第37話 廃墟のような工房
地図に名前のない集落だった。
オストーフからさらに東へ。街道が細くなった。
だが風景は細くならなかった。初日、樫の森を抜ける道があった。木漏れ日が道の上に落ち、風が吹くたびに光の模様が揺れた。森の奥から鳥の声が重なって聞こえた。見上げると、枝の間から空が割れたように青かった。森を抜けた先に草原が広がっていた。膝の高さの草が風に倒れ、波のように揺れている。草原の端に小さな沢があり、水音が聞こえた。馬を止めて、沢の水を掬った。冷たかった。手が痺れるほど。
二日目には荷馬車の轍が消え、馬一頭がやっと通れる幅になった。人の気配が薄くなるほど、土地は美しくなった。午後、崖の上に出た。眼下に深い谷が切れ込み、底を流れる川が白い筋になって見えた。対岸の崖に滝が落ちていた。細い滝だったが、岩肌を伝い落ちる水が午後の光を受けて銀色に光り、滝壺のあたりに虹の欠片が浮かんでいた。
リーネに見せたい。もう何度目か分からなかった。この半年、風景を見るたびに同じことを思った。だが辺境に来るほど、その思いは切実になった。この滝を、この森を、この草原の風を、言葉だけで伝えるのは無理だ。いつか必ず連れてくる。
三日目の午後、道が急な斜面に差しかかり、馬を降りて歩いた。手綱を引いて丘を登ると、向こう側に谷が開けた。高原の端だった。山裾と森の境界。空気が湿り、木の匂いが濃くなっていた。
谷の向こうに夕日が沈んでいった。山の稜線が赤く燃え、その下に森の黒い影が広がっている。空の色が刻々と変わった。赤が消え、紫が深まり、やがて一番星が現れた。谷の底から夜が昇ってきた。
ヴェルデンから数えて半年。高原の尾根道を西に走り、交易路を南に下り、東部の丘陵を越え、今、国土の最も遠い端にいる。半年前、宰相府の石の壁の中で帳簿を書いていた自分が、この夕日を見ている。できることならこのまま、まだ見ぬ場所へ歩き続けたかった。この国の外にも、きっと知らない風景がある。
だが谷の向こうに、木造の家が十数軒ほど並んでいるのが見えた。帳簿の上では「辺境集落・人口数十」としか書かれない場所。ここにも竜人が暮らしている。井戸のそばで老人と子供が水を汲んでいた。
集落に入った。家と家の間隔が広い。土壁に木の梁。屋根は板葺きで、石を重しに載せている。庭先で女性が根菜の皮を剥いていた。素手で、小さな刃物一つで。皮は地面に落とし、あとで鶏が食べるのだろう。鶏が足元を歩いていた。
半年の旅で見てきた暮らしの中で、最も簡素だった。蝋燭も少ないのだろう。日没と共に寝て、日の出と共に起きる暮らし。ヴェルデンの上市街で帳簿を書いていた頃、石油ランプの灯りで夜更けまで仕事をしていた。ここにはその灯りがない。だが——さっきの夕日は、ここからが一番美しかった。
カイルは目的地を定めずにここまで来た。ブランドの言葉だけを頼りに、地図の上の名前のない黒い点を選んだ。表通りにはいない。裏の、もっと奥の、誰も行かない場所にいる——あの言葉を信じるなら、街道沿いの町を巡っても意味がない。
老女に一晩の宿を頼むと、お堂を使ってくれと言われた。
カイルは尋ねた。
「この辺りに、工房のようなものは」
老女は少し考えた。
「町外れに一軒だけ、若い男が住んでおります。三年ほど前にふらっと来て、空き小屋に住み始めました。時々、夜中に何かが光るのです」
丘を越えた向こうの谷。松の木の下に、粗末な小屋が一軒あった。
屋根の一部が崩れていた。壁に穴が空いている。廃屋と言ってよかった。だが煙突から細い煙が上がっていた。
カイルは一人で谷を下りた。護衛は丘の上で待たせた。
扉を叩いた。返事はない。もう一度叩いた。中から紙を捲る音がした。
扉を押すと、開いた。鍵はかかっていなかった。
足の踏み場がなかった。
設計図が床一面に散らばっていた。古い紙、新しい紙、大きな紙、小さな紙。全て手書きの構造図。合間に金属の削りかす、真鍮の小さな輪、銅の細い棒、用途不明の針金。壁にも紙が貼ってある。天井の梁に紐で紙が吊るしてある。小屋全体が一つの設計図の中にいるようだった。
部屋の中央の床に、一人の若い竜人がうつ伏せに倒れていた。
カイルは足を速めた。肩に触れた。温かかった。息をしている。ただ眠っていた。設計図の上に、そのまま倒れ込んで眠っていた。
カイルの手の温度に反応して、若者がゆっくり目を開けた。
「……誰」
痩せぎすだった。猫背。顔色が悪い。角は薄く短い。服は何日も替えていない。髪は整えていない。寝起きの目が、焦点の合わないまま、カイルの顔を見た。
——この国が飢えている。その事実が、床に倒れているこの若者の形をしていた。ヴェルデン下市街の失業民衆、街道沿いの夜逃げの家、メルケンの帳面の反動の数字、オストーフの工房の利子の重さ——それら全てが、一つの体の中に縮こめられて、ここに横たわっていた。数字ではなく、言葉ではなく、一人の人間の形で。
