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第41話 レガリオンの要求

三つの試験の報告書を提出した翌日の朝、使いの書付が届いた。


 「翌日午後、レガリオン本国元老院外務部の派遣する特使が宰相府を訪れる。主目的は大陸情勢に関する協議」


 オルデンは書付を読んで、短く呟いた。


 「本番が、来るか」


 カイルはその呟きを記録しなかった。オルデンの呟きは紙の外に置いておくべきだった。





 翌日の午後、特使が到着した。


 靴音が廊下に響いた。硬い。正確。等間隔。宰相府の石畳が、本国の軍靴で鳴っていた。


 ルヴェット。四十代の人間族。本国元老院外務部の官僚。前回の訪問から二年以上が経っている。服装は前回と似ていた。濃紺の外套、首元の金の徽章。だが顔つきが変わっていた。二年分の疲労が目元に薄く滲んでいた。そして目の奥に、前回にはなかった種類の焦りが、微かに宿っていた。


 アルマンが同行していた。独立の日に一度本国へ帰還した後、数ヶ月で連絡官として再びアストラードに派遣され、任期は二年目に入っていた。外套は執政官の正装ではなく、地味な灰色だった。立場が変わった。だがルヴェットの横に立つ姿勢は、まだ軍人のそれだった。





 四人はオルデンの執務室に着いた。カイルは壁際の書机で記録の筆を取った。


 ルヴェットは茶が運ばれるのを待たずに、書類を机の上に置いた。


 「宰相殿、本日は一つの事項について、貴国の協力をお願いに参りました」


 「聞こう」


 「南東のタルシス諸国連合の紛争は、一旦の決着を見ました。ただし安定のため、本国は一定の兵力をタルシス地域に駐留させております。——同時に、紛争の決着を受けて、南東に集結していたコヴァルド軍が北部に再展開を始め、貴国の北部国境で衝突が発生しております。直接国境を接する北部戦線にはかなりの兵力を割かねばならず、南東の駐留と北部戦線を合わせれば、既に本国の軍の三割を超える規模が動員されております」


 「三割」


 オルデンの声には、何の反応もなかった。


 「守備を補うため、本国は同盟国と協力国に軍事的な支援を募っております。貴国に対する本国のお願いは——」


 ルヴェットは書類を机の上で滑らせて、オルデンの方に向けた。


 「千名規模の竜人族の兵力を、半年以内に、本国傘下の部隊に編入していただきたい」


 千名。半年以内。前回、ルヴェットは具体的な数字を出さなかった。今回は出た。


 ルヴェットは続けた。声は事務的だった。だがその中に、一瞬だけ、別のものが混じった。


 「貴国の竜人兵は優れた個体だ。身体強化を施せば更に——」


 言葉が途切れた。ルヴェットの顎が微かに動いた。


 「失礼。鍛錬を積めば、さらに優れた部隊になる」


 カイルの筆が止まった。「身体強化」。反射的に出た言葉。本国の中で、竜人の身体を「強化する」対象として語る言葉が日常に溶け込んでいる。ルヴェットはそれを知っていて言い直した。公式の席では使わない語彙だと分かっている。だが口が先に動いた。


 オルデンの目が一瞬だけ動いた。カイルはそれを見た。宰相は何も言わなかった。





 オルデンは書類を一度手に取り、数字を確認し、机に戻した。


 「多いな」


 「貴国の人口規模を踏まえても、対応可能な範囲と本国は判断しております」


 「本国の判断は本国のものだ。我が国の判断を、まず申し上げる」


 オルデンは指を一本立てた。


 「一つ。我が国の人口は大戦前の約七割で止まっている。大戦で多くが死に、占領期にも減少が続いた」


 指を二本目にした。


 「二つ。若い世代の大部分は、産業の再建のために工房や商家や農地で働いている。この基盤づくりは今後十年の命運を握る事業であり、途中で人員を引き抜くことはできない」


 三本目。


 「三つ。大戦の記憶が民衆の中に強く残っている。国家が正式に兵力派遣を命じれば、民衆の反発を招く」


 四本目。


 「四つ。独立合意の中で、軍事力の保有は厳しく制限されている。竜牙衛は解散され、軍事魔法は放棄された。千名の兵力を国家として出そうにも、国家として出すべき軍事組織が、今の我が国には存在しない」


