第35話 最初の商家
ランメルトの町は、石畳ではなく土の道だった。
ヴェルデンから南へ馬で一日。高原を下り始めると、風景が一変した。
尾根道の痩せた灰色の土が、丘の裾では黒い沃土に変わった。畑が広がり、穀物の穂が風に波打っている。道の両側にポプラの並木が続いていた。細い幹が空に向かって真っ直ぐに伸び、葉が風に揺れるたびに裏の銀色が光った。木洩れ日が道の上に細い模様を作り、馬が進むたびにその模様がずれていく。
高原の上にはなかった温もりだった。空気が柔らかい。草の匂いが濃い。道端に野の花が咲いていた。紫と白の小さな花が、石の間から顔を出している。名前は知らなかった。王宮の庭にある花とは違う。誰かが植えたのではなく、勝手にそこにいる花だった。
リーネなら花の名前を知っているかもしれない。——あるいは知らなくても、膝をついて観察するだろう。「カイル兄、見て。ここにも咲いてる」と。連れてくればよかった。この並木道を一緒に歩けたら、妹はどんな顔をするだろう。
交易路に出た時、初めて鉱人族の荷馬車を見た。頑丈な造りの低い車体。車軸が太く、荷台に金属の箱が積まれていた。馬ではなく、背の低い牛が二頭で引いている。御者の鉱人族は小柄で、腕だけが太かった。すれ違いざまにカイルの角を一瞥し、何も言わず通り過ぎた。
丘を二つ越えると、穀倉地帯の端に小さな町が現れた。市場の周りに商家が並び、その先の畑が地平まで続いている。高原の上とは違う空の広さだった。石造りの建物は少なく、木と漆喰の壁が多い。窓辺に花を飾っている家があった。宰相府の回廊とは別の世界だった。
市場を通り抜けた。肉を吊るした台、穀物を量り売りする秤、布を広げて並べる露店。女性が秤の上の穀物と、手の中の硬貨を交互に見ていた。硬貨を一枚戻し、穀物を少し減らしてもらっていた。一枚の硬貨の重さが、宰相府とここでは違う。カイルの日当で買えるものと、この女性の一日の稼ぎで買えるものは、同じ市場の同じ秤の上で、別の重さだった。
通りの端で、老人が蝋燭を売っていた。細い蝋燭が束にして紐で括られている。一本ずつ買う客がいた。一本で一晩の灯り。二本は買えない。夜の長さが、蝋燭の本数で決まる暮らし。
オルデンの指示は「民間移管の受け手を探せ」だった。国営工場を民間に渡すには、引き受ける意志と運営能力と宰相府への信頼を持つ商家が要る。トーヴァの連絡員一覧に「最初の訪問先として適切」と注記された商家が、メルケン商会だった。穀物と織物を扱う中規模の商家。当主はヤコブ・メルケン。人間族。六十代。
商会の建物は市場の一角にあった。石造りの二階建て。正面の看板は色褪せていた。長い家業の証。
メルケンは応接室で待っていた。
丸い顔に太い指。だが目が鋭かった。人間族の六十代は、竜人の感覚では若い。だがこの男の目には、数字と人の顔を長年同時に見てきた厚みがあった。
カイルが名を告げると、メルケンは僅かに眉を動かし、深く頭を下げた。
「末王子殿下でしたか。話には聞いておりましたが」
茶が出た。竜人の薬草茶ではなく、焙煎した穀物の茶だった。香ばしい匂いが立った。
カイルは本題に入った。
「メルケン殿。宰相府は国営工場の民間移管を進めています。貴商会に、引き受けのご相談をしたい」
メルケンは頷いた。驚きはなかった。この話が来ることを予想していた顔だった。
「殿下、一つ、率直に申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「宰相府の帳簿は正確でしょう。工場の生産量、在庫、工員数。殿下はその数字をお読みになって、この商会が適切かどうかを判断なさるおつもりでしょう」
「……はい」
「殿下。数字が正しくても、市場は動きません」
カイルは口を閉じた。ルッツに「数字の裏が見えていない」と言われ、工場で炉の温度を知り、ヴァレンに技術の本質を見せられた。そして今、別の角度から同じことを突きつけられている。
「工場に精製炉が三基動いていたとして、そこから出てくる製品を誰が買うのですか。買う人がいなければ、工場が動いても経済は動きません」
メルケンの指が卓を軽く叩いた。商人の癖だろう。
「殿下がお持ちなのは、供給の側の数字です。需要の側——民衆が何を必要としているか、いくら払えるか、どこで手に入れたいか——それは帳簿には書いていません」
「では、需要の側を教えていただけますか」
「教えましょう。ただし、ただではありません」
「条件は」
「民間移管の条件について、こちらの計算も聞いていただくこと。宰相府が一方的に決めるのではなく、民間の計算と宰相府の計算を、対等にテーブルに載せること」
「承知しました」
メルケンは卓の上に帳面を広げた。商人の帳面だった。字は大きく、数字の横に走り書きの注記がある。宰相府の帳簿とは書き方が違った。数字の横に「雨の年は値が上がる」「北の道は冬に閉じる」と書いてある。数字と、数字の外にある条件が、同じ紙の上に載っていた。
「この国の民衆の余裕は、今、ほとんどありません。新しい製品を作っても買えない。買えなければ売れない。売れなければ工場は止まる。止まれば工員が仕事を失う」
メルケンは帳面の別の頁を開いた。数字の列。
「穀物の値段が、先月から二割上がっております。特需期に穀物の買い付けが活発でした。今は買い付けが止まり、だが値段だけが下がらない。下がるべき時に下がらぬのは、売り手が値崩れを恐れて出し惜しむからです。同じ頃、工員の日当は三割下がりました。買える物の値段が上がって、買う金が減っている。これを反動と呼びます」
メルケンの指が帳面の余白を叩いた。
「反動は数字だけでは止まりません。数字を知っている人間の気持ちが止まらぬと、市場は動き出さぬのです」
「では——」
「最初の一周を、誰かが押す必要があります」
メルケンは帳面の上に指で円を描いた。
「工場から出た製品が民衆の手に届き、民衆の暮らしが少しだけ楽になり、その余裕で次の製品を買う。次の製品が売れれば工場が動く。工場が動けば給金が出る。——この輪を最初に回すのが、殿下の仕事です」
条件交渉に入った。
土地の使用権、技術者の雇用、利益の分配。メルケンは一つずつ、商人の計算で提示した。
「土地の使用料は、売上に連動する比率にしたい。固定の使用料は民間を圧迫します。売上が低い時は負担が軽く、伸びれば宰相府にも返る」
「売上連動——」
帳簿にはない構造だった。帳簿には「使用料いくら」としか書けない。だがメルケンの提案は、金額ではなく仕組みを変えていた。
「承知しました。この条件で宰相に報告します」
「殿下」
メルケンの目が変わった。商人の鋭さの奥に、別のものが出た。
「この商会は、宰相府の道具にはなりません。商家は商家の計算で動きます。計算が一致する時に手を組み、一致しない時は引く」
カイルの掌が膝の上で少し汗ばんだ。この言葉の重さが分かった。道具にはならない——それは、対等であることの宣言だった。宰相府の末王子に向かって、人間族の商人が対等を求めている。
「その覚悟は、あります」
声が出た。考えてから言ったのではなかった。
メルケンは一瞬、カイルの目を見た。それから、僅かに頭を下げた。
帰り際、メルケンが奥の部屋にカイルを招いた。
蔵書の部屋だった。壁一面に古い書物と巻物が並んでいる。
「殿下、一つ、別のものをお見せしたい」
メルケンは棚から古い地図を取り出した。羊皮紙。端が黒ずんでいる。百五十年以上前のものだと分かった。
「先代が鉱人族の使節から贈られたものです。地図そのものは古い交易路の記録ですが——余白に、書き込みがあります」
地図を広げた。古い交易路の線が引かれている。その余白に、先代メルケンの字で注記があった。
「先代は、使節と酒を飲みながら話を聞いたそうです。使節が言った。——『我らの祖は、山より大きかった。だから今、地下に住むのだ』」
カイルは地図の余白を見た。「山より大きかった」。その字は、先代メルケンの手で、少し震えたように書かれていた。酒の席で聞いた言葉を、急いで書き留めたのだろう。あるいは——その言葉の重さに、手が震えたのかもしれなかった。
獣人の商人が口にした「造形の間」。「角は生まれつきか」。そして今、鉱人族の「山より大きかった」。三つの断片が、頭の中に並んだ。繋がりはまだ見えない。だが三つとも種族の身体に関わる言葉だった。
商会の門のところで、メルケンが振り返った。
夕暮れの光がこの商人の横顔に当たっていた。
「殿下、もう一つだけ」
「はい」
「宰相府の使者の方が、我々の話を最後まで聞かれたのは——何十年ぶりかもしれません」
カイルの足が止まった。
何も特別なことはしていなかった。聞いただけだ。メルケンが話すことを、黙って聞いた。それだけのことが、数十年ぶりだと言われている。宰相府と民間の間に、それほどの距離があったのだ。
「……こちらこそ、教えていただきました」
「教えるのは、これからも続きます。殿下がお越しになる限り」
「通います」
メルケンは頷いた。
帰路の土の道を馬で進んだ。日が沈みかけていた。
数字が正しくても市場は動かない。需要の側。最初の一周。売上連動。道具にはならない。——メルケンの言葉が一つずつ、馬の揺れの中で体に沈んでいった。
そして「何十年ぶり」という一言が、どれよりも重く残っていた。
聞くこと。それが、ここから始まる仕事の最初の一歩なのだ。




