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第43話 一年目の報告

一年分の紙が、机の上に積まれていた。


 月次経済報告十二通。工場の台帳の写し。製品の試験結果。民間移管の契約書。メルケンとの交渉記録。志願兵の月次数字。陳情の集計。——高さにして、掌の幅ほど。一年間の仕事が、この厚みになっている。


 高原の冬は早い。十月の終わりには雪が降り始め、街道が白くなる。各地の巡回を終えてヴェルデンに戻り、年次報告を書く。カイルにとって初めての年次報告だった。





 数字を並べた。


 工場の移管状況。全十二工場のうち七工場が移管完了。残りは来年度。成長畑具が六十余個、二十六の農村に配布。浄化石が二百三十個、下市街と周辺の町に配布。魔素造形炉が二十八個、戦災家屋の修繕に十三件使用。雇用の増加、百二十名。形成術師の見習い、八名。


 数字は正確だった。一年前なら、ここで筆を止めていただろう。


 止めなかった。


 数字の下に、もう一段書いた。


 成長畑具を配布した農村で、老農が「飢えぬということか」と言った目。だが畑具が届いたのは二十六の農村だけだ。この国に農村はいくつある。半年の旅で見た——高原の集落、丘陵の畑、辺境の痩せた土地。耕せていない畑がまだ数えきれないほどある。浄化石を受け取った女性が衣服を胸に抱えて泣いた声。だが濁った井戸水を布で濾している集落の方がはるかに多い。魔素造形炉で壁を直した家の妻が触れた冷たさ——「前の壁と同じだ」。だが壊れたままの家は下市街だけでも数百棟、国中を合わせれば数千棟に及ぶ。東部の焼けた納屋も、辺境の崩れかけた小屋も、全て残っている。製品を作る人材も、魔素造形炉を操作する魔素造形師も、ヴァレンとラウルの手が届く範囲に閉じ込められている。


 そして——志願兵の数字。一年間の合計、七百八十名。月平均六十五名。合意後、月平均が上昇している。


 この数字をどこに入れるか迷った。帳簿の数字の列に入れるか、現場の声の中に入れるか。数字としては正確だった。だが数字だけでは、募兵所の前で肩を震わせていた若者の姿が消える。


 声の側に入れた。


 もう一つ、帳簿に載らない数字があった。陳情の受理件数。半月で四十三件、その後の半月でさらに六十七件。合計百十件。そのうち配布が間に合った件数は三十九件。残りの七十一件は順位の外で冬を待っている。——この数字も、声の側に入れた。


そして、もう一つ。数字の列の一番下に、重い項目があった。


旧貴族家財産接収による民間緊急支援予算——一年目の計上額に対して、年末までの執行率は九割一分。


接収金の半分を民間支援に回すと、オルデンは一年前に決めた。失業した工員への一時手当、戦災家屋の緊急修繕費、冬の食糧配給補助。この一年、その予算が下市街と高原の村々を静かに支えてきた。数字には出ない支え方だった。誰も「宰相府のおかげだ」とは言わなかった。だが、夜逃げの家が去年までは少なかったのは、この予算があったからだった。


来年度の見込みを、ルッツが同じ紙の末尾に書いていた。


来年度の民間緊急支援予算——計上見込み、一年目の約三割。目ぼしい旧貴族家の接収は今年度中にほぼ完了しており、新規の財源は期待できない。


三割。一年目の支えの、三割しか残らない。工員への一時手当は縮小される。戦災家屋の緊急修繕費は、ほぼゼロになる。食糧配給補助は最低限まで削られる。——民衆の側から見れば、来年は「去年まであった助けがなくなる年」になる。


カイルはこの数字を、もう一度見た。それから「声の側」に入れた。帳簿の列には入れなかった。帳簿に入れれば「削減」という一語で処理される。だが削減される先には、今日もまだ、助けを受けている家があった。





