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第42話 広がりと、届かない者

ルヴェットの交渉から半月が過ぎた。


 「志願を妨げない」体制の公式宣言が出された日の翌朝、宰相府の受付に陳情の列ができた。


 トーヴァが執務室に書類の束を抱えて入ってきた。頬が少し赤かった。歩いて運んだ距離の分だけではなかった。


 「殿下。下市街から陳情が」


 「何通だ」


 「今朝までに四十三通。内訳は——成長畑具の配布希望が十八通、浄化石が十四通、魔素造形炉の修繕依頼が十一通」


 トーヴァは書類を机に置いた。一番上の一通は、粗い紙に墨で書かれていた。字が震えていた。


 「『成長畑具をこの村にも。冬麦の種蒔きに間に合いますよう』——ラクマレ村、代表者の名前はなし。三十名の連名の拇印が押してあります」


 次の一通。


 「『浄化石を一つお願いしたい。娘の肌が水で荒れて、もう石を叩けぬ』——ヴェルデン下市街、西の路地、八十代の母親」


 次の一通。


 「『壁の修繕を一件。七年前に崩れたまま、末の子が冬を二度越した。三度目はもう越せぬ』——オストーフ近郊、煉瓦工の家族」


 カイルは書類を一通ずつ見た。字の震え方が、一通ごとに違った。字が書ける者が書き、字が書けない者は拇印を押した。拇印の紙は乾いた血のように茶色く滲んでいた。


 「……配布可能数は」


 「現在の在庫と月産から——成長畑具は今月あと八個。浄化石は十二個。魔素造形炉は三個です」


 「陳情の数は」


 「合計四十三件。しかも今朝までの数字です。残りの半月でさらに増えます」


 カイルは筆を置いた。数字が合わない。書類の数より、持っている製品の数の方がはるかに少ない。畑具は十八の陳情に対して八個。浄化石は十四に対して十二個。魔素造形炉は十一に対して三個。届かない者が半分以上出る。


 「どう割り振るべきでしょうか、殿下」


 トーヴァの声には、答えを求める響きだけではなく、答えを持っていない者の戸惑いも混じっていた。





 配布会議を開いた。ルッツと、宰相府の事務三人と、メルケンから派遣された商会の書記。


 メルケンの書記は八十代の竜人族の女性だった。穀物の配給の経験がある商人だった。


 「殿下、商会では『困窮度で順位をつける』方法を取ります。一番困っている家から順に配る」


 「困窮度はどう測る」


 「家の人数、子供の数、収入の有無。申し出ではなく現地で確認します。早い者勝ちにすると嘘の陳情が混じります」


 理屈は通っていた。だが、カイルの中で違和感があった。


 「困窮度で並べると、最も困窮している家から順に届く。だがそれは『今すぐ困っている家』だ。来月困り始める家は、後回しになる。そして次の月には、その家はもっと困っている。困窮の順位は、毎月入れ替わる」


 書記は頷いた。


 「おっしゃる通りです。順位は絶対ではありません。半年に一度、見直す必要があります」


 ルッツが低く言った。


 「殿下、どの順序で配ろうが、届かない家が半分以上出ます。三品目合計で在庫二十三個、陳情四十三件。単純計算で二十件は今月の順番に入らぬ。そして、来月も新しい陳情が来る。半年後には、順番を待つ家の列だけが積み上がっていきます」


 カイルは頷いた。帳簿の上では「優先順位」と書ける。だが実際には、届かなかった二十件が明日も待ち、来月も待ち、半年後にはまだ待っている。





 その日の午後、ヴァレンが下市街の東の角の家に来た。


 先週、壁を直した家の隣の家だった。同じ通りの、同じような戦災家屋。夫婦と子供が二人。子供のベッドが小さくなっていた、という話を聞いていた。


 百二十代の父親に頼んで、ベッドを外に出してもらった。古い木のベッド。脚が短く、板が狭い。子供が三十歳の時に作ったもので、今は体がはみ出している。


 ヴァレンが魔素造形炉をベッドの脚に当てた。木材がゆっくりと伸びた。脚が長くなり、板が広がり、枕の位置が上がった。同じ木が、子供の今の体に合わせて大きくなった。新しい木ではない。同じ木が、形を変えただけ。


