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第45話 五十年、探してきた

エマヌの死から三週間後、オルデンは「同行せよ」と言った。行き先は告げなかった。


 朝、宰相府の裏手に六頭の馬が用意されていた。護衛は二人、接収担当官が二人。宰相が辺境に出るのに、護衛の数は明らかに少ない。だがオルデンは何も言わずに馬に乗った。カイルも従った。


 出発前、トーヴァが執務室に駆け込んできた。


 「殿下、下市街でまた抗議が。昨夜、魔素造形炉による修繕派遣の順位発表の後、陳情を出した家族が集まって、宰相府の前で夜通し声を上げたそうです。暴力には至っていませんが——雰囲気が、先月とは違います」


 「何が違う」


 「旧貴族派の若い者が混じっている。順位に漏れた工員と、家を失った旧貴族の次男三男が、同じ場所に立っている。先月までは、それぞれ別の広場で声を上げていました。今は、同じ広場です」


 カイルは頷いた。エマヌの死の夜に繋がった二つの怒りが、今や街頭の集会でも繋がり始めている。


 「承知した。宰相府の護衛は通常通り残す。——我々の旅は、半日で済む」


 オルデンの声だった。背後から聞いていた。





 ヴェルデンから馬で半日。街道を進んだ。


一時間ほど進んだ辺りで、街道の脇に、三軒続きの空き家が現れた。屋根に苔が積もり、戸口に板が打たれている。畑は雑草に覆われ、井戸の縁に蔓が絡みついていた。半年前、ラグリスへ向かう途中に見た放棄農家と同じ景色だった。だが数は増えていた。


オルデンは馬の上で、一度だけ目を向けた。何も言わなかった。カイルも何も言わなかった。


さらに一時間進んだところで、街道の脇の森の中に、焚き火の跡が見えた。新しいものだった。黒い炭と、散らばった肉の骨。丸太が切られて椅子の代わりになっていた。誰かが昨夜か一昨日、ここで集まって食事をした。


護衛の一人が馬を降りて確認した。戻ってきて低く報告した。


「人数は、十人から十五人。若い男の足跡と、年かさの男の足跡が混じっています。街道から外れた場所に集まっていた理由は——分かりません」


オルデンは頷いた。


「ロスワルド邸に向かう途中にも同じ跡があるか、気にしておけ」


護衛は頷いて、馬に戻った。


カイルはオルデンを見た。オルデンは前を向いたまま、馬を進めていた。だがカイルは気づいていた。この旅は、オルデンにとっても見えていないものを確認する旅でもあった。





ロスワルド邸は疲れた家だった。


石造りの本館と広い庭と、庭の奥の独立した書庫。建物は堂々としていたが、壁に染みがあり、庭の生垣が伸びすぎていた。三年にわたる接収への抵抗で、家全体が消耗していた。





広間でロスワルド卿が待っていた。百八十代の竜人。背は高く痩せ、目だけが鋭い。


「オルデン卿」


「ロスワルド卿」


二人は「卿」と呼び合った。古い時代の、同じ階層にいた者同士の呼び方だった。


「何をしに来た」


「古い技術書を探している。この家の書庫にしかない種類のものだ」


ロスワルド卿の目が変わった。


「五十年前、お前が若い頃、一度我が家を訪ねたことがあったな」


「はい」


「あの時、書庫を見せてくれと言った。私は断った。お前は何も言わずに帰った」


「はい」


「五十年経って、接収担当官を連れて来る理由が、ようやく分かった」


オルデンは何も答えなかった。ロスワルド卿を真っ直ぐに見ていた。





接収担当官を下がらせ、三人だけで書庫に入った。


カイルの目の前に、壁一面の書物が現れた。高さは天井まであった。これまでに見たどの蔵書庫よりも膨大だった。革の背表紙が並び、羊皮紙の巻物が棚を埋め、木箱が足元に重なっている。三百年分の知識が、この壁の中に眠っている。


