第34話 変容する物質
馬で四日かかった。
ヴェルデンを出ると、すぐに風が変わった。上市街の石畳の上を滑る風とは違う。高原の尾根道を吹き抜ける風だった。冷たく、乾いていて、遠くの匂いを運んでいた。
七年間、宰相府の窓から見ていた高原の稜線。その上を、今、馬で走っている。
初日の午後、尾根道が丘の頂に出た時、馬を止めた。
眼下に谷が広がっていた。両岸を急な斜面が挟み、底を細い川が流れている。川の水面が午後の光を受けて白く光っていた。斜面は一面の緑で、ところどころに灰色の岩肌が覗いている。谷の向こうに、別の尾根が立ち上がっていた。その尾根の向こうに、さらに別の尾根。幾重にも重なる稜線が、遠くなるほど青く霞んでいく。最も遠い一本は空の色に溶けかけていた。
この景色が、ずっとここにあった。七年間、宰相府の窓から同じ方角を見ていた。石の壁に切り取られた四角い空の向こうに、これがあった。
リーネに見せたい、と思った。王宮から出たことのない妹。同じ窓から同じ空を見て育った。帰ったら話そう。この谷のこと、光のこと、風の匂いのこと。——いや、話すだけでは足りない。次は連れてこよう。
夜、谷の底に地脈の淡い光が走るのを見た。光が霧のように谷底を満たした。ヴェルデンの光の谷とは比べものにならない細さだったが、暗い谷を青白い光が静かに流れる様は、息を止めて見るほどだった。ルッツは馬の世話をしていて、見ていなかった。この光景を見たのは自分だけだった。
二日目、丘を越えるたびに風景が変わった。朝は草地の斜面に朝露が光っていた。牛が数頭、霧の中で草を食んでいた。霧が晴れると、谷の向こうに雪を被った高い峰が見えた。峰の稜線が朝日を受けて金色に光り、その下に濃い青の影が落ちていた。
集落がまばらになった。石造りの農家が丘の斜面に点々と建っている。屋根に苔が生え、壁に蔦が這っている。垣根の間に洗濯物が干してあった。風に揺れる白い布の向こうに、畑の緑が見えた。
だが、その集落の端に、三軒、煙の上がらない家があった。屋根の苔も他の家より濃く、窓に板が打たれている。垣根は崩れ、畑は雑草に覆われている。井戸のそばで水を汲んでいた老婆が、ルッツの馬を見上げて、静かに言った。
「夜逃げしました。借金で。特需の時に工房に出稼ぎに行って、借金して炉を増やした家族でした。特需が終わって、利子が払えなくなって、夜の間に荷物をまとめて出ていきました」
老婆は井戸の縁で桶を止めて、続けた。
「三軒、一月の間に。——隣の集落では五軒だそうです」
カイルは馬の上で頷くことしかできなかった。ルッツは何も言わなかった。その沈黙が、老婆の言葉を繰り返しているようにも聞こえた。
昼に集落の井戸で水を分けてもらった。女性が桶を持って並んでいた。井戸の水は冷たく、少し濁っていた。王宮の水は透明だった。宰相府の水も透明だった。ここの水は違う。女性が桶の水を布で濾してから鍋に移していた。濾すのに時間がかかる。その間、子供が足元で土を掘っていた。
午後、峠を越えた。峠の上に立つと、西の斜面が一面の牧草地だった。緑が風に波打っている。遠くに湖が見えた。山の間に嵌め込まれた鏡のような水面。空の色をそのまま映して、青く、静かに光っていた。
馬を降りて、しばらく立っていた。ルッツが少し先で振り返った。
「殿下?」
「……少しだけ」
目に焼きつけていた。リーネに話すために。窓の向こうにしか世界を知らない妹に、この色を、この広さを、言葉にして持ち帰るために。——できれば戻りたくなかった。このまま何年もかけて、この国の隅々を、まだ見たことのない場所を全て歩きたかった。宰相府の石の壁の中には、この風はない。
三日目の夕刻、小さな集落で宿を借りた。農家の納屋の二階。藁の上に毛布を敷いて寝た。夕食に出された黒パンは硬く、噛むと粗い粉の味がした。王宮のパンとは別のものだった。付け合わせの根菜の煮物は塩だけの味つけだった。家の主人は申し訳なさそうに「他に何もなくて」と言った。カイルは最後まで食べた。この食事が贅沢なのか普段通りなのか、分からなかった。分からないこと自体が、自分の立っている場所を教えていた。
四日目の夕刻に、ラグリスという町の外れに着いた。丘の上に、古い邸宅の屋根が見えた。
町に入って、すぐに気づいた。
井戸の横に、見慣れない石が据えてあった。拳より少し大きい灰色の石。桶に水を汲み、その石を沈めると、水が僅かに澄んだ。完全に透明にはならない。だが、他の集落で見た濁った井戸水とは明らかに違っていた。
井戸だけではなかった。通りに面した農家の戸口に、小さな金属の板が取り付けられている家があった。何の道具か分からなかった。ルッツに聞くと、事務的な声で答えた。