 報告書をオルデンに提出した。


 オルデンは執務室で、一頁ずつ読んだ。窓の外の光が傾き、日が落ちかけても読み続けた。


 読み終えて、顔を上げた。


 「カイル、一年前の最初の報告と、この報告は、別の人間が書いている」


 「……一年間で、少しだけ」


 「少しではない」


 オルデンの声は静かだった。


 「数字と、現場の声が、一つの文書の中で繋がっている。一年前は数字だけだった。今は、数字の向こうにいる人間の顔が見える報告になっている」


 オルデンは報告書を開き直し、出荷数の頁に指を置いた。


 「工場移管は半分を超えた。製品は市場に出始めた。だが——」


指が数字の列を辿った。


 「技術者が足りぬ。ヴァレンとラウルの二人が指導し、品質を見られるラインでしか、まだ動いておらぬ。この出荷数が、今の天井だ」


 カイルは頷いた。報告書を書きながら同じことを感じていた。成長畑具六十余個、浄化石二百三十個。数字は伸びている。だがこの数字は二人の手が届く範囲の数字だった。全国の農村に、全国の川辺に届けるには、桁が足りない。


 「この天井を、どう越えるかは——まだ見えていません」


 「見えていなくてよい。まだ」


 オルデンの声に、一年前の夕暮れと同じ響きがあった。「見えなくて構わぬ。今はまだ」。あの日と同じ言葉だった。だが今日のオルデンの目には、あの日にはなかったものがあった。焦りではない。確信でもない。——待っている目だった。何かが来ることを知っていて、待っている。


間があった。


「もう一つ」


「はい」


「志願兵の数字と、陳情の未配件数を、お前は報告の最後に入れた。帳簿の中に入れたのではない。現場の声の中に入れた」


カイルは黙った。


「正しい判断だ」


オルデンはそれだけ言った。それから報告書の最後の頁——志願兵と陳情の頁を、もう一度開いた。七百八十名。七十一件。二つの数字を長く見ていた。何も言わなかった。





 報告書の提出を終えた。


 まだ夕方には早かった。執務室に戻って次の書類に取りかかってもよかった。この一年、自室の机に向かう夜はほとんどなかった。記録は執務室で書き、自室には帰って寝るだけの日が増えた。一年前なら考えられないことだった。


 だが、今夜は足が自然に中市街に向かった。一年前のこの日のことを、なぜか今夜は誰かのいる場所で確かめたかった。


 アルブレヒト邸の扉を開けると、食堂の方から声が聞こえた。リーネの声だった。


 「カイル兄」


 食堂を覗くと、リーネがミレナと向かい合って座っていた。机の上にお茶と、リーネの絵本の原稿が数枚散らばっていた。下市街からの帰り道に立ち寄ったらしい。


 ミレナがリーネの方を指した。


 「この子も今日たまたま来たの。座って」


 カイルは席についた。ミレナが三つ目の茶碗を出して、お茶を注いだ。古い陶器の音が、食堂の空気の中で小さく鳴った。


 「カイル兄、一年だね」


 「ああ」


 「私ね、今日下市街の子供たちに聞いたの。浄化石って知ってる? って。試験で配られた通りでは、三人に一人が知ってた。使ったことがある子もいた。『お母さんが、洗濯が早くなったって泣いてた』って」


 カイルは少しだけ笑った。ランメルトの川辺の女性の話が、下市街の子供にまで届いている。


 「でもね、カイル兄」


 リーネの声が少し落ちた。


 「その通りでも、残りの三分の二の家では、お母さんはまだ川辺で叩いてる。通りを一本外れて絵本を届けに行けば、ほとんどの家が浄化石を見たこともないの。その家のお母さんたちは、浄化石のことを聞くと、黙ってしまう。——『うちには、いつ来るんですか』って、子供が聞いてくるの。私は答えられない」


 カイルは頷いた。リーネも同じ壁に触れている。


 「私のところにも来てる」


 ミレナが言った。


 「代書屋の客で、『隣の家には浄化石が回ってきた。うちには来ない。なぜか』って書類を書きにくる。書類の宛先は宰相府。でも書類で問えば順位の話に戻る。書類を書きながら、私は分かってる。——書類で解決しないことを、書類に書いている」