オルデンは書庫の奥へ歩いた。迷わなかった。右に曲がり、二番目の通路を進み、最奥の壁際の一番下の棚——そこに、古い木箱があった。埃をかぶっていた。


オルデンはその木箱の前で屈んだ。


カイルは後ろに立っていた。オルデンの背中が見えた。百七十代後半の背中。真っ直ぐだった。だが膝を折って木箱の前に座った時、肩の線が変わった。宰相の肩ではなくなっていた。何かを長く待っていた人間の肩になっていた。


蓋を開けた。


埃の匂いがした。古い紙の匂い。乾いた、甘い、少しだけ酸っぱい匂い。三百年前の紙の匂い。


中には、黄ばんだ紙の束。保存状態は良かった。


オルデンは紙の束を手に取った。


目を閉じた。


長い時間だった。カイルは数えなかった。だが窓から入る光の角度が変わるほどの時間がそこにあった。


手が震えていた。


老いによる震えではない。七年間、この人の手が震えるのを、カイルは見たことがなかった。茶碗を持つ時も、書類を捲る時も、処刑リストに目を通す時も、手は動かなかった。今日、震えていた。


「五十年、探してきた」


声が低かった。いつもより低かった。いつもの低さは場を制する低さだ。今日の低さは、違った。何かが底に沈んで、そこから声が出ていた。





紙の最初の頁に、古い竜人の書体で名前が記されていた。


「ヴェラリオス」


オルデンは紙の束を膝の上に置いたまま、目を開けた。声が変わっていた。宰相の声ではなかった。書物を読む者の声だった。


「三百年前の竜人だ。旧貴族の家に生まれたが、家督を継がなかった。魔素の運用法を研究した。当時の魔素技術は大型の装置でしか動かなかった。ヴェラリオスはそれを変えようとした。装置を小さくする。民衆の家の中に置ける大きさにする。子供が触っても安全な構造にする。遠くの村にも届けられる仕組みを作る」


オルデンの指が紙の端を撫でた。三百年前の紙に、三百年前の人間の手の跡が残っている。


「王家と貴族はヴェラリオスの研究を認めなかった。魔素は王家のものであり、民衆に渡す必要はないと。ヴェラリオスは追放された。各地を転々としながら書き続けた。設計図、理論、実験の記録。死後、弟子たちが手稿を分けて保管した。一人で持っていれば王家に没収される。だから散らした。各家の書庫の奥に、一束ずつ」


カイルは息を止めていた。三百年前に同じことを考えた人間がいた。民衆の暮らしのために技術を使う。それを王家に拒まれ、追放され、それでも書き続けた。


「宰相閣下は——いつからこれを」


「若い頃、ヴァレンと酒を飲んだ夜に、ヴェラリオスの名を初めて聞いた。ヴァレンが言った。『三百年前に全てを構想した人がいた。手稿が各家に眠っているはずだ』と」


オルデンの声が低くなった。


「翌日から探し始めた。各家を訪ね、書庫を見せてくれと頼んだ。断られた。別の家を訪ねた。また断られた。五十年間、断られ続けた。大戦が来ても止めなかった。占領が来ても止めなかった。財産接収を始めたのは、書庫への道を開くためでもあった」


オルデンは紙の束を両手で持ち上げた。光に透かすように。紙の向こうに、三百年前の筆跡が浮かんでいた。


「これが最後の一束だ。ロスワルド家の書庫にしかなかった頁が、ここにある」


両手が震えていた。紙がかすかに揺れていた。


「これで、全てが揃う」


声が割れた。一瞬だけだった。すぐに戻った。だがカイルはそれを聞いた。五十年間、一度も割れなかった声が、今日、割れた。





広間に戻った。


ロスワルド卿が椅子から立ち上がった。オルデンの顔を見て、何かを読み取ったらしい。


「見つかったか」


「はい」


「ヴェラリオスの、最後の頁か」


カイルは驚いた。ロスワルド卿は手稿の中身を知っていた。


「卿は——ヴェラリオスの手稿だと、ご存じだったのですか」


ロスワルド卿はカイルを見ず、オルデンを見たまま答えた。


「我が家は三百年、あの紙を守ってきた。何が書いてあるかも知っている。ヴェラリオスは王家に追われた男だ。追われた男の書いたものを、我が家の先祖が匿った。以来、誰にも見せていない。見せれば王家に取り上げられるからだ」