 指を下ろした。


 「以上の理由から、千名を半年以内に出すことは不可能だ」





 ルヴェットは書類の次の頁を取り出した。反論を全て予想して準備してきた声だった。


 人口規模について——千名は人口の〇・〇四パーセントに過ぎない。


 「〇・〇四パーセントは、一人一人の生命の重みを無視した割合計算だ」


 基盤づくりについて——兵力派遣と引き換えに資金援助を検討する用意がある。


 「資金援助という言葉は、独立国家同士の関係において、軽く使うべき言葉ではない」


 大戦の記憶について——派遣の形式を「志願」とすれば、国家命令ではない形にできる。


 「志願の形式は、国家が募集に直接関わらないだけで、民衆の感情を和らげるには至らない」


 軍事組織について——本国傘下の部隊への編入であれば、貴国が独自の軍事組織を保有することにはならない。


 「本国傘下の形であれ、募集と選抜は我が国が行う。形式がどうあれ、実態は我が国の若者を集めて戦場に送ることだ」


 四つの要求に四つの返答。四つの返答に四つの反論。どちらも崩れなかった。





 膠着の中で、ルヴェットが立ち上がりかけた時、アルマンがルヴェットの袖に軽く触れた。


 ルヴェットは驚いた顔でアルマンを見た。


 アルマンが何かを囁いた。小声で、カイルにも聞こえなかった。


 ルヴェットの顔に、何かを計算する表情が浮かんだ。アルマンに小さく頷き、もう一度オルデンに向き直った。


 「宰相殿。先ほどの『千名』は本国の当初の要求でした。数字を下げて、五百名であれば、本国は受け入れる可能性があります。派遣の形式も『志願を妨げない』体制で構いません」


 オルデンはしばらくルヴェットを見た。


 「検討する。半月をいただきたい」


 「半月は本国の時間感覚からは長い」


 「半月が、我が国の時間感覚だ」


 「……承知しました」





 特使が去った後、執務室にオルデンとカイルだけが残った。


 「カイル」


 「はい」


 「アルマン殿がルヴェット殿に何か囁いたのを、見たか」


 「見ました」


 「あの囁きは、アルマン殿の個人的な判断だ。本国の指示ではない。現地の事情に詳しい者の助言として、ルヴェット殿が受け入れた」


 オルデンは窓辺に立った。


 「あの人物は、我が国の側にまだ一部だけ立っている。だがいつまで本国の任地に居続けられるか、分からぬ」





 オルデンが振り返った。


 「今日の交渉の結果は、五百名を受け入れることに近いものになるだろう。完全に拒絶すれば、レガリオンは別の形で圧力をかけてくる。交易条件の悪化、地脈の共同管理条項の厳格化、さらに悪くすれば独立合意の再協議。どれも我が国には耐えられない」


