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第38話 物質の分離

ラウルは馬の骨格を覚えた。


 廃屋から連れ出して五日間の旅の間に、この若者は馬の乗り方は覚えなかった。鞍の上で体を強張らせ、最後まで揺れに慣れなかった。だが、馬の首の骨の動きを観察し、「骨格の配置で首の動き方が決まる。設計に使える」と呟いた。


 景色は覚えなかった。食事の味も覚えなかった。だが、道中で見た農具の刃の角度、宿屋の扉の蝶番の仕組み、街道沿いの水車の回転機構——構造のあるもの全てを、正確に記憶していた。


 二日目の夜、宿屋の食堂でラウルが飯を半分残した。食が細かった。三年間の廃屋暮らしで体が痩せていた——というよりも、それ以前から痩せていた体なのだと、五日間を共にして分かった。食べることに関心がない。食べなくても設計は描ける。体がそういう優先順位で動いていた。


 「親は」


 三日目の朝、馬の支度をしながらカイルが聞いた。


 「いない。戦の終わりに二人とも。俺は三十五、六の頃だった」


 それだけだった。付け足さなかった。声の調子も変わらなかった。三十五、六。人間族で言えば十三か十四の子供だ。大戦の末期——カイルが王宮の奥で兄たちの死を聞いた頃、この若者は子供のまま親を失い、一人になっていた。


 「その後は」


 「あちこちにいた。工房の下働きをやったり、飯の残りをもらったり。どこもすぐ追い出された。邪魔なんだろ、俺は」


 ラウルは馬の腹帯を見つめていた。構造を見ているのか、何も見ていないのか、判別がつかなかった。


 「あの集落には」


 「三年前に、もう歩けなくなって倒れた。婆さんが空き小屋に入れてくれた。それから動けるようになって、そのまま居着いた」


 歩けなくなって倒れた。その一言の中に、何年分の放浪があったのか。カイルは半年かけてこの国を回った。街道を馬で走り、宿に泊まり、食事を取りながら。ラウルは同じ国土を、徒歩で、飯の当てもなく、追い出されながら歩いていた。


 四日目、ラウルが咳き込んだ。長く、深い咳だった。体が小さく折れた。治まった後、何事もなかったように設計図の紙を広げた。カイルはその背中を見ていた。この体は、長くは保たないかもしれない。そう思った根拠はなかった。ただ、背中がそう言っていた。


 五日目の午後。ヴェルデンの尾根が見えた時、ラウルが一度だけ振り返った。来た方角を見ていた。辺境の方角を。あの廃屋の方角を。


 「……戻りたいか」


 「いや」


 ラウルは前を向き直した。


 「あそこじゃ、作れなかったから」





 ヴェルデンの南西、第一工場。


 ルッツが門の前で待っていた。ラウルを見て、一瞬だけ眉を動かした。痩せぎすの若者が、汚れた服のまま馬から降りてきた。


 ラウルは工場の入口で止まった。


 天井の高い空間。並ぶ精製炉。作業台の工具。ラウルの目の中の眠たげな曇りが消えた。目が変わった。構造を読む目になった。


 「……これ、全部使えるのか」


 「使える」


 ラウルは炉の前に歩いていった。手を伸ばし、炉の表面に触れた。温かい金属。指先で質感を確かめ、配管の接合部を覗き込み、炉の裏側に回って排気口の形を見た。


 「この設備なら、作れる」





 午後、ヴァレンが来た。


 ラグリスから馬で四日かけて来ていた。工場の入口で外套の埃を払い、中に入った。


 ラウルは床に設計図を広げていた。廃屋から持ってきた紙の束を、工場の床の上に散らかしていた。ルッツが「工場の床に紙を——」と言いかけたが、カイルが首を振って止めた。


 ヴァレンはラウルの前に立った。


 ラウルが顔を上げた。


 沈黙があった。言葉の前の沈黙ではなかった。言葉の代わりの沈黙だった。


 ヴァレンは床に腰を下ろした。百七十歳の旧貴族の技術者が、工場の床に膝を折った。ルッツの目が一瞬見開かれた。カイルも足が止まった。だがヴァレンの動作には迷いがなかった。設計図を読むために、設計図の高さに座る。それだけのことだった。