「三百年——」


「三百年だ。私の祖父の祖父の祖父が、ヴェラリオスの弟子から受け取った。代々の当主が、あの木箱の場所だけを次の当主に伝えた。中を読んだ者は少ない。私は読んだ」


ロスワルド卿の声が変わった。


「読んで、分かった。あの男が何を目指していたか。魔素を民衆の手に渡す。王家の独占を壊す。——三百年前に、そう書いた人間がいた」


長い沈黙があった。


「オルデン卿、五十年前にお前が来た時、私は何を守っているのか分かっていなかった。書庫を守ることが家の誇りだと思っていた。書庫の中身が世に出れば、家の値打ちが下がると思っていた」


間。


「だが——あれは本当の誇りではなかったのかもしれぬ。三百年間、我が家が守ってきたのは、家の財産ではなかった。一人の男の志だった。志を閉じ込めることは、守ることとは違う」


カイルはロスワルド卿の目を見ていた。三年間、接収に抵抗し続けた老人の目。その目の中で、何かが場所を変えていた。


オルデンは静かに答えた。


「ロスワルド卿。貴殿の家が三百年守ってきた志を、この国に還した。——ヴェラリオスも、これを望んでいたと、私は思う」


ロスワルド卿は頭を下げた。深い、長い礼だった。老人の背中が折れた。折れたのではなく——降ろした。三百年間、代々の当主が守り続けていたものを、今、降ろした。





帰路、馬の上で、カイルはオルデンの背中を見ていた。


オルデンは木箱を自分の馬の鞍袋に入れていた。護衛にも預けなかった。紙は軽い。だが五十年分の時間がこの箱の中にある。


往路に見た焚き火の跡の辺りで、護衛がもう一度馬を降りて確認した。戻ってきて、低く首を振った。


「新しい跡はありません。だが——先ほどの場所より先、森の奥に、もう一つ、古い集会の跡があります。三日前から一週間前のものです。複数回、集まっている」


オルデンは頷いた。


「——気にしておけ」


それ以上は何も言わなかった。





馬が丘を越える間、カイルはこの二年間を巻き戻していた。


独立の翌朝の布告。旧貴族の財産接収令。広間が凍った。ラドマー卿の指が白くなった。——あの日から始まっていた。オルデンが壊そうとしていたのは、貴族の特権ではなかった。書庫の扉だった。


ラドマー卿が「裏切りだ」と言った。「貴族の誇りを守るために断った」と。カイルはあの時、ラドマー卿の怒りに正当性を感じた。今もそう思う。だが——オルデンが粛清を止めなかった理由が、今日、分かった。書庫の鍵を開けさせるためだった。ヴェラリオスの手稿を回収するためだった。それが各家に分散しているから、全ての旧貴族家が対象だったのだ。「立場を問わない」の意味が、今、初めて見えた。


エマヌが殺された。旧貴族派の暴力的な反撃。蔵書目録が焼かれた。——蔵書目録が焼かれた、という事実の重みが、今、変わった。あの暴力は、財産を守るための暴力ではなかった。書庫の中身を守るための暴力だった。目録を焼けば、何がどこにあるか分からなくなる。オルデンはそれを知っていたから、エマヌの死の後、粛清の手をさらに強めた。止めれば、残りの蔵書も焼かれる。


