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第40話 三つの試作

三つの試作品が、机の上に並んでいた。


 成長畑具。浄化石。魔素造形炉。ラウルが独自に設計し、ヴァレンが安全機構を組み込み、ルッツが製造の段取りを担った、最初の合作の三つ。


 成長畑具は拳より少し小さい。中に魔素の結晶が一欠片入っていて、地脈から微量の魔素を引き、土壌に成長を促す作用を緩やかに放出する。戦前、王領地で大規模に使われていた技術を、個人の畑で使える大きさに縮めたもの。


 浄化石は灰色の拳大の石。水に沈めると、水に溶けた汚れを分離する。衣服、食器、根菜。何であれ、水と一緒に入れれば汚れだけが水中に浮き上がる。


 魔素造形炉は持ち運べる台座のような工具。崩れた物体の構造を魔素で読み出し、元の姿に再構成する。戦前の神殿の修繕技術を、小型化したもの。


 三つとも、同じ一週間のうちに順番に試すとカイルは決めた。三つの場所で、三つの試験を行う。製品はそれぞれ違う問題に向けられていた。食糧、衛生、住居。暮らしの三つの基盤。一つずつ順番に試すのではなく、一続きの旅程として連続して試す。そうでなければ、どこに先に届けるべきか判断できない。ルッツは無言で頷き、試験の手配を始めた。





 一日目。高原の小さな農村。ヴェルデンから馬で二時間。


 秋の収穫が終わり、冬麦の種蒔きが始まる時期だった。カイルは成長畑具一つを持って、一人で来た。


 村の長は百六十代の老農だった。日焼けした顔に深い皺。手の甲に土が染み付いている。何十年も同じ畑に立ってきた手だった。


 「宰相府のカイルです。一つ、お試しいただきたいものがあります」


 老農は試作品を見た。疑いの目だった。


 「危なくはないのか」


 「安全な設計です」


 「安全だと言う奴は多い。畑を台無しにされたら冬を越せぬ」


 試したくて、しかし賭けられない。老農の目にはその両方があった。


 「駄目だったらすぐに取り出します。畑は損ないません」


 老農はしばらく考えた。それから頷いた。


 「……試してみよう」


 畑の隅に穴を掘った。土は冷たかった。試作品を埋め、土をかぶせた。何も起きなかった。


 「数日かかります」


 「待つのは慣れている」


 カイルは納屋に泊まった。三日目の朝、老農の声で目が覚めた。


 畑に走った。埋めた場所の周囲、半径十歩ほどに、冬麦の芽が出ていた。播種から三日。通常なら十日から二週間。小さいが確かに芽だった。土を割って、朝の光に向かって伸びている。


 老農は畑の縁に立っていた。芽を見つめていた。


 「これが本当なら——一季節で一回半の収穫ができるのか」


 「はい。うまくいけば」


 「飢えぬということか」


 カイルの喉が詰まった。


 収穫量が何割増えるかという話をしていたのではなかった。冬を越せるかどうか。春まで家族が生きていられるかどうか。——帳簿で「食糧生産高」と書いてきた。その数字の裏にある農民の恐怖を、体で知ったのは今朝が初めてだった。


 「飢えぬということです」


 自分の声が掠れていた。飢えたことのない人間が、飢えぬと約束している。据わりの悪さが、言葉の後ろに残った。





 四日目、ヴェルデンに戻らずそのままランメルトに向かった。畑の老農に礼を言って村を発ち、半日の道のりを馬で進んだ。夕刻にランメルトの町に入り、宿に一泊した。


 翌朝——五日目の朝、ランメルトの町の東を流れる浅い川に立った。女性たちが膝まで水に浸かって衣服を石に叩きつけていた。二十人ほど。子供を背中に括り付けている者がいた。老女は腰を曲げて布を揉んでいた。腕の動きは止まらなかった。話しながら叩く。笑いながら絞る。手を止めれば半日で終わらない。


