第44話 エマヌの死
春の朝に、急報が入った。
トーヴァが執務室に走り込んできた。走り込むこと自体が異常だった。早口の事務官は、どんな時でも歩いて書類を持ってくる人だった。
「殿下。ヴァレン殿の弟子の一人が——昨夜、殺されました」
旧貴族の粛清は二年目に入って、血の匂いがし始めていた。
一年目の財産接収令に始まり、全面凍結令、公職追放——そして、接収に抵抗する家には拘束。十数の旧貴族家に同じ措置が拡大していた。
先月、接収に来た宰相府の役人が殴られた。接収先の使用人が役人の顔を踏みつけ、あばら骨を二本折った。役人は若い竜人で、家に帰れない体になった。その翌週、別の接収先で書庫に火がつけられた。蔵書目録の棚だった。目録が灰になった。何がどこにあるか、もう分からない。
粛清に反発する旧貴族の一部は、組織的に動き始めていた。接収に来る役人を待ち伏せる。接収済みの財産を夜中に持ち出す。宰相府に恫喝の書簡を送る。抵抗は個人の怒りから、集団の暴力に変わりつつあった。
暴力だけではなかった。先々月、全面凍結を受けた旧貴族の当主が自ら命を絶った。百九十代の老竜人。書置きには「家を守れなかった恥」とだけ書かれていた。その翌週にもう一人。こちらは当主ではなく、当主の妻だった。二人の死は公式には記録されなかった。だがカイルの机の上には報告が来ていた。二枚の薄い紙。戦死報と同じ薄さの紙だった。
宰相府の内部にも「やりすぎだ」という声が出ていた。古参の補佐官の一人がオルデンに直接意見した。「宰相、このままでは宰相府が民衆の支持を失います」。オルデンは黙って聞いた。聞いた後、「止めぬ」とだけ答えた。
カイルの机の上に、毎朝、粛清に関する報告が積まれた。拘束者の名簿。損壊された財産のリスト。怪我をした役人の治療費。焼失した蔵書の目録。——帳簿で管理できる種類の被害だった。
だが帳簿に載らない被害の方が深かった。
旧貴族の家に出入りしていた職人が仕事を失った。旧貴族と取引していた商家が手を引いた。粛清の余波が、関係のない人々の暮らしに染み出していた。
旧貴族の家の子供たちが、学問の場から追い出されていた。公職追放は当主だけでなく家族にも及ぶ。若い竜人が書庫のある家で学ぶことは、今や「粛清対象に加担する行為」と見なされかねなかった。知識を受け取る側が萎縮している。
ヴァレンの弟子の中にも、身を隠し始める者が出た。旧貴族の家で修業していた若い技術者が二人、先月から姿を見せていない。ルッツが調べると、故郷の農村に帰っていた。「殺されるかもしれないのに、なぜ技を覚えなければならないのか」。そう言ったと聞いた。
民衆の間にも亀裂が入っていた。下市街では粛清を支持する声がまだ強い。「旧貴族が独占してきたものを取り返すのだ」。だが市場の商人の中には「やりすぎだ。次は自分たちの番かもしれない」と顔を曇らせる者もいた。メルケンが手紙に書いてきた。「殿下、粛清を支持する声と怯える声が、同じ市場の中にあります」。
接収された旧貴族の屋敷は空き家になった。管理する者がいない。庭は荒れ、壁に染みが広がり、屋根が傷み始めている。旅の途中で見た戦災の家屋と似た姿に、少しずつ近づいていた。壊すために壊しているのではない。だが壊れていく。
そしてカイル自身にも変化があった。下市街を歩くと、以前にはなかった視線を感じるようになった。敵意ではない。だが、かつての無関心とも違う。王族の末席。粛清を命じる宰相に仕える人間。——旅の間に見てきた民衆の暮らし、井戸端の女性、市場の商人、蝋燭を売る老人。あの人たちの目が、少し変わった。
反撃は来ると分かっていた。分かっていたが、この形で来るとは。
エマヌ。六十代半ばの竜人。民間工房の出身。
ヴァレンが弟子を取り始めた時、最初に選ばれた中の一人だった。貴族の家系なら十年かけて身につける筋を、五年でほぼ持とうとしていた。飲み込みが早く、静かで、真面目だった。カイルは三度ほど顔を合わせたことがある。工場で設計図の前に座っていた。顔を上げて、少し笑って、また紙に戻った。それだけの記憶だった。
その夜、作業場から宿舎に帰る途中の路地で、三人の覆面の男に襲われた。