 子供が走ってきて、ベッドに飛び乗った。


 「お父さん、ベッドが大きくなった!」


 父親は笑った。硬い笑いだった。信じていいのか分からない笑いだった。


 「このベッドは私の祖父が使っていたものだ。祖父の時はもっと大きかった」


 魔素造形炉が、祖父の時代の大きさを記憶から読み出して再現した。三代にわたるベッドが、三代目の体に合わせて、姿を変えた。


 ヴァレンは魔素造形炉を片付けながら、カイルに低く言った。


 「カイル殿。この炉の操作には、魔素の扱いに慣れた者が要ります。私とラウルの二人が毎回出向くわけにはいかない」


 「はい」


 「既存の大工や鍛冶師が魔素造形炉を覚えれば、新しい職業が生まれます。壊れた物を直し、古い物を新しくする職人——魔素造形師、と呼ぶことにしましょう」


 カイルは頷いた。メルケンが前日の手紙で同じことを書いていた。この種の仕事に値段をつける前に、誰がやるかを決めなければならない、と。





 家の外に出た時、通りの先に人が集まっていた。


 十人ほどの下市街の住民だった。男が半分、女が半分。顔は痩せ、服は擦り切れている。一人がカイルを見て、前に出た。壮年の竜人の男。片方の靴の底が剥がれかけていた。


 「宰相府の方ですか」


 「はい」


 「私の家の壁も、崩れています。三年前から」


 男は通りの向こうを指した。石造りの家の半分が崩れていた。屋根の一部が落ちていた。


 「陳情は出した。今朝、出しました。だが、魔素造形炉が今月は八個しかないと聞きました。私の家は今月の八軒の中には入らないでしょう」


 男の声は平らだった。怒ってはいなかった。事実を確認しているだけの声だった。


 「今月の八軒は、もっと困っている家に行きます」


 「そうでしょうな。私より困っている家はある。承知しています」


男の目は地面を見ていた。


「ですが殿下、冬が来る。三年前から崩れたまま越してきた。四度目は越せるかどうか分からん。私の家が順番に選ばれる前に、子供が肺をやられるかもしれん」


男は一息ついた。


「もっと困っている家を先に回すのは正しい。それは分かっています。だが、選ばれなかった家で待っている者がいることも、覚えておいていただきたい」


それだけ言って、男は頭を下げて去った。通りの他の者たちも、一人ずつ散っていった。


カイルは立っていた。男の言葉は、責めていなかった。頼んでさえいなかった。ただ、見てほしい、と言っていた。今月の八軒に選ばれなかった家で、選ばれる日を待っている間に、冬が来る者がいる、と。





 通りの男の声がまだ耳に残っていた。


 カイルは中市街への道を歩いた。宰相府への近道ではなかった。歩く足が自然にその道を選んでいた。


 アルブレヒト邸の扉を叩いた。


 ミレナが顔を出した。丸メガネのレンズの隅にインクの染みがついていた。


 「珍しい時間ね」


 「少しだけ」


 ミレナは中に通した。応接間ではなく、玄関ホールの代書屋の机の脇に立たせた。机の上に契約書の山があった。


 「最近、客は」


 ミレナは机の山を一束持ち上げた。


 「今週来た書類。失業した工員が三人。土地を取られた農民が二人。夫が傭兵に行って帰ってこない女性が一人。先月の倍。来月もまた倍だと思う」


 カイルはその束を見た。表書きの客の名前は墨で消されていた。中身だけが残っていた。


 「中身を読ませてくれるか」


 「名前は伏せたままなら」


 ミレナが書類の山から数枚を抜き出してカイルに渡した。


 カイルは目を通した。土地証文の書き換え。戦死証明の発行請願。子供の養育費の調停申立。一通ごとに、誰かの暮らしが書き写されていた。書式の中に、書ききれていない何かが、行間に残っていた。