 メルケンがカイルの隣で言った。


 「毎日です。朝から昼過ぎまで。残りの半日で食事の準備と家の掃除と畑の手伝いと子供の世話をします。一日に余裕はありません」


 カイルは川辺に近づいた。女性たちが顔を上げ、外套を見て身構えた。


 「一つ、試していただきたいものがあります」


 懐から浄化石を取り出した。木桶に水を張り、女性が汚れた作業着を入れた。泥と汗の染み。普段なら一枚で二十分かかるものだった。


 浄化石を水の中に沈めた。


 数秒、何も起きなかった。


 それから、水が変わった。透明だった水が濁り始めた。布の繊維から汚れが——泥と垢と脂が——分離されていった。布から離れた汚れが水の中に浮き上がり、衣服は水の中で色を取り戻していった。茶色から灰色へ。灰色から白へ。


 女性の手が止まった。叩いていない。擦っていない。ただ水に沈めただけ。


 女性は衣服を水から引き上げた。湿っていた。だが汚れは消えていた。白い布が、雫を垂らしながら、女性の手の中にあった。


 「……嘘だ」


 声が震えていた。女性は衣服を胸に抱えた。湿った布が外套に染みを作った。構わなかった。両腕で抱き締めていた。


 「半日——」


 「はい」


 「半日かかっていた洗濯が——」


 「十分の一の時間で終わります」


 女性の目から涙がこぼれた。


 「子供と——子供と過ごす時間が——」


 声が途切れた。途切れたまま、衣服を抱えて泣いた。


 カイルは立っていた。川辺の泥の上に立って、泣いている女性を見ていた。王宮で育ち、宰相府で帳簿を書き、「民生利用」と書いてきた。その言葉の向こうにある暮らしを、今日初めて見た。


 メルケンが後ろで低く言った。


 「殿下。この国で最も不足しているのは金ではなく時間です。今日、あの方の半日が戻った」





 ランメルトから馬でヴェルデンへの道を急いだ。六日目の夜、ヴェルデンに戻った。下市街の東の角に、壁が半分崩れた家があった。大戦の戦災で壊れたまま、十年以上放置されていた家。住民は隣の家の一角に間借りしていた。


 ヴァレンが同行していた。魔素造形炉はヴァレン自身が運んだ。


 百四十代の竜人の夫婦が家の前で待っていた。夫の目の下に影があった。十年間、壊れた壁の向こうに住んできた顔だった。


 「宰相府のカイルです。壁の修繕を試させてください」


 「好きにしてくれ。これ以上悪くはならん」


 ヴァレンが崩れた壁の前に立った。断面を手で触れ、構造を確かめた。


 「この壁の構造は、魔素の中に記録が残っています。石の並び方、漆喰の配合、壁の厚み——壊れる前の姿を、素材そのものが覚えている」


 魔素造形炉を壁の断面に当てた。表面が微かに光った。


 最初の数秒、何も起きなかった。夫が腕を組んだ。妻は少し後ろに下がった。


 それから、壁の断面が動き始めた。


 崩れた石と漆喰が、内側から集まってきた。壊れた破片が元の位置に戻っていく。石の粒子が隙間を埋め、漆喰が表面を覆い、壁の面が一層ずつ、元の姿を取り戻していった。


 カイルは目が離せなかった。壊れたものが戻っていく。大戦で砕かれた石が、十年ぶりに元の場所に帰る。——七年間の占領で壊れたものの全てが戻るわけではない。処刑された者は戻らない。戦死した者も戻らない。だが、壁は戻る。壁だけは。


 一刻ほどで、壁は元通りになった。


 妻が壁に近づいた。右手を伸ばし、壁の表面に触れた。


 「……冷たい」


 手を壁に当てたまま、動かなかった。


 「前の壁と——同じ冷たさだ」


 その声が静かだった。壁の温度が、この女性の記憶の中にある温度と一致したのだ。十年前に触れた壁の冷たさ。壊れる前の家の冷たさ。それが今、掌の下に戻ってきた。


 夫が壁を叩いた。固い音がした。本物の壁だった。それから、壁の前で、しゃがみ込んだ。肩が震えていた。





 ヴェルデンに戻ったのは、その日の夕方だった。


 カイルは宰相府に直行する前に、足を中市街に向けた。三日後に来ると約束していた。今日は二日早い。約束より早く行く理由は、自分でもよく分からなかった。


 アルブレヒト邸の扉を叩いた。


 ミレナが顔を出した。丸メガネ越しに、少し驚いた目をした。


 「三日後って言ってなかった?」


 「ああ」


 「今日は何の用?」


 カイルは答えるのに少し迷った。三つの試作が成功した、と言うこともできた。土と水と壁の冷たさが手に残っている、と言うこともできた。だがどちらも口に出すのは違う気がした。