 一枚を手に取り、しばらく見た。線を追った。線と線の間の空白を読んだ。


 「……本物だ」


 静かな声だった。


 「描く前に物を見ている者の線だ」


 ラウルは「ふうん」と答えた。





 二人は言葉をほとんど交わさずに、設計図を読み合い始めた。


 ヴァレンが紙の一点を指差す。ラウルが頷く。ラウルが別の紙を引き寄せる。ヴァレンがそれを見て微かに目を細める。手の動きで通じていた。


 カイルは壁際にいた。ルッツが隣で小声で言った。


 「殿下、この二人をどう工程表に組み込めばよいのですか」


 「組み込まなくていい。工程の外で動かして、出てきた結果だけを工程に入れる」


 ルッツは少し考え、頷いた。





 設計図の読み合いの途中で、ヴァレンが手を止めた。


 ラウルの設計図の一枚を、裏返した。白い面を上にして、鉛筆を取った。


 「ラウル、一つ見せたいものがある」


 ヴァレンは紙の上に、簡単な図を描いた。二つの円。一方に「水」、もう一方に「汚れ」と書いた。二つの円を重ねた。


 「混ざり合った物質を、成分ごとに分ける。魔素の作用の中に、この操作がある」


 ヴァレンの手が円の重なりの上に線を引いた。


 「物質の分離。水の中の不純物を取り除く。これが最も基本の形だ」


 ラウルの目が動いた。重なった二つの円を見ていた。だがその目は、円ではなく、円の先にあるものを見ていた。


 「それ——水だけじゃないだろ」


 「その通りだ」


 「布の汚れも、食材の泥も、空気の塵も——全部、不要な成分の分離だ」


 ラウルは紙を引き寄せた。鉛筆を取った。描き始めた。


 小さな石の中に、分離の機構を組み込む設計。手のひらに収まる大きさ。握ると魔素が内部を流れ、触れた対象の不純物を分離する。水に使えば浄水。布に使えば汚れの除去。食材に使えば泥落とし。


 十分ほどで基本設計が描き終わった。


 ヴァレンはそれを見て、眼鏡を押し上げた。


 「この原理を一つの工具に集約する設計は——私の知る限り、戦前にも存在しなかった」


 「ないなら作る」





 カイルは壁際で見ていた。


 今、目の前で生まれたもの。浄水だけではない。洗濯、食器洗い、掃除、食材の下処理——家事労働の大部分に関わる。この製品が民衆の手に渡れば、一日の家事の時間が変わる。時間が変われば、暮らしが変わる。


 だが——いくらで作れるのか。民衆に買える価格なのか。量産はできるのか。


 メルケンの声が頭の中に蘇った。「数字が正しくても市場は動かない」。技術の側で原理が生まれた。だが原理が民衆の食卓に届くまでには、価格と流通と信用の壁がある。


 メルケンに聞かなければならない。





 夕方、工場を出た。


 帰り道、ヴァレンと並んで歩いた。


 「ヴァレン殿」


 「はい」


 「ラウルは、本物でしょうか」


 「本物です」


 間があった。高原の夕暮れの風が吹いた。


 「カイル殿、あの若者の設計を見た時、私は一つだけ確信しました」


 「何を」


 「この技術は、もう、一つの家の蔵に閉じ込められるものではない。誰かの書庫に仕舞われるべきものではない」


 ヴァレンの声は静かだった。


 「あの廃屋の中で、貴族の血も師もなく、あの設計に辿り着いた。それは——誇りが、血統に属さないことの証です」


 カイルは何も言わなかった。だが、ヴァレンの言葉が体の中に落ちていくのが分かった。ラドマー卿の怒り。オルデンの粛清の論理。貴族の誇りと竜人族の本当の誇り。——ラウルの設計図が、それらの全てに、一つの答えを出していた。


 答えは言葉ではなかった。廃屋の床の上の、迷いのない線だった。





 ヴァレンを宰相府の宿舎まで送り、別れた。


 カイルは工場に引き返した。夜の気配が既に街を覆い始めていた。ルッツが門で待っていた。「ラウル殿は」と言いかけたルッツに、カイルは首を振った。


 「住む場所がある。連れていく」


 ルッツは眉を一瞬動かしたが、頷いた。


 ラウルは工場の一角で、設計図の上に顔を伏せて座っていた。寝かけていた。カイルが近づくと、顔を上げた。目の焦点が少し合っていなかった。


 「住む場所がある。今夜からそこで寝ろ」


 「……紙は持ってく」


 「持ってこい」


 ラウルは廃屋から持ってきた紙の束を抱え直し、立ち上がった。歩幅は少し不安定だった。四日間の旅と、工場での半日の集中で、体が限界に近かった。だが歩けた。





 中市街の石畳を歩いた。


 上市街の整った石畳とは違う。貴族街が成立する前から積まれた、古い石だった。春の夜の湿気が石の表面を光らせていた。通りの両側に古い屋敷が並んでいた。いくつかは既に雨戸を閉じていた。何世代も続いた家が、接収の風の中で一つずつ静まっていた。


 この界隈にカイルが足を運ぶのは、母の葬儀の日以来だった。三十年以上前。まだ兄たちが生きていて、大戦の前で、王宮の外に出ることが特別な出来事だった頃。幼い頃に母の手を引かれてここを歩いた記憶の欠片が、石畳の匂いの中に薄く残っていた。


 ラウルはカイルの二歩後ろを歩いていた。目が建物の石組みと扉の蝶番を追っていた。どの家のことも知らないはずなのに、構造だけは読んでいた。


 角を二つ曲がり、一つの屋敷の前で止まった。


 石造りの屋敷。鉄の門はもう閉まらなくなっていた。蝶番が錆びて、片方が斜めに垂れ下がっていた。中庭の植え込みは手入れされていない。だが、玄関の扉は重い石の枠に嵌まっていて、これだけは時代を越えて保たれていた。