「カイルと申します」
若者は頬を床から離し、体を半分起こした。
「旅の人か。俺、何も売ってないぞ」
「何かを買いに来たわけではありません」
「じゃあ何」
「……探しています。新しい設計ができる人を」
若者はしばらくカイルを見た。目の焦点が少しだけ合った。
「設計」
「はい」
「足元に散らばってるのが、俺の設計」
カイルは足元の紙を一枚拾い上げた。
汚れていた。端が折れている。だが——
線が違った。
オストーフの工房で見た設計図は、どれも既存の型を基にしていた。親方の図面を写し、部分的に変えたもの。だがこの紙の上の線は違った。一本一本に迷いがなかった。何かを確信している人間の線だった。
描かれていたのは、魔素製品の構造図だった。手のひらの大きさを想定した設計。内部の魔素の流路が、既存のどの型とも違う原理で組まれていた。流路を細くするのではなく、流路の形状そのものを新しい幾何で描き直していた。
別の紙を拾った。照明と水汲みの機能を一つの装置で切り替える仕組み。握る強さで機能が変わる。
さらに別の紙。離れた場所への魔素の伝達の試案。まだ完成していないが、方向性が——
手が震えた。
一枚目は、手のひらに収まる大きさの工具だった。大型の精製炉でしかできなかったことを、掌の上でやろうとしている。二枚目は、子供が握っても壊れない安全な構造だった。民衆の家の中に置くことを、最初から想定している。三枚目は、離れた場所に魔素を届ける仕組みだった。工場から出て、町へ、村へ、届ける。
ヴァレンが茶碗一つで見せたこと。ルッツが製造ラインに落とし込もうとしていること。オルデンが五十年かけて構想してきたこと。——この若者は、そのどれも知らないまま、同じ場所に辿り着いていた。
貴族の書庫もない。師もいない。専用の材料もない。廃屋の床の上で、紙と鉛筆だけで。
「これは——誰に教わった」
声が掠れていた。
「誰にも。自分で描いた」
「——お名前を、伺っても」
「ラウル」
それ以上は名乗らなかった。家名もない。ただ「ラウル」。
ラウルは体を起こし、壁に背をもたれた。
「本はあるか」
「ない」
「師は」
「いない」
「三年間、ここで一人で——」
「ああ。頭の中にあるものを、紙に出してるだけだ」
カイルは別の紙を見つけた。他の設計図とは雰囲気が異なっていた。
構造図だったが、線が有機的だった。直線と幾何学ではなく、骨のような曲線。生き物の骨格を思わせる形。高原の遺跡で発見された巨大な骨——龍の骨と呼ばれているもの——の形に似ていた。
「この図は」
「それは——夢で見た」
「夢」
「祖先が教えてくれた。夜寝てる時に。こういう形にしろって」
ラウルは軽く言った。深刻に受け取っていなかった。
「古い声で、俺たちの言葉かどうかもよく分からない声。目が覚めて、忘れないうちに描いた」
カイルはその紙を丁寧に持ち上げた。骨のような曲線。祖先の声。——何を意味するのかは分からなかった。だが、この若者の設計図の中で、この一枚だけが異質だった。他の図面は理論から生まれている。この図面は、別の場所から来ていた。
「ラウル」
「何」
「一つ聞いていいか。この設計は、完成しているか」
「完成も何も、作ったことがない。材料がない。ここじゃ普通の金属しかねえ」
「作れる場所がある」
ラウルの目が、初めて焦点を合わせた。カイルの顔ではなく、カイルの手元——自分の設計図を持っている手を見ていた。
「ヴェルデンの宰相府の管轄に、国営工場がある。専用の材料も、道具もある」
「……作れるのか」
「作れる」
ラウルは少し考えた。十秒もかからなかった。
「なら行く」
小屋を出た。
谷を登りながら、カイルは一度だけ振り返った。崩れかけた小屋。松の木。煙突の煙。この場所で三年間、一人で、紙と鉛筆だけで、あの設計図を描き続けていた。
集落のお堂に戻り、老女に出発を告げた。
老女は少し寂しそうに笑った。
「あの若者、ここで三年、静かに生きておりました。集落の者は誰も話しませんでしたが、皆、いるのは知っていました。時々、煙突の煙を見て、今夜も生きておるなと」
「大切にいたします」
カイルの声は低かった。
夜、お堂の土間に座り、膝の上にラウルの設計図を一枚広げた。
線を指でなぞった。迷いのない線。この線は、貴族の書庫から来たものではない。軍の訓練から来たものでもない。廃屋の床の上で、一人の若い竜人が、頭の中にあるものを紙に出し続けた三年間から来ている。
手がまだ震えていた。見つけた、という震えだった。
明日、この若者を連れて帰る。連れて帰った先で、この若者を守る。それが、これから自分がやる仕事だ。