 「ラウルの様子を見に来た」


 「嘘ね。——でも、いいよ。入って」


 ミレナはそれ以上問わなかった。カイルを中に通し、離れの方を指した。





 離れの扉は開いていた。ラウルが紙の山の真ん中に座って、何かを描いていた。机の上の灯りが、紙の上に小さな円を作っていた。


 カイルが入ってきても顔を上げない。集中の世界の中にいた。


 しばらく見ていた。


 ラウルの手は止まらなかった。線が一本、また一本、紙の上に伸びていく。何の設計図かはカイルには分からない。だが、線の迷いのなさだけは、廃屋で初めて見た時と同じだった。





 食堂に戻った。ミレナが茶を淹れていた。


 「あいつはちゃんと食べているのか」


 「食べてる」


 ミレナが答えた。


 「私が食堂に置いておくと、いつの間にか消えてる。一日に一度は、必ず」


 「眠ってる時間は」


 「短い。でも眠ってる」


 ミレナがカイルの前に茶を置いた。古い陶器の茶碗だった。カイルは両手で受け取った。茶の温度が、掌の中に伝わった。


 今日、自分の掌は土と水と壁の冷たさを覚えていた。三つの場所で、三つの異なる冷たさに触れた。今、それと別の温度が掌の中にあった。屋敷の食堂の、何でもない茶の温度。


 「次はいつ来る」


 ミレナが聞いた。


 「三日後に」


 「今度は本当に三日後ね」


 「ああ」


 カイルは茶を飲み終えて、立ち上がった。離れの方向にもう一度目をやってから、玄関に向かった。





 夜、執務室で窓を開けた。


 三つの試験が、一週間で終わった。成長畑具、浄化石、魔素造形炉。三つの製品が、食糧と衛生と住居という、暮らしの三つの基盤にそれぞれ触れた。三つとも動いた。三つとも民衆の手の中で、確かに何かを変えた。


 だが。


 成長畑具が届いたのは、一つの農村だけだった。浄化石が試されたのは、一つの川辺だけだった。魔素造形炉で直された壁は、一軒の家の一面だけだった。高原には数百の農村がある。下市街だけでも濁った井戸の集落は数十。戦災で壊れた家は国中に数千棟。三つの成功の隣に、届かなかった数千の暮らしがあった。


 老農の「飢えぬということか」という声。川辺の女性の「子供と過ごす時間が」という言葉。壁に触れた妻の「前の壁と同じ冷たさだ」という呟き。三つの声を記録した。記録しながら、同じ問いが三度繰り返された。


 ——他の人々には、いつ届くのか。


 掌を見た。筆を握る手。この一週間で、三つの場所で土に触れ、水に触れ、壁に触れた手。動く技術は、この手の中にある。動かす人間も、この国にいる。だが、数十個では足りない。数百個でも足りない。万単位で作らなければ、この風景は変わらない。


 そしてヴァレンとラウルの二人の手は、月に数十個が上限だった。


 窓を閉めた。夜の空気が冷たかった。三つの試作が成功した夜の空気は、もっと温かいものだと思っていた。だが実際には、温かさと同じだけの冷たさがあった。三つの声と、三つの問いが、同じ重さで耳の奥に残っていた。

【豆知識:新世代魔素製品の発明】


第40話で、ラウルとヴァレンの共作による新世代の魔素製品が、同じ週に三つ試験にかけられます。

成長畑具せいちょうばたぐ——畑に刺しておくと作物の成長期間を三割縮め、年に1.5回の収穫を可能にする筒状の道具。浄化石じょうかせき——水路全体の水を清潔化する石で、旧世代の魔素技術にはなかった新発明。魔素造形炉まそぞうけいろ——崩れた建物や壊れた器物の構造を魔素で読み出し、元の姿に再構成する炉。戦前の神殿修繕技術を小型化したものです。

試験を見た老農の「飢えぬということか」という一言が、この章の民需革命の方向性を決めました。

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