 「あなたの宰相は、これを数字で見てるでしょう」


 ミレナの声は責めていなかった。


 「私が見てるのは、その数字の前の段階。書類に書く前に、客が私の机の前で泣いたり、黙ったりする時間。書式に書ききれないことが、そこにある」


 カイルは紙を返した。何も言わなかった。言葉が出なかった。


 「次はいつ」


 ミレナが聞いた。


 「数日後に」


 「待ってる」


 カイルはアルブレヒト邸を出て、宰相府への道を歩いた。下市街の男の声と、ミレナの机の山が、両方とも頭の中に残っていた。





 その日の夜、宰相府の執務室でオルデンに報告した。


 「魔素造形炉の試験は成功しました。ベッドの再形成も動作しました。ヴァレン殿の提案で、魔素造形師という新しい職業を作る方向で進めます」


 「量産は」


 ルッツが答えた。「今は月に五、六個が精一杯です。浄化石より構造が複雑で、ヴァレン殿とラウル殿の手が直接要る工程が多い。半年以内に月十個まで引き上げることを目標にしていますが、二人の手の速さがそこで天井になります」


 「弟子の養成は」


 「基本操作に三ヶ月。実戦的な修繕に半年から一年」


 オルデンは窓の外を見た。下市街の方角。戦災で壊れたまま放置されている家屋が、まだ数百棟ある。


 「壁を直すことは、家を返すことだ。家を返すことは、暮らしを返すことだ」


 低い声だった。


 「魔素造形師の養成を、急げ」


 「承知しました」


 カイルは頷いた。だが頷きながら、今日の下市街の男の顔を思い出していた。急いでも、魔素造形師が育つには半年から一年かかる。その半年の間に、冬が来る。男の子供の肺のことも、オルデンの言葉の下に沈んでいる。急ぐ、という言葉が、それらの全てを飲み込む。





 夜、執務室で窓を開けた。


 目を閉じた。半年の旅の風景が瞼の裏に広がった。


 あの東部の農村。焼けた納屋の骨組みが残る道沿いの家。魔素造形炉があれば、あの納屋が戻る。崩れた石垣が直る。辺境の集落の、石を重しに載せただけの屋根が、元の姿に戻る。オストーフの欠けた皿が、丸い縁を取り戻す。——全ての家に魔素造形炉が届いた日を想像した。戦の傷が消えた街を。壊れた壁が全て元に戻り、崩れた屋根が修繕され、この国の風景から大戦の痕跡が消えた朝を。


 あの美しい高原に、傷のない暮らしが戻る。渓谷の虹の手前に焼けた納屋がない。草原の中に崩れた石垣がない。夕暮れの丘の上から見下ろす集落が、全て、四面の壁に囲まれている。


 そうなってほしい。切実にそう思った。オルデンに言われるまでもなく。


 だが——月に三十個。ヴァレンとラウルの手が届く範囲。全国に数百、数千棟の戦災家屋がある。三十個では何年かかるか。魔素造形師を育てても、一人前に半年から一年。今の速度では、この国の傷が消える前に、カイルの方が先に老いてしまう。


 そしてその半年の間にも、特需の終わった工場の前で民衆が座り、夜逃げの家は増え、募兵所の列は伸びる。届かなかった家に、その家族に、何が起きるのか。陳情を出した四十三件のうち、今月届くのは四十三分の四十だけ。残りは来月の順位争いに回り、来月もまた届かない家が出る。


 何かが足りない。技術はある。意志もある。人もいる。だが、あの風景に届くまでの何かが、決定的に足りない。それが何なのか、まだ分からなかった。


 三つの製品が揃った。食糧。衛生。住居。一年目の冬が終わろうとしている。種は蒔かれた。だが種を蒔く手が、まだ二つしかない。順位の外で待つ者が、その二つの手が届く前に、冬に飲み込まれていく。


 窓を閉めた。高原の夜の冷気が、部屋の中にしばらく残った。

【豆知識:光の谷】


王宮のある高原の尾根の三方を取り囲む谷であり、地脈が地表近くに露出している貴重な場所です。戦前は神聖な場所として立ち入りが制限され、年に数度の儀式の舞台でした。

今やここは国を支える最大の魔素採掘プラントとなっています。谷沿いには精製所が並び、夜に淡く光る地脈のすぐ上で、炉の音が昼夜止みません。古い儀式の場所と、新しい工業地帯が、同じ谷の中で重なっている時期です。

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