 カイルは扉を叩いた。





 しばらく間があった。


 扉が開いた。


 金色の髪が、顎のあたりで揃って切られていた。丸メガネ越しの目がまっすぐカイルを見た。質素な木綿の服。袖口に古いインク染み。ペンを持つ指にもインク。カイルより少し年上——人間換算で二十八、九歳——だが、顔は二十五歳前後に見えるほど若く保たれていた。


 幼い頃の記憶の欠片が、身体の底で一瞬揺れた。庭で手を引かれて歩いた時の、指の感触。


 ミレナはカイルを見て、少しだけ笑った。疲れたものを見る目だった。


 「遅かったね」


 初対面の驚きは、ミレナの側には一切なかった。


 「……ミレナ」


 名前だけを、やっと言った。三十年以上の空白が、一言の名前の中で振動した。


 ミレナの視線が、カイルの後ろにいるラウルに移った。一秒ほど見た。


 「リーネが昼に来たの。カイル兄が辺境から職人を連れて帰るから、部屋を貸してあげて、って。——この子ね」


 カイルは頷いた。


 「入って。部屋は掃除してあるから」





 屋敷の内部は古い石の匂いがした。


 玄関ホールの広さだけは伯爵家の規模を残していたが、壁の肖像画は外されていた。暖炉は使われていない。代わりに、奥の机に書類の山があった。契約書の下書き、陳情書の雛形、インク壺、ペン。代書屋の仕事場だった。


 ミレナは母屋から渡り廊下を通って、離れに案内した。広い一部屋。窓一つ、机一つ、簡素なベッド一つ。床の板は古かったが、掃いたばかりの気配があった。


 「散らかしていい。壊さなければ」


 ラウルは部屋の中に入った。目が天井の梁、窓枠の木組み、床の板を追った。しばらく立ち止まっていた。それから、紙の束を床に広げ始めた。


 「ふうん」


 一言だけ言った。ミレナは肩の力を少し抜いて、それを見ていた。





 母屋に戻り、玄関ホールで立ち話になった。


 「家賃は宰相府の規定通り払う」


 「いいよ」


 「医者の費用は」


 「私は代書屋だから看病は出来ないけど、お金があなた持ちなら、医者は必要な時に呼んでいい。遠慮はいらないよ」


 ミレナの声は事務的だったが、最後の「遠慮はいらないよ」だけは、少しだけ柔らかかった。


 「ここ、あなたのお母さんの実家でしょ」


 ミレナが続けた。


 「でも、今は私の家。王族の威光に従って貸したんじゃない。従妹の頼みを聞いただけ」


 そこで、ミレナがはっきり笑った。小さな笑いだった。


 「あなたも遠慮しないで来ていいよ。忙しい時は相手できないけど。——リーネを見てたらよくわかるの。あの子、独立前まで裏道ばっかり通ってたでしょ。今のあなたに、王宮なんて居心地悪いでしょう」


 カイルは答えられなかった。


 「お姉さんだから、そういうのは分かる」





 カイルが玄関を出る直前、ミレナが背後から言った。


 「カイル」


 カイルが止まった。


 「その目の疲れ方、書類を見すぎた目よ。——おばさんと同じ」


 カイルは息を一瞬止めた。


 「母の書く顔を、思い出せない」


 やっと言った。


 「そう。あなたはあまり見なかったね。おばさんは時々実家に戻ってきてて、書斎に籠って法典の写しを作ってた。私は——子供の頃、よく一緒に書斎にいた。紙の匂いが好きだった」


 ミレナの声が少しだけ遠くなった。


 「昔はあなたも、よく来たのよ。覚えてる? 庭で走ってた」


 「……覚えている」


 指の感触が、身体の底でもう一度揺れた。


 「今も、同じように来ていいよ」


 ミレナはそう言って、もう一度笑った。


 カイルは頷いた。扉を開けて外に出た。扉が静かに閉まった。





 中市街の石畳を歩いて戻る時、カイルは一度だけ振り返った。アルブレヒト邸の窓から、離れの一つに灯りが漏れていた。ラウルが紙を広げている明かりだろう。


 母は書斎で法典の写しを作っていた。その事実を、カイルは今夜、初めて知った。子供の頃、母が書斎に籠っていた記憶の欠片が、別の意味を帯び始めていた。書いていたのは、手紙ではなく、法典だった。


 それが何を意味するのかは、今夜は分からなかった。

【豆知識:直接行使と『形成』の違い】


戦前の魔法は、竜人族の専売でした。「直接行使」——天然の親和性で地脈から魔素を引き、体の外に放つ方式です。才能のない者には一生届かない技でした。

第二章で本格化する工具経由の行使は、精製した魔素を魔素造形炉や形成炉で物に組み換え・定着させる方式です。才能の壁を工具で超えるこの方式は、占領下で竜人の天然能力が封じられたがゆえに精製技術を磨く動機が生まれた——という皮肉な副産物でもあります。

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