 カイルはミレナを見た。茶碗の縁で、茶が小さく揺れていた。


 「カイル兄」


 リーネの声が、少し別の調子になった。


 「一年前の布告の日、なんで宰相は独立の翌日に旧貴族の財産を取り上げたのか、分からなかった。まだ全部は分からない。でも——少しだけ見えてきた気がする」


 「何が見えた」


 「宰相は、技術を閉じ込めてた蓋を壊したんでしょ。蓋が外れたから、浄化石も成長畑具も民衆の手に届いた。蓋を壊すのに、旧貴族の財産が邪魔だった。——合ってる?」


 「半分くらい合っている」


 リーネが少し息を呑んだ。


 「——半分も?」


 その声に驚きが混じっていた。半分も合っているなんて、まさか思っていなかった。少しでも当たっていれば嬉しい、くらいのつもりで言ったのだった。


 ミレナがふっと笑った。


 「リーネ、あなた、お兄さんよりよっぽど早く分かってるわね」


 リーネは少し顔を赤くした。それから、嬉しそうに笑った。


 「……半分も、合ってたんだ。一年前は、ぜんぜん何も分からなかったのに」


 ミレナがもう一度、茶を一口飲んだ。


 「私はね、爵位取り上げられてよかったと思ってるよ」


 二人がミレナを見た。


 「おかげで貴族以外の客が増えた。前はこっちが気にしなくても、向こうが気にして来られなかった人がいた。今は来てくれる。世の中がよく見える」


 カイルもふっと笑った。茶碗の縁から立ち上る湯気が、三人の間で揺れていた。





 夜、執務室の窓辺に立った。


 一年分の報告書は、机の上に写しが残っている。掌の幅の厚さ。この厚みの中に一年間が入っている。工場の炉の温かさ。老農の目の潤み。ラウルの迷いのない線。川辺の女性の涙。壁の冷たさ。募兵所の沈黙の列。下市街の男の「選ばれなかった家で待つ者」。


独立したから、ここにいる。独立しなければ、この一年間はなかった。浄化石も、成長畑具も、魔素造形炉も——占領下では生まれなかった。レガリオンの監督府が精製所を管理し、地脈の利用権を握り、技術者を引き渡せと言っていたあの七年間では。


七年。オルデンは七年間耐えた。耐えるだけではなかった。裏でルッツを動かし、製造ラインに民生転用を仕込み、技術者を守り、独立の機を窺い続けた。あの忍耐がなければ、今年のこの報告書は存在しない。


だが——この報告書に書かれた数字は、まだ全く足りない。成長畑具が六十余個。この国に農村はいくつある。浄化石が二百三十個。濁った水を布で濾している集落の方がはるかに多い。魔素造形炉が二十八個。壊れたままの家が国中に数千棟ある。改善の道は始まったが、全ての民衆に届く日は遠い。半年かけて旅した国土の広さを体で知っている。あの距離を、この数字で埋めるには、何年かかるのか。


そしてその間にも、月に六十五人の若者が戦場に向かう。特需の反動は治まらず、夜逃げの家は増え、順位の外で冬を待つ者が増えていく。


窓の外を見た。高原の夜。


もっと早くできなかったのか。


七年間、オルデンのそばで記録を取っていた。交渉の席に座り、帳簿を書き、茶を淹れた。独立までの日々、自分の脚で走り回った。レガリオンとの条件交渉、バルトとの接触、アルマンとのやりとり——目の前のことに必死だった。必死で、それ以上のことは考えられなかった。


だが今、振り返ると——もっと早く独立を引き出す道はなかったのか。一年早ければ、あの農村に成長畑具が一年早く届いた。一年早ければ、募兵所に並ぶ若者が七百八十人分少なかった。もっと早くできなかったのかと問うた時、答えは「できなかった」だろう。だがその答えは、自分の無力さの記録でもあった。


