだけ長かった。背筋は真っ直ぐだった。





オルデンが窓辺に立った。


「妹御は、強くなられた」


「はい」


「記録石の試作が届くまで、何も起きぬよう祈るしかない。だが——」


オルデンは言葉を切った。右手の震えが、今日は止まらなかった。


「祈りで足りる状況ではない、という予感が、私の手の中にある」


カイルはオルデンの右手を見た。震えていた。カイルの左手の親指が、無意識に薬指の付け根を擦っていた。二人の手が、それぞれの仕方で、同じ不安を体の外に出していた。





夜が深くなった。


カイルは執務室で、翌朝の記録石試験の段取り書を書いていた。まだ試作は届いていない。段取り書を書くのは早すぎる。だが書かずにいられなかった。手を動かしていないと、耳が音を拾いすぎる。


窓の外、下市街の方角の空が、さっきより少しだけ赤かった。


階下で、警備兵の交代の声が響いた。だが、声の数が少なかった。いつもの夜番は三十名。今夜は交代の声の響きが、半分以下に聞こえる。


夕刻にトーヴァからの伝言を受けていた。下市街の南の穀物倉に火が出た、と。原因不明。失業工員の仕業か、不注意か、まだ分からない。同時刻に西の路地でも別の小火騒ぎ。宰相府の警備長が「火の周辺の治安維持」を名目に、夜番の半分を下市街に派遣していた。戦時の正規手順ではない。だが二年目に入ってから、下市街の夜の小火騒ぎは続いており、警備長の判断は前例を踏襲したものだった。


——この同時多発の小火騒ぎ自体が、誰かの手によるものかもしれない。その疑いが頭を過ったが、今夜の段取りの優先順位の中では、まだ後回しだった。


リーネはまだ戻らない。約束は「日が落ちる前」だった。日が落ちてから、半刻が過ぎていた。カイルは時計を見ないようにした。見ても、何も変えられなかった。


遠くで、音が聞こえた気がした。扉が壊れる音のような。宰相府の勝手口の方角だった。夜番が下市街に派遣された今夜、最も手薄になっている扉。


気のせいだ、と自分に言い聞かせた。


気のせいではなかった。

【豆知識:ヴァレンの教え】


実務家ヴァレン・オーフリートは、戦前からのオルデンの同志で、失われつつある旧貴族の魔法技術を新世代の「魔素造形師」たちに教え込む仕事の中心です。第三章以降、魔素形成師・魔素操作師など専門が分化していく、その根幹に立つ人物です。

彼の教えの核にあるのは「魔素は燃料ではない。エネルギーと物質の連続体だ」という定義であり、魔素の四カテゴリ(形成・成長・空間・情報)という体系化に繋がります。彼には深い贖罪があります——「私が作った兵装が人を殺し、別の兵装が私の娘を殺しました」。その痛みが、血統を問わない技術継承の動力となっています。

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