宰相府の中で「やりすぎだ」という声が出ていた。カイル自身も「これ以上は」と言いかけた。だがオルデンは「今やめれば、エマヌの死は無駄になる」と答えた。あの言葉の裏にあったのは、弟子を失った痛みだけではなかった。蔵書が焼かれる前に回収を終わらせなければならないという、時間との戦いだった。


全てが繋がった。布告も、粛清も、全面凍結も、エマヌの死の後の加速も。二年間、カイルの目の前で起きていた全ての出来事が、この木箱に向かっていた。


そしてオルデンは、誰にもそれを言わなかった。カイルにさえ。五十年間、一人で。


カイルの手は震えていなかった。だが、体の芯が熱かった。怒りに近い熱さだった。オルデンに対する怒りではない。五十年間これを一人で背負い、誰にも言えず、粛清の苛烈さだけを周囲に見せ続けた——その孤独に対する、行き場のない熱さだった。





ヴェルデン帰還。日が落ちる前に宰相府に戻った。


トーヴァが門の外で待っていた。顔色が悪い。


「殿下、宰相。ご報告が二件」


「聞こう」


「一件目。ラドマー卿が、宰相府宛に書簡を届けてこられました。旧貴族派の中の過激分派が、ラドマー卿の制御を離れた、と。本人はもはや彼らに責任を持てない、自分はあらゆる集会と距離を置く、と明言しておられます。事実上の絶縁宣言です」


オルデンは書簡を受け取った。一読して、何も言わなかった。


「二件目は」


「二件目は——レガリオン本国の情勢について。エテルネアの学士院から非公式の報せが届いています。本国元老院の中に、副室長殿と対立する派閥が力を増している、と。名前はまだ特定できていません。便宜上、『強硬派』と呼ばれているそうです。彼らは——独立後のアストラードの不況を『独立の失敗の証拠』として本国で喧伝している」


オルデンの目が一瞬だけ動いた。


「強硬派」


「はい。そして、その派閥の密使と思われる者が、ヴェルデン下市街の集会に出入りしている目撃情報があります。旧貴族派の過激分派の集会と、失業工員の集会と、両方に」


カイルは背筋が冷えた。往路と帰路に見た焚き火の跡。森の奥の、古い集会の跡。——三つの怒りが、同じ場所に集まり始めている。旧貴族派の暴力、不況の怒り、そして外からの扇動。


オルデンは書簡を閉じ、トーヴァに短く指示した。


「詳しく調べよ。ただし急がず。気取られぬように。——今夜、報告にまた来てくれ」


トーヴァは頷いて去った。





執務室に戻った。オルデンは鞍袋から木箱を取り出し、机の上に置いた。


「カイル、今日のことは、まだ誰にも言うな。ヴァレンとラウルに渡すのは明日だ」


「承知しました」


オルデンは右手を机の上に置いた。紙の束の上に。そのまま動かなかった。カイルはその手を見た。五十年分の時間が、その掌の下にある。


だが、カイルの目は別のものを捉えていた。オルデンの右手の指先が、一度、かすかに震えた。止まった。もう一度、震えた。


往路で誰にも見せなかった震えが、ここで出た。五十年の仕事を終えた解放ではなかった。旅の疲れでもなかった。——もっと別の、体の奥から来る震えだった。


カイルは何も言わなかった。オルデンも言わなかった。


窓の外で、春の夜が始まっていた。

【豆知識:特需反動不況】


第一章の独立前後、アストラードに大金をもたらした「戦争特需」。南東部のタルシス紛争への魔導具需要で、工房は二十四時間稼働し、外貨が大量に流入しました。

しかし第二章の現在、その特需は既に終わり、深刻な反動不況に陥っています。工房は受注が止まり、職人は手を遊ばせ、失業した元工員の一部は旧貴族派の反発と結びついて急進化しつつあります。表の復興の明るさと、水面下の不況の重さ——二つが同時進行するのが、第二章の基調です。

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