 「受け入れる場合、どういう形に」


 「『志願を妨げない』体制を公式に宣言する。国家として募兵活動はしない。だが個人の志願を止めもしない」


 カイルは黙った。


 「時間を買った。代金は——若者の命だ」


 独立直後の初秋に宰相府を訪れた、あの母親の顔が記憶の中で動いた。公式戦死報第一号の母親。あの日オルデンは「計算の外だった」と言った。今日は違う。


 「必要な犠牲だと、頭では分かっている。地脈の利用権を守り、技術立国の時間を確保するために、若者の命を差し出す。今日は、計算の中だ」


 間があった。


 「だが——あの母親の顔は、まだ消えぬ」


 カイルの手元で筆が紙の上に止まっていた。この言葉を正式な記録に載せることはできない。


 「宰相閣下、この交渉の結果を、どのように記録すべきでしょうか」


 「表の記録には、『志願を妨げない体制を公式に宣言することで合意した』とだけ書け。裏の記録には、お前の判断で書け」





 「宰相閣下、もう一つ」


 「何だ」


 「志願する若者たちの——動機は、何でしょうか」


 オルデンは少し間を置いた。


 「様々だ。生活のため、家族のため、戦場への好奇心。そして——居場所のなさ」


 「居場所の——」


 「大戦で家を失い、占領期に育ち、独立後の復興の中で自分の場所を見つけられない若者が、少なくない。傭兵部隊は、一つの居場所に見える。給料があり、仲間があり、使命のようなものがある」


 オルデンは一度言葉を切った。


 「そして今、もう一つの動機が増えている。特需が終わって工場が止まった。工房の半数は借金で潰れかけている。農村は夜逃げが相次いでいる。——仕事がないのだ。食う金のない者が、募兵所の門を叩く。居場所のなさに、空腹が重なれば、若者は止まらん」


 カイルの手が動かなかった。先週、メルケンが帳面の余白で「反動」と書いた。その反動が、募兵所の列の長さに変換されていく。畑具が届いた農村、浄化石に触れた川辺の女性、壁を取り戻した夫婦——三つの場所に技術が届いた同じ週に、ヴェルデンの広場には別の列が伸びている。





 ルッツが来た。


 「殿下、志願兵の流出による経済への影響を試算しました」


 数字が並んでいた。若い労働力一人あたりの年間生産量。流出率と生産減少の関係。


 「月に百名の流出が続けば、年間千二百名分の労働力を失います。この損失は、現在の工場移管で見込んでいる生産増加の約半分に相当します」


 「技術革新で生産性を上げても、若者の流出で半分が相殺される」


 「はい。追いつくには、魔素製品の普及を流出の速度より速く進める必要があります」


 カイルは数字を見た。ルッツの数字は正確だった。だがこの数字の一行一行が、募兵所の前に並ぶ若者一人一人だった。





 夕暮れ、下市街の広場を通りかかった。


 募兵所の前に列があった。三十人ほどの若い竜人。沈黙の列だった。声を出す者はいなかった。


 列の中に、肩が震えている若者がいた。角はまだ細い。布を巻いている。腕を組んで、自分の体を抱え込むようにして立っていた。怖いのだ。怖いのに並んでいる。居場所を探して、食うために、ここに来た。


 先週、川辺で女性が浄化石を胸に抱えて泣いた。「子供と過ごす時間が」と。同じ週に、老農が「飢えぬということか」と呟いた。壊れた壁の前で妻が「前の壁と同じ冷たさだ」と触れた。——同じ国の、別の広場で、若者が戦場に向かう列を作っている。


 片方で時間が生まれ、片方で命が流れ出していく。同じ国の中で。


 カイルは列に近づかなかった。見れば記録してしまう。記録すれば名前を覚えてしまう。名前を覚えた人間が、どこかの戦場で死ぬ。


 列に背を向けて歩いた。背中で、沈黙を聞いていた。





 夜、個人の記録の紙を開いた。


 「時間を買った。代金は若者の命だ」


 書いた後、筆を止めた。もう一行だけ足した。


 「私は宰相の横でこの言葉を紙に残した。紙に残したことで、私もこの選択の一部になった」


 筆を置いた。窓の外の高原の夜は暗かった。募兵所の方角を見た。もう列は解散しているだろう。だが明日以降、「志願を妨げない」の宣言が広まれば、列は長くなる。畑具が届く速度より、募兵所の列が伸びる速度の方が、速い。


 窓を閉めた。冷たい空気が、部屋の中にしばらく残った。

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