「貴族の知識を盗んだ民の子」
それが、残された言葉だった。
カイルはヴァレンの宿舎に向かう前に、ルッツに事件の調査を指示した。三人の襲撃者のうち、一人はその場で民衆に取り押さえられ、二人は逃げていた。取り押さえられた者の身元を調べること。
夕刻、ルッツが報告に来た。事務的な顔をしていた。だが声の奥に、説明しきれないものがあった。
「殿下。取り押さえられた者の身元が判明しました」
「旧貴族派か」
「一人は、そうです。旧ハルブ家の家令の次男。家の凍結後に職を失い、旧主家の屋敷に出入りしていた八十代の若者」
「残りの二人は」
ルッツは紙の次の頁を開いた。
「一人は逃走中。目撃証言からは、旧ドミア家の護衛官と見られます。旧貴族派の組織的な動きに加わっていた」
「もう一人は」
ルッツの指が紙の上で一瞬止まった。
「もう一人は——九十代の竜人の男です。名をセイケル。旧貴族派とは関係がない。ヴェルデン下市街の工員。特需期に第二工場で雇われ、特需終了で解雇されました。陳情の名簿に名前がありました。魔素造形炉による修繕を求めた家の一人です。先月の派遣で順位の外に回り、冬を越せぬと陳情書に書いていた」
カイルの筆が止まった。
「工員が——ヴァレン殿の弟子を殺したのか」
「はい。旧貴族派の二人と、陳情の順位から外れた工員が一人。同じ路地に集まり、同じ若者を襲った。襲撃は組織的な指揮下にあったのではありません。旧貴族派が『知識を盗んだ者を討つ』と街で呼びかけ、セイケルはそれに加わった」
ルッツは紙を閉じた。
「セイケルの供述によれば——『宰相府の連中は、俺の家族に魔素造形炉を回さなかった。だが貴族の知識を盗んだ若造には、技術を教えている。順番が逆だ』と」
ルッツは少しだけ間を置いて、続けた。
「もう一つ、供述の中にありました。——『去年の冬は、宰相府から一時手当が来た。それで家族が冬を越せた。今年はその手当が来ない。陳情も通らない。俺たちは去年までは助けられていた人間だ。今年だけ、助けが消えた』」
カイルは紙を机に置いた。左手の親指が、薬指の付け根を擦っていた。
一年前、オルデンは接収金の半分を民間緊急支援に回すと決めた。失業した工員への一時手当、冬の食糧配給補助。その予算が去年の冬、セイケルの家族を支えた。——だが今年度、予算は三割まで縮小されていた。目ぼしい旧貴族家の接収が完了し、新規の財源がなかったからだった。セイケルの家は、去年支えられて、今年支えられなかった。その差分が、路地の刃になった。
旧貴族派と、陳情の順位から外れた工員が、同じ路地で刃を握った。繋がるはずのない二つの怒りが、エマヌという一人の若者の上で重なった。粛清への反発と、一時手当を失った不況の怒りが、初めて同じ手を握った夜だった。
ヴァレンの宰相府の宿舎に向かった。
裏庭に、仮の墓があった。小さな土の盛り上がり。松の木の下。春の花がいくつか開きかけている。その花の横に、土が新しく掘られていた。
ヴァレンは墓の前に立っていた。
カイルは横に立った。何も言わなかった。
長い沈黙の後、ヴァレンが口を開いた。
「カイル殿」
「はい」
「エマヌは民間の子でした。貴族の血を持たない。師もいなかった。だが技を覚える速さは、私の若い頃よりも——」
声が途切れた。途切れてから、立て直した。
「『貴族の知識を盗んだ民の子』と、彼らは言ったそうです。盗んではいない。私が渡したのです。だが彼らにとっては同じことです。貴族の知識が、民間の手に渡ること自体が」
ヴァレンは墓を見下ろした。
「やめられません」
声は揺るがなかった。長い年月をかけて、揺れないようにした声だった。写真に布をかける時と同じ手つきで、この言葉を口に出していた。
「エマヌが死んだから、やめるのではない。エマヌが死んだから、やめられないのです。やめれば、エマヌは嘘の名前のまま忘れられます。続けて、知識を他の若者たちに渡し続けて、いつかこの国の技術が民衆の手で花開く時——その時、エマヌの名前が静かに残る」
カイルはヴァレンの横で、セイケルの名前を口にすべきかどうか迷った。襲撃者の一人は、魔素造形炉が届かなかった家の父親だった。技術の遅れが、技術を運ぶ若者を殺した。この事実をヴァレンに告げることは——ヴァレンの贖罪の形を、もう一度ねじ曲げることになる。
告げなかった。今日は告げない。
ラグリスから来ていたヴァレンの妻が裏庭に茶を運んできた。二つの茶碗を、仮の墓の横に置いた。一言も発さなかった。墓を一度だけ見た。それから宿舎の中に戻った。
カイルは茶碗を見た。二つ。一つはヴァレンの分。もう一つは——エマヌの分だろうか。それともカイルの分だろうか。どちらでもいいのかもしれなかった。
宰相府に戻り、オルデンに報告した。
エマヌの死。三人の襲撃者。「貴族の知識を盗んだ民の子」。そして——襲撃者の一人は旧貴族派ではなく、陳情の順位から外れた失業工員だった。
オルデンは黙って聞いた。聞き終えた後、目を閉じた。三秒。五秒。開けた。
「繋がったか」
短い言葉だった。だがその言葉は、カイルの背筋に冷たいものを走らせた。オルデンはこの事態を予想していた。旧貴族派の怒りと不況の怒りが、いつか同じ刃を握ることを。
「粛清を、さらに強める」
カイルの体が止まった。
「宰相閣下——。襲撃者の一人は不況の被害者です。粛清を強めれば、工員は救われません。むしろ——」
「むしろ、繋がりが広がる。分かっている」
オルデンの声は低かった。
「だが今、粛清の速度を緩めることはできぬ。旧貴族派の残る書庫に、まだ取るべきものがある。蔵書目録が焼かれた後、残りも焼かれる前に。——止めれば、五十年の仕事が崩れる」
カイルは「これ以上は」の先を呑み込んだ。ヴァレンが一人で立たせられない。オルデンも止まらない。止まれない理由があって、それはまだカイルには見えていない。
「不況への対応も別に手を打たねばならぬ。そして——魔素造形炉と畑具と浄化石の配布速度も、今の速度では無理だ。根本から変える手を、別に考えねばならぬ」
「別の手——」
「まだ見えておらぬ。だが、見つけねばならぬ」
カイルは頷いた。オルデンの目に、一年目の年次報告の夜に見た「待っている目」があった。何かが来ることを知っていて、それが来るまで、この血の循環を保たなければならない。
「承知しました」
執務室に戻った。
一人で座っていた。窓の外で、春の風が吹いていた。
エマヌの死は、旧貴族の粛清の中で起きた。粛清が進めば反撃が来る。反撃は暴力になる。暴力は人を殺す。殺された人の死が、さらに粛清を加速させる。
そしてその反撃に、今や不況の怒りが混ざり始めた。二つの怒りが一つの刃になった夜。明日以降、もっと多くの工員が旧貴族派の街の呼びかけに応じる可能性がある。陳情の順位から外れた家の数だけ、セイケルのような者が生まれうる。
循環。だがこれは、メルケンが語った経済の循環とは正反対の循環だった。生む循環ではなく、壊す循環。
止める方法は、まだ見えない。
夜、窓辺に立った。
春の夜。裏庭の松の木の方角——ここからは見えない。だがあの場所に仮の墓がある。花が開きかけている。その横に新しい土がある。
エマヌの名前を覚えている。三度会っただけだ。設計図の前に座っていた。顔を上げて、少し笑った。それだけだ。
それだけだが——記録に残す。正式な記録には載らない名前。だが自分の紙には書く。
「エマヌ。六十代半ば。民間工房出身。ヴァレンの弟子。技を覚える速さは師を超えていた。——路地で、三人に殺された。三人のうち一人は、魔素造形炉の順位から外れた工員だった。技術の遅れが、技術を運ぶ若者を殺した」
筆を置いた。手が震えていた。震えの種類は、ラウルを見つけた時とは違った。見つけた震えではなく、失った震えだった。
【豆知識:旧時代の職人】
ヴァレンの弟子エマヌ——六十代半ば、民間工房出身の親方です。旧貴族の魔法技術を家門の秘儀の外に持ち出し、平民の手に渡す仕事の最前線に立っていました。
復興の規格化・工業化は、「古き良き手仕事」を過去のものにしていく非情な過程でもあります。第二章ではエマヌが、旧貴族派と失業した元工員の複合的な襲撃で命を落とします。技術の継承が進む影で、古い世界の職人が暴力の矢面に立たされ始めている——その最初の象徴的な事件です。