そもそも——王家が大戦を引き起こさなければ、この現実はなかった。


その思いが、体の奥を通り過ぎた。


王宮で育った。末弟だった。兄たちの陰で、何の期待もされなかった。存在価値のない末の子。誰にも求められず、何も決められず、ただ眺めていた。王家が戦を始め、兄たちが死に、国が負け、占領が来た。その全てを、末弟はただ眺めていた。


今は違う。


報告書を書き、契約書に署名し、工場を回り、農村を歩き、商人と話し、技術者を探した。この一年間で、国の暮らしの一部が変わった。数字の上でも、数字の外でも。——自分の手で変えた。末弟の手で。


だが、遅い。


この速度では間に合わない。ルッツの試算が頭にあった。月に百名の志願者が流出すれば、技術革新による生産増加の半分が相殺される。製品の普及が志願の速度に追いつかなければ、改善は帳簿の上で消えていく。そして志願は止まらない。レガリオンの要求は増え続ける。タルシスは決着したが小競り合いは続き、緊張が溶ける日は見えない。コヴァルドとの北部戦線も本格化している。この国の外で起きていることが、この国の中の時間を削っている。


ヴァレンとラウルの手が届く範囲でしか製品は作れない。オルデンが「二人の手が届く範囲でしか動いておらぬ」と言った。天井がある。その天井を突き破らなければ、浄化石も成長畑具も魔素造形炉も、永遠に数百個止まりだ。全国に届く日は来ない。井戸の水を布で濾す女性は、明日も濾し続ける。焼けた納屋は、明日も焼けたままだ。順位の外で待つ者は、明日もまだ順位の外で待つ。


何かが決定的に足りない。先月、下市街で順位から漏れた男の声を聞いた夜にも同じことを思った。技術はある。意志もある。人もいる。だが、この速度を根本から変える何かが、見つかっていない。


自分にはそれが何か分からなかった。案もない。手段も持っていない。報告書は書ける。契約書は作れる。工場を回り、商人と話せる。だが——この壁を壊す鍵は、自分の手の中にはない。


焦りが、掌の中で熱を持った。


王家はもう動かない。父ヴェルディンは沈黙し、兄セルヴァンは東庭で果実酒を飲んでいる。——東庭。あの果実酒の匂い。肩に置かれた手の重さが、一瞬だけ蘇った。振り払うように、次の行を考えた。王族として政治に関わっている人間は、もう自分しかいない。


ラドマー卿に問われた。「なぜ宰相にお仕えしているのか」。あの日は「命じられたから」としか答えられなかった。数ヶ月前は「見届けたい」が答えに近いと思った。


今夜、もう少し先が見えた。見届けるだけではない。王家が壊したものを、自分の手で直す。それが——末弟に残された、最後の役割だ。


だが役割を自覚することと、壁を壊せることは違う。鍵はまだ見つかっていない。





窓の外の高原の夜。遠くに、微かな光が見えた。


地脈の光。


一年前にも見た光だった。独立の翌朝の夜、執務室の窓から見た光。あの時は、星が近いと思っただけだった。


今夜の光は、少し違って見えた。


以前は上から降りてくるように見えていた。星の光が大地に沈殿する——古い詩にある通りに。だが今夜、光の流れが逆に見えた。下から上へ。大地の中から昇ってくるように。


目を擦った。気のせいかもしれなかった。


だが確かに、向きが違う。


変わっているのは、光なのか。それとも、自分の目なのか。





個人の記録の紙を開いた。一年間の最後の記録。


「独立一年目の年次報告を提出した」


「高原の光。向きが変わって見える。下から昇るように。変わっているのは、光か、私の目か」


筆を止めた。もう一行、書くかどうか迷った。


書いた。


「王家が壊したものを、自分の手で直す。それが、末弟に残された最後の役割だ」


筆を置いた。


窓の外で、光が静かに揺れていた。一年目の冬の夜。高原の空気は冷たかった。だが、冷たさの中に、昨年にはなかった何かが混じっている気がした。


名前はまだない。だが、確かにそこにある。

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