「防虫です。魔素の微弱な放出で虫を寄せない。先生が作られたものです」
「ヴァレンが——」
「先生は敗戦の後、資産の全てをこの町に使うと決められました。自分の手で道具を作り、少しずつ配っておられる。八年ほどになります」
カイルは通りを歩きながら見た。全ての家にあるわけではない。十軒に一つか二つ。数が限られている。一人の手で作れるものには限りがある。だが——それが置かれた家の周りだけ、暮らしの色が少し違っていた。井戸端で水を濾す布がない。戸口に虫除けの煙が焚かれていない。小さな違い。だが確かに、ここだけが少し先に進んでいた。
ルッツは歩きながら、低く続けた。
「接収令が出る前から、先生は自分の資産を使い切るおつもりでした。財産を取り上げられるのと、自分の手で人に渡すのは、同じではない——先生はそうお考えです」
カイルは黙った。オルデンが布告で旧貴族の財産を接収しようとしている。ヴァレンは、接収を待つまでもなく、自分から手放していた。同じ結果でも、手放す側の意志は違う。
オルデンはカイルに住所だけを渡していた。
「ヴァレン・オーフリートだ。会ってこい。お前の目で見て、判断しろ」
ルッツが名前を出した時に「先生」と呼んだ人物。安全弁の二系統設計の発想者。技術者保護リストの先頭に名が載っていた男。——そしてこの町に八年、一人で道具を配り続けてきた男。
ルッツは四日間、馬の上でほとんど喋らなかった。事務的な男だった。だが、ラグリスの丘が見えた時、一度だけ口を開いた。
「殿下、先生は——初対面の人間に、多くは語りません。ただ、手を見てください」
「手を——」
「先生の手の動きを、見ていてください」
門の片方の柱が傾いていた。庭は雑草に覆われていた。旧オーフリート家の副邸。財産接収令で多くが取り上げられている。だが、煙突から細い煙が上がっていた。
扉を叩いた。
開けたのは、百七十歳前後の竜人の男だった。背が高く、痩せている。眼鏡をかけていた。動きが静かで、扉を引く手が音を立てなかった。角は細く長い。旧貴族の血筋に見られる形だった。
「お待ちしておりました」
カイルは「訪問の予告はしていません」と言いかけた。
「オルデン宰相から、いずれ誰かを送ると聞いておりました。末王子殿下であろうとは、思いませんでしたが」
声は静かだった。穏やかさの中に、長い時間をかけて整えた種類の落ち着きがあった。
「お入りください。カイル殿」
応接間に通された。質素な部屋だった。壁に古い写真がいくつか掛かっている。
一枚の写真に、カイルの目が止まった。
若い頃のヴァレンが、数人の技術者と並んで立っていた。背後に大きな精製炉がある。炉の形は——軍用仕様の精製炉だった。写真の中のヴァレンは笑っていた。まだ眼鏡をかけていない。目に迷いがなかった。自分が作っているものが何を殺すか、まだ知らない目だった。
ヴァレンがカイルの視線に気づいた。立ち上がり、写真の前に行き、白い布をかけた。
手つきが静かだった。迷いがなかった。毎日のように繰り返してきた動作なのだと分かった。捨てない。壊さない。ただ布をかける。過去は布の下にある。
「この写真は、お見せすべきではありませんでした」
「戦時中の——」
「軍事魔導具の開発に動員されました。私が作ったものが戦場で何をしたか——戦後に知りました」
声は揺れなかった。長い時間をかけて、揺れないようにした声だった。
「この手で、もっと別のものが作れたはずでした」
奥の仏壇に、若い少女の写真が一枚あった。
「娘でございます。大戦の末期に」
それ以上は言わなかった。
奥から足音がした。百三十代の女性が茶を運んできた。ヴァレンの妻。目元に長い年月の疲労があった。茶碗を三つ——ヴァレンとカイルとルッツの前に、一つずつ、音を立てずに置いた。一言も発さなかった。置き終えると仏壇の方を一度だけ見て、奥に戻った。
カイルは茶碗を見た。湯気が立っている。薬草の茶だった。ヴェルデンとは違う香りがした。
ルッツは黙って茶碗に口をつけた。この家に来るのが初めてではないことが、その動作に出ていた。
ヴァレンは茶碗を手に取り、両手で包んだ。
「カイル殿、魔素について、どの程度ご存じですか」
「精製と流通の基本は。竜人族の天然の親和性についても、帳簿上の知識はあります」
「帳簿上の——」
ヴァレンは小さく頷いた。
「では、一つだけ。これを見てください」
茶碗を卓の上に置いた。それから、自分の右手を茶碗の横にかざした。
何も起きなかった。数秒、静かに手をかざしていた。
茶碗の中の湯が、微かに揺れた。湯気の立ち方が変わった。上に昇っていた湯気が、横に流れ始めた。茶碗の縁が白く曇った——温度が変わっている。
「魔素は燃料ではありません」
ヴァレンの声は静かだった。手は動かない。だが茶碗の中の湯が、わずかに色を変え始めていた。透明だった湯が、ほんの少しだけ——青みを帯びていた。
「エネルギーと物質の連続体です。同じ魔素が、熱にも、光にも、固体にもなる。一つの存在が、意図に応じて形を変える」
手を離した。茶碗の中の湯は元に戻った。青みは消えていた。
「今、温度を変え、水の色を変え、湯気の方向を変えました。三つの異なる作用です。だが使った魔素は一つ。私の中にある、ごく少量の魔素です」
カイルは茶碗を見つめた。先ほどまで飲んでいた茶と、同じ茶だった。だが今、この茶碗の中で何が起きたのか——帳簿にはない種類の現実が、目の前にあった。
ヴァレンは眼鏡を押し上げた。
「魔素の作用は四つに分かれます。形成——物質を作る。成長——生命に作用する。空間——物理法則を局所的に変える。情報——魔素が設計図を記憶する。今お見せしたのは、空間系の最も基本的な操作です」
「この四つが——」
「戦前は全て、王家と貴族の独占でした。民衆は恩恵をほとんど受けていない。蝋燭と手洗いの世界のまま、何百年も」
ヴァレンの声の底に、別のものが混じった。静かな怒り——というよりも、静かな恥だった。
「これだけのことができる技術を、私たちは何に使いましたか」
ヴァレンの目が、布をかけた写真の方を向いた。
「兵装に。そして、貴族の書庫に。民衆は蝋燭の下で暮らしたまま、何百年も」
カイルはヴァレンの手を見ていた。ルッツが言った通りだった。この人の手は語る。茶碗の横にかざした時の、指先の微かな集中。技術を扱う人間の手だった。
「あの茶碗一つで、井戸の水が清潔になります。畑の土が変わります。壊れた壁が直ります。——それを、誰もやらなかった」
ヴァレンは卓の上に一冊の手帳を置いた。古い革の手帳。
「これは、オルデン宰相がお預けになったものです」
カイルは手帳を開いた。
技術者の名前が並んでいた。名前の横に、専門分野と所在地。オルデンの筆跡だった。見慣れた、硬い字。手帳の二頁目の先頭に、ヴァレンの名前があった。名前の横に、小さく——「戦前からの同志」。
カイルの指が、その文字の上で止まった。
オルデンの筆跡が、他の名前の横のものとは違っていた。他の名前は事務的に書かれている。ヴァレンの名前の横だけ、筆圧がわずかに強い。
「宰相と私は、戦前に一度だけ酒を飲んだことがあります」
ヴァレンの声は静かだった。
「その席で宰相は言いました。『この国の魔素は、戦のためのものではない』と。私も同じことを考えていました。だが——あの時代には言えなかった。言えば敗北主義者と呼ばれます」
「五十年——」
「宰相は五十年です。私は、五年。だが、五十年の中の最後の五年を担えたことを——光栄に思っています」
帰路の支度をしている時、ヴァレンが玄関で待っていた。
「カイル殿」
「はい」
「私が作った兵装が人を殺し、別の兵装が私の娘を殺しました。戦とは、そういうものです」
声は平らだった。
「だから、次に作るものは、人を殺さないものにします。それが——」
言葉を切った。切ったのではなく、そこで終わっていたのだ。それ以上の言葉は必要なかった。
カイルは頭を下げた。
馬の上で、カイルは自分の掌を見た。
ヴァレンの手を思い出していた。茶碗の横にかざした時の、静かな手。写真に布をかけた時の、迷いのない手。あの手が兵器を作り、あの手が兵器を覆い、あの手がこれから民のための道具を作る。同じ手だった。
ルッツが隣で馬を進めていた。
「殿下、先生の手、見ましたか」
「見た」
ルッツは頷いた。それ以上は言わなかった。
高原の道を馬が進んだ。西の空に夕暮れの光が広がっていた。四日かけて帰る。四日の間に、今日見たものを、体の中で整理する。茶碗の中で色が変わった水。四つの作用。五十年の信念。写真の上の白い布。娘の写真の前を通り過ぎた妻の背中。
帳簿の向こうに工場があった。工場の向こうに技術があった。技術の向こうに——人がいた。
【豆知識:絶縁素材『閉じた鉱』】
抽出した魔素を運搬するには、魔素を通さない鉱人族の特別な絶縁鉱物「閉じた鉱」で作られた容器が必要です。これがなければ魔素は空中に飛散し、容器の外側の人間にも害を及ぼします。
「閉じた鉱」は鉱人族の国コヴァルドの深層坑でしか採れず、採掘の権利は彼らが独占しています。アストラードが魔素産業を外へ展開しようとすればするほど、この鉱の輸入量が増え、コヴァルドへの依存が深まる——第二章の国際情勢の静かな